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こころの旅<神谷美恵子コレクション>

■こころの旅<神谷美恵子コレクション>みすず書房 20190430
 母親の体で受胎し、生まれて育ち、結婚し、やがて死ぬという一生を通して、人間の心はどうやって成長し、成熟していくのかを明らかにしている。
 人間の赤ちゃんは生まれたばかりでも笑顔を浮かべる。それは心理的ではなく生物学的な反応で、それによって母親は生きる喜びを感じ、母性行動を触発する。育児のイニシアチブは赤ん坊の側にある。
 ひとり立ちができるようになると、世界はちがった風景に見えるようになり、子どもは行動の主体となり、ものに働きかけることができる。
 6歳から11歳は、抽象的にものを考える力も発達し、死や死後の世界を考えはじめる。たしかにあの年代、死ぬということが無性に怖かった。
 子どもになりきって、その思いを代弁するかのよう。サルトルの小説を思わせる。
 思春期は青年の多くが一時的に芸術家になる。その審美的傾向を一生持ち続けられれば、「生きがい」の強敵である「退屈病」を免れることができるが、中年になると大部分の者は現実に密着してしまう。
 アイデンティティーの確立のために、「自分は何者であるか、これからどういう役割と目標に向かって歩いて行こうとするのか、と考える。学生時代の青臭い議論や読書会を思い出すと共に、そこで得たはずの「生きがい」がいま見えなくなってしまったことに気づかされる。
 真剣な恋をして苦しむことで、他人の人生に思いやりが深くなることもあるという。たしかに恋愛によって心の襞は深くなる。でも、他人の気持ちをくめるようになるには死の実感が不可欠のような気がする。自分と恋人の結核を経験した筆者にはそれがあったが、私の思春期にはなかった。
 中年以後が真に人間らしく生きていける時期であり、「一生を貫くほどの生存目標がそれまでになかった人は、今こそ、少なくとも心理的に一度まったく孤独なってみて、今後の生き方について自問してみる必要があるかもしれない」と突きつける。それにはどれほどの孤独が必要なのか。人はそれに耐えられるものなのか。「過去を切り捨てられないための不決断こそ、人生後半を悔いの多い、愚痴の多いものにしてしまう恐れがある…。それは青年期よりも深刻な「危機」であろう」「過去の生涯を無意味だったと思う人は死を受け入れようとせず、充実した生涯を送ったと確信する人ほど、死に対してあまり不安を抱かないものである」…
 筆者は中年や老年の人に、よりきびしく自分の人生と向き合うことを求める。

 年老いて引退すると「社会的時間」の枠がはずされていく。
 それに対応するには、向老期のころから、「生きる時間」の用い方を考え、「超時間的に」時間を見ていく必要がある。それによって、自分の一生も、悠久たる永遠の時間から切り取られた、ごく小さな一部分にすぎず、永遠の時間に自分は属していると感じられる。そして時に、その「永遠の今」を瞬間的にでも味わえることがある。筆者はそんな神秘的な体験を経ている。
 宇宙的時間に対する感覚が生まれると、青年期の第2の転回より徹底した第3の転回に行き着く。すべては永遠の時間に合一するための歩みと感じることで、死を越える未来が開ける。
 死をいたずらに恐れるよりも、孤独の深まりゆくなかで、1日1日を大切に生きよう。旅の行きつく先は宇宙を支配する法そのものとの合体にほかならない。そこに安らぎがあることを、高齢の人は直観していることが多いという。
 たしかに、Rは死の直前、それまでの涙がうそのようになぜか明るかった。お迎えを感じているようだった。

 そんな人生の最後を送るためにも、愛し愛されること、美しいものに接すること、学ぶこと、考えること、生み出すことが大切だ。「真にこころを喜ばすものに…深めて行くとき、そこに時空を超えたものを、たとえ瞬間的にでも、かいま見ることもある」「さまざまな人と出逢い、互いにこころのよろこびをわかちあい、しかもあとから来る者にこれを伝えて行く…。じつはこのことこそ真の愛というもので、それがこころの旅のゆたかさにとって一番大切な要素だと思う……」

 一生を自分や他人の人生と真正面から向かいつづけた筆者の言葉は、宗教者そのものである。

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▽22 人間らしさ。二本足で立つようになったこと。その結果、脳を支えやすくなり、前頭葉や側頭葉が発達して言葉が使われるようになったこと。
▽25 子どもは少なくとも生後3年間は同じ保育者によって個別的に育てられる必要があり、イスラエルやソ連の集団保育の結果、個性に乏しい、知的・情緒的発育不全の「平均人」が育ってきたという。
▽64 人間一生のこころの旅は、一生の終わり近くなってはじめて好ましい旅であったかどうか云々できるのだと思う。
▽70 6歳から11歳 嵐に揺さぶられない「なぎ」のとき。…抽象的にものを考える力も発達。宇宙的感覚や形而上学的世界の存在の予感を抱くものもある。死や死後の世界を考えるものもある(〓無性に死が怖くなる時期だった)
 …独学能力と思考能力を身につけること…どこにおかれても一生ひとりで学びつづけられる人をつくるのが、学校教育の目的であるとさえ私は思う。
▽78 母またはその代理者というひとりの人物に連続して世話をしてもらった経験がないと、子どもは時間と空間のなかで行動を組織立てることができず、具体的事象を超えて中傷する能力が育たないという。
▽88 思春期 自己対自己という精神構造の分化はヒトだけにみられる…ここではじめて完全に人間性が開花するといえるのではなかろうか。
▽92 青年の多くは一時的に芸術家になるといえよう。この審美的傾向を人間が一生持ち続けられるならば「生きがい」の強敵のひとつである「退屈病」から免れることができるのに、…中年になると大部分の者は現実に密着する傾向がある。
▽98 アイデンティティーの確立「自分は何者であるか、自分はどこにどう立ち、これからどういう役割と目標に向かって歩いて行こうとするのか」を見きわめること。(〓学生時代の青臭い議論、読書会。でも確立したつもりだったのに忘れてしまった。今の方がもっと必要な気がするが)
▽115 真剣な恋をする…苦しい隠忍ののちに今まで以上に他人の人生に思いやりが深くなり、こころの旅の味わいがゆたかになる人もある。
(〓人の気持ちまではわからない、そこまで成熟はできないが、恋愛を繰り返すと語ることはできるようになる。気持ちをくむには死の実感が必要なのかも)
▽120 結婚適切な配偶者を選び、結婚のなかで「親密さ」を実現し得た者は、他の人々との対人関係が格段に広く、豊かに自由になるのを経験するだろう。…ひとりの異性をはじめてよく知ることによって、異性全体への認識も深まり、人生全体への展望が開けるといっても過言ではないだろう。〓
▽128 満足のゆくこころの旅をするためには、人間は自分以外の人やものごとに力を注ぎ、、その「世話」をするようにできているらしい。
▽139 中年以後が真に人間らしく生きていけるときとさえいえよう。一生を貫くほどの生存目標がそれまでになかった人は、今こそ、少なくとも心理的に一度まったく孤独なってみて、今後の生き方について自問してみる必要があるかもしれない。(〓そういうことなのか。これほどの孤独が必要なのか)
▽140 過去を切り捨てられないための不決断こそ、人生後半を悔いの多い、愚痴の多いものにしてしまう恐れがある。青年期よりいっそう深刻な「危機」であろう。
▽149
▽152 「知恵とは即ち死に直面しても人生そのものに対して執着のない関心を持つことである。これのそなわった人間は、心身の衰えにもかかわらず、自己の経験の統合を保ちつづけ… 知的能力と共に、責任を持ってあきらめる能力を併せ持つならば、老人たちのうちには、人間の諸問題を全体的に眺めることができる人々がある」
▽155 その時その時を精いっぱい生きてきたなら、自分の一生の意味の判断は人間よりも大きなものの手に委ねよう。こういう広やかな気持ちになれば、自分の過去を意味づけようとして、やきもきすることも必要でなくなる。
▽158 老年になるにつれて、時間を短く感じるという事実。
…なにもせずに過ごす時間、繰り返し単調な仕事をしている時間は、長く退屈なものと、その時には感じられるが、あとからかえりみると、きわめて短く感じられる。
▽160 引退した人間の最大の問題のひとつは、「社会的時間」の枠が次第にはずされていくことにある。…
 向老期のころから、自主的に自分なりのペースで「生きる時間」の用い方、配分の仕方を考え、時間そのものについても洞察を深め、「超時間的に」時間を観ずることができるようになるのが望ましい。そうすれば、自分の一生の時間も、悠久たる永遠の時間から切り取られた、ごく小さな一部分にすぎないことに気づくであろう。
▽162 永遠の時間は自分の生まれる前にもあったように、死んだ後にもあるのだろう。自分はもともと「宇宙的時間」に属していたのだ。だからその時間は自分の生きている間も自分の存在を貫き、これに浸透していたのだ。現に一生のうち、、その「永遠の今」を瞬間的にでも味わう恵みを与えられた人もある。〓
…こういう宇宙的時間に対する感覚が生まれてくると、青年期の第2の転回よりはるかに徹底した第3の転回に行き着くのだろう。それにしたがって、老いつつある人間にも死を越える未来が開けるだろう。すべてはその永遠の時間に合一するための歩みと感じられてくるだろう。
▽178 (結核で亡くなった女性)この人のなかには、自分に病苦を与えたものに対する「愛」さえはっきりみとめられた。(チンも〓)
▽182 愛は他人から来る前に、すでに人生そのものを取り巻き、これを支える大きなものから来ていたことを感じる人もあろう。そういうところまできたとき、人は生かされてきたことも、苦痛や病気を与えられたことも、やがて死んでいくことも、この大きなものの配慮のなかにあることをおぼえて、深い安らぎをおぼえることであろう。
▽186 死そのものへのおそれも誰にでもあるだろうが、そのおそれの内容は多くの場合「死ぬときの苦しみへの恐怖」である。じっさいに若ければ若いほど生が死に抵抗する度合いは大きい傾向があるから、死ぬのもなかなか容易でないことがある。
 若くして、生きる時間があまりないという人でも、宗教的、または哲学的に死そのものを達観できる人もある。
▽187 安らかな老年を迎えて長寿をまっとうする人。向老期という危機を通り越して、悠々たる時間のなかに生きている。生かされている1日1日を楽しんで…
▽190 晩年に人生への諦観が深まるとき、…それを純粋にあらわすには、言葉よりも、たとえば音楽のほうが適している。バッハのゴールドベルグ変奏曲やフーガの技法ほど見事なものはない。ベートーベンの弦楽四重奏曲も。
…生が自然なものなら、死もまた自然のものである。死をいたずらに恐れるよりも、現在の1日1日を大切に生きていこう。孤独の深まりゆくなかで、静かに人生の味をかみしめつつ、さいごの旅の道のりを歩んでいこう。旅の行きつく先は宇宙を支配する法そのものとの合体にほかならない。そこにこそ安らぎがあることを、少なくとも高齢の人は直観しているように見えることが多い。
…有用性よりも「存在のしかた」そのものによってまわりの人々をよろこばすところが幼児と共通している。
▽194 気を許せるもののなかで、安らかに暮らすことができれば、老いは自然にゆるやかな形で進行し、死もそのトゲを失い、やがて自他の区別もなく、時空をも超えたまどろみのなかで、この世を去って行くのであろう。
…この世における人間のさいごの生命は、本人の意識を超えている点で、この世に生まれ出るときに似ている。
▽196 死にゆく病人が意識的に考えることは、自分の過去の生涯を巡ってのことが多い。自分の一生が失敗だったと信じると、苦悩に満ちた欲求不満におそわれる。(チンに手紙を書いたこと〓)
▽198 多くの患者は死病にかかるとまったく受け身になり、ただ死ぬのを待つという姿勢をとるものだが、患者が画家とか作家であった場合、その仕事をまたやるように進めるのがよい。創造的活動
▽過去の生涯を無意味だったと確信する人は死を受け入れようとせず、充実した生涯を送ったと確信する人ほど、死ぬ用意ができており、死に対してあまり不安を抱かないものである。
▽201 高齢で迎える死の苦しみはきわめて軽く、また意識されないことも多い。病そのものの生命力も衰えているから、進行はゆるやかで、病状も穏やかなものである傾向が見られる。
▽203 生と死、さらに高い次元の世界で調和しているにちがいない。ただ、この宇宙的次元にまでこころを高めることは至難のわざに近い。そこを洞察し、さまざまな比喩を持って人間に示したのが宗教であり、哲学なのだろう。
▽203 苦痛や病気に出会った人、自分のこころの弱さに気づいた人は、悩みが多かった代わりに、人生をとりまく広大な形而上学的次元の世界に目を開かされる機会も多かった労。…死への歩みもその力にゆだね、死は新しい、より高い次元への解放、または「飛翔」の時として期待されても不思議ではない。
…人間の一生は晩年になって乳児期に回帰しようとする、ひとつの円環をかたちづくっているようにも見えてくる。少なくともこころの旅にとって時間というものは普通一直線に「無」に向かって流れていくものではないと感じられるのではなかろうか。
▽206 人間のこころの喜び。愛し愛されること、あそび、美しいものに接すること、学ぶこと、考えること、生み出すこと。
…真にこころを喜ばすものに…深めて行くトキ、そこに時空を超えたものを、たとえ瞬間的にでも、畏敬の念をもってかいま見ることもあるだろう。
…生にはほとんど必然的に苦しみがともなうが、これを乗りこえるためにも、ときおり「自己対自己」の世界の息苦しさから解放されて、野の花のように素朴に天を仰いで、ただ立っているというよろこびと安らぎが必要らしい。それはほかの動植物と同様に、人間もまた大自然のなかに「生かされている」からなのだろう。
…さまざまな人とであい、互いにこころのよろこびをわかちあい、しかもあとから来る者にこれを伝えて行くようにできているのではないか。じつはこのことこそ真の「愛」というもので、それがこころの旅のゆたかさにとって一番大切な要素だと思うのだが……
▽小池昌代の解説 
 他者とこれほどまでにつながろうとし、他者に耳を傾け、努力を重ねてきた人が、同時に深く孤独で、心の中を、表現意欲で修羅の如く燃え立たせていた。…悲しみ、苦しみを、自虐的というのではナシに、静かなよろこびとして転換することを、宗教者のように考えていたことが分かります。…彼女の烈しい心の内の情熱は、どのようにして、あのように広く他者へと融解し、広がっていけたのだろうか。

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