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柳田国男 知と社会構想の全貌<川田稔>

■柳田国男 知と社会構想の全貌<川田稔>ちくま新書 20161229
柳田国男は、前期は山人などを対象にしたが、後期は稲作民だけを「常民」として描くようになった…とか、国内の民俗ばかりを見ていて国際的な視野をもっていない、などと批判されてきた。保守に転向した、というイメージでも語られてきた。
この本は、上記のような批判はあてはまらず、柳田はリベラルの思想を現場レベルで徹底しており、民俗学もその流れから生まれたのだと主張している。
柳田の農業政策は、富豪の購買力ではなく、多数の農民の購買力こそが真の発展をもたらすと考え、地主小作体制ではなく、自立的小農民経営によって担われる農業へ転換を唱えた。
各地域ごとに地場産品を活用する工業をおこし、地方分権をすすめ、内需による発展を促すことで、海外市場への依存度の低い経済をつくりあげようと試みた。その立場から植民地主義を批判し、より国際協調的な国のあり方を追求した。
農村では農民がつどい、都市では労働組合などグループ化することで、新しい動きが出ると期待した。農村でその基盤になるのが、氏神を中心としたムラだと考えた。閉鎖性や新しいものを嫌うといったムラの欠点も熟知し、それらを乗り越える手法も考えていた。
ムラで新しい生活文化をつくるには、自分たちの生活文化の全体像を知らなければならない。それを解明することを柳田民俗学は重視した。
柳田は南方熊楠らと比べて、海外に関心がなかったイメージがある。柳田が引用文献を記していないのが、そういう誤解を招いてきた。だが実際は、フレイザーやデュルケームらから文化人類学や宗教社会学の知識を受け継いでいた。
ヨーロッパの旧来ののフォークロアは珍奇な習俗を対象にして、19世紀以前の人類学は旅行記などを資料にしており、論証手続きのうえで欠陥が多かった。マリノフスキーらの文化人類学が登場することで、専門家がある地域に入って、地域全体のありかたを調べ尽くすという手法が生まれた。柳田の民俗学はこの手法を受け継いだ。
フレイザーやウェーバー、パーソンズへの流れでは、民話や氏神信仰は、呪術であって宗教ではないと位置づけられる。一方デュルケームは、宗教は呪術と異なって、グループをつくり倫理の源になるものだと考えた。その視点から見ると、氏神も宗教だった。この系譜はレヴィストロースに受け継がれた。柳田もそれにつらなり、氏神を倫理の基盤であると考えた。
戦後、天皇制を補完するものと考えられた氏神の研究は、しばらく軽視されていた。だが柳田は、神社合祀に反対したことが示すように、以前から、国家神道と対立するものとして氏神をとらえていたという。
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▽35 吉野作造も、東京帝国大学教授を辞職して朝日新聞に入社し、柳田とともに講演旅行をおこなっている。
▽44 柳田は、氏神は代々の祖先の霊の融合したものと観念されており…通常は山の頂にとどまり、時期を定めて村里を訪ねる。そのための主要な儀礼が春と秋の村祭り。
▽71 収穫高の5割にのぼる小作料は、農民において農業剰余の形成とその蓄積を困難にしている。…小作料を自分の裁量でいったん販売し、そのうえで地主に貨幣で小作料を支払う形にすれば、耕作者自身が販売も含め経営の全過程を自分の裁量で自由に行うことができる。(農協による統制は経営力のない小作農的な農民を育ててしまった〓)
▽78 農民間の「協助相助」が必要。農民の協同組織として「産業組合」の必要性を主張。
▽91 犠牲になる国家とは…外国の商売政策に乗せられた国家、すなわち消費を知って生産を忘れた国家である。(国家を地域と言いかえてもよいのでは〓)
▽97 国民経済の「不景気」の原因の根本に、中央の地方に対する無制限な「搾取」がある。それによって農村がその「購買力」を失って…と見る。
まずは農村が「都市文化の幻影」を追うことをやめ、「古き郷土の精神」に目覚め、独自の新しい「地方文化」を作りあげなければならない。
▽120 第一に地方の人が「乱雑なる都市風の消費」から距離をおく。「生活の上に意味があるかないか」という観点から「自主的に消費を整理」する。それによって家計を圧迫している「不必要の消費」を削減すれば、都市商業資本の支配に、多少なりとも対抗することができる。
▽122 都市はそこに住民が定着し、永続的な生活拠点とすることによってはじめて、共通の規範を持った生活空間、協同の生活団体たりうる。(団地の例〓)
▽125 中小都市では、地方生産物を原料とする各種の地場産業を育て、地方生活に密着した生産をおこなう。それが都市住民に安定的就労機会を与えることになる。
▽127 小作なら2町歩以上、自作なら1町歩以上は、農業独立の要件である。
▽134 当時日本の地主は約100万戸。(全農家数は550万戸。旧ロシアでは地主は3万戸にすぎない)
▽140 地方の人々が、これから新しい生活文化を作っていくために、これまでの自分たちの生活文化の全体像を学問的な方法で明らかにしていく。それが柳田民俗学の枢要点のひとつだった。「自己省察」の学。
▽143  人々が富や資源を消費する方向に向かえば、日本は地理的歴史的条件から国際的な軋轢を抱える…そのような方向に向かうのではなく…たんなる欲求充足にとどまらず、生きる意味や生きがいをどう考えるかというレベルから、意識的に自分たちの生活文化を捉えかえし、より内容豊かなものにしていかなければならないのではないか。
▽147 原内閣および政党勢力。軍事費削減のねらいから、世界的な軍縮の動きに積極的にコミットする(積極的平和主義〓)。これにより1920年代の日本は、国際社会において発言力をもつ国になっていく。
…浜口内閣も、対英米協調と中国内政不干渉を軸とする、原内閣以来の国際的な平和協調路線をおしすすめた。
…さらに浜口はロンドン海軍条約を締結することによって軍縮を推し進める。それに反対しようとした枢密院を世論を背景に政党の力でねじ伏せ、海軍軍縮を実現させた。枢密院は藩閥官僚勢力最後の砦だった。
…しかし、1930年代初頭からの世界恐慌によって崩壊していく。
▽153 中国への資本輸出や市場開発に、柳田は批判的だった。
▽171 政党政治は、藩閥官僚勢力の権力的地位を突き崩し、軍部をもそのコントロール下に置こうとしていた。柳田の政治システムのあり方についての議論も、原敬・加藤高明・浜口雄幸などの方向とほぼ同様だった。
▽178 労働者・農民と中間層がいっしょになった国民政党が、既成政党に対抗する形になることを望んだが、現実の無産政党は、人々の生活苦を解決しうる具体的な社会的ビジョン、「学問と思索」に裏打ちされた社会改革の構想を打ち出していないと考えた。それらを打ち出すことを期待していた。(〓現在の政党も)
▽184 美濃部は民政党に近く、吉野作造は無産政党のひとつの社会民衆党にコミットしていた。石橋湛山の小日本主義は柳田の構想と交錯するところがあるが、石橋のそれは輸出貿易を重視する通商国家論で、内部市場を重視する柳田と志向を同じくしない。
▽180 自立の条件となる、文化の自己形成力は小集団的なものをぬきにしてはありえないとみていた。
…共同団結に拠る以外に、人の孤立貧には光明を得ることはできない…多数の同境遇の人々と、いかなる方法でも結合しなければ、解決は無意義だ。
…そして古い共同体や自然村などに、「共同団結」の基盤となりうる「隠れたる連帯」が存在している、とみていた。
▽210 個の自立には、地域的共同性を含めた、さまざまなレベルでの共同性(親密圏)の存在が重要な意義をもつ。…多くの人々は、個としての自立性を、複数の親密な他者、さまざまなレベルでの親密圏との関係によって形成している。
▽217 自然村(村落共同体・部落共同体)の共同性を基礎にしてこそ、農民間の考え方のちがいや利害の抵触を調整しながら「共同団結」の実をあげていくことができる……。(〓集落営農もそういう基盤がないとうまくいかない)
…講や無尽など。
▽223 自然村の問題点は…。排他的閉鎖性。上下関係的なものの存続。共同体的規制が、個人の自立性と自由な創造性をさまたげる側面をもっていること。
▽236 勤労者の生活の改善について、…自主的にできあがってきた労働組合の発展に期待をかけた。
▽241 都市や農村の地域的共同関係、地域的小集団が、文化の中央集権に抗して、自らの生活文化を自覚的に形成していくうえでの拠点になるとみた。(〓菜園家族)
▽248 「山人考」の段階では、「山人すなわち日本の先住民はもはや絶滅した」と考えた。その後「山の人生」をのぞいては、山人についての言及はほとんどない。そこでこれ以後の柳田は、山人への関心を放棄すると同時に一元的な日本文化論に変化して、その多様な可能性を失ってしまったとの意見がだされている。
▽254 氏神信仰、すなわち村の神社に対する信仰を重視しながら、国家神道には批判的。国家神道の教義と儀礼は、地域における人々の実際の信仰にもとづいたものではなく、「人為的なもの」である。したがってある時期が来れば「雲消霧散」しかねないものだ、という。
▽256 神社合祀 軍備拡張と国力増強のため、国家財政の強化とそれを可能にする地方基盤整備が必須であり、その方策のひとつとして、地方改良運動が内務省の主導のもとで展開された。合祀はその運動の一環として、国家神道にもとづく神社経営を安定化させ、行政町村の一つの結合軸とすることを意図したものだった。
▽263 欧米のエスノロジーの援用。民衆生活の全体像、その現在と過去のトータルな把握の方法として、20世紀の文化人類学の方法を援用しようとした。
…タイラー、フレイザーなどの19世紀末までのエスノロジーは、古文献や宣教師の報告書、探検家らの旅行記などを資料的基礎にしていいた。研究者自身による現地調査はならされず、資料的根拠や論証手続きにおいて必ずしも厳密ではなかった。
20世紀に入ると、欧米のエスノロジー、文化人類学は方法的に大きく展開する。マリノフスキーやボアズなど新しいタイプの民族学者、人類学者が輩出する。
…現地語を習得した専門の研究者が、周到な現地調査によって、住民の生活と文化の全体を体系的に把握するという20世紀人類学の方法はマリノフスキーによって確立された。
▽269 第1部有形文化、第2部言語芸術、第3部心意現象。マリノフスキーも、社会構造、行動、精神の3つに区分。
…柳田は、エスノロジー・人類学の影響を強く受けているが、エスノロジーは一般にいわゆる未開社会のことを研究する学問だ。自国の一般の人々の生活を研究対象とするという点では、フォークロアに近い。
▽280 宗教と呪術のちがい=デュルケーム 呪術と宗教に共通する思考形態の特徴は、世界のすべてのことがらを聖と俗に区分すること。そのうえで、宗教は、その信者の間で集団が形成されるのに対して、呪術は、信者間になんらの紐帯もかたちづくらない。…宗教的信仰はすべて何らかの倫理形成力をその内にはらむもの。原始的な宗教とされるトーテミズムにおいても確固とした倫理形成力をもっていた。
▽283 デュルケームによると、未開社会においても原始社会おいても、人間はすぐれて倫理的存在だった。…人が原初において宗教的であるが故である。人間の倫理性は、すぐれて宗教的なものによることがらであった。このような観点は、マリノフスキーやレビストロースにうけつがれ、他方ではアナール派につながっていく。
…柳田の描く氏神信仰は、フレイザー的な規定では宗教というよりも呪術的な性格が強いが、デュルケームの規定では宗教に入るものだった。
…20世紀の知の流れを見るとき、宗教把握・人間・社会把握において、大きく二つの流れがある。一つは、フレイザーからウェーバーをへてパーソンズへと至るもので、もうひとつは、デュルケームからレヴィ=ストロースへと受け継がれたもの。〓〓
…柳田の学問は日本的な視野からのみ形成されているのではないか、普遍性のない国際的な通路を欠いたかたちで形成された学問ではないか、という見方があるが、実は、柳田民俗学の形成そのものが、ヨーロッパの当時の最先端の学問展開から強いインパクトをうけたものだった。(〓へぇ、知らなかった)
▽288 柳田は、とりわけ人々の信仰の問題、氏神信仰の問題を重視している。
▽290 近年では、氏神信仰が、日本人の生活と文化や日本的心性を考えるうえで重要なファクターとみられるようになってきている。
…氏神信仰について、丸山真男らは、国家神道に直接つながるものであり、近代天皇制、明治国家体制を支えるもっとも源基的な要素であると考えた。
▽313 木や草がすべて神だというような、簡単なアニミズムではなかった。本来神は祭りの時に限って天からくだってくるという信仰であった。
…社会全体をとれば、氏の数だけ神々が存在するわけだが、個々人はそのなかの自分の氏の神ただ一つを信仰していた。だから、本来の日本人の信仰を、ある個人・集団が同時に多数の神を信仰するという意味での多神教とすることはあたらないと考えた。
▽322 人口集中や社会機構が複雑になり、新しい厄災、不安が人々を脅かしはじめる。もとからの氏神の能力をこえると考えられる事態に対しては、他の有力な神々を勧請し人々の生活を守るためにそれに祈願しようとしたと、柳田は見ている。
▽326 厄災が広がり、地方でも、悪霊や荒霊を統御しうる大神、「八幡」「天神」「祇園」などをむかえ、それぞれの氏神と一緒に祀るという風習が一般化していった。……戦乱や社会的混乱が各地に広がった中世には有力な神々の全国への拡大がとりわけ進行した。
▽329 八幡は九州宇佐を発祥地とし、鉄や銅の製造加工とむすびついて全国に広がる。源氏の氏神、守護神とされるようになってから武家政権のもとでとくに有力になっていった。
天神は天王信仰と同様、雷神としての天神信仰が一般的に広がっていたところに、菅原道真怨霊事件を契機に北野天神があらわれ、巫女神人組織と強い託宣力によってそれらを統一したものとされる。
祇園は、最初は水の神であると同時に防疫の神だった。その隆盛は、平安初期以降の京都への人口集中による疫病の流行を背景としている。
…3つのほか、有力な天神としては、賀茂、春日、鹿島、香取、諏訪、白山、熊野、住吉、稲荷、出雲、愛宕などがある。
334 中世以降、強力な集団的結合を必要としなくなり、大家族制が解体していった。(〓それが惣村の形成に関係するのか?)
▽336 家系を異にする家々が、一つの氏神共同で祀るようになる。
▽342 大神の勧請や氏神の合同、死後は彼岸へ成仏すると考える仏教の影響などによって、村の氏神と代々の祖先の霊との関連が忘れられるようになってしまった。これらを背景に、信仰の一種の個人化、信仰対象の流動化が進行した。
▽345 稲の生産が開始されようとする時期が、とくに神の降臨の待ち望まれるときで、元来はこの春おそくの満月の日をもって年の初めとしていた。(中国の暦法が普及する前は)新年は旧暦4月15日頃だった。…1日のはじまりは、日の入りの時、ほぼ現在の午後6時ごろとされていた。1年の第一日は、旧4月の15日夕方から16日にかけてだった。
▽350 海に近い地方では祭に必ず海の水を使わねばならないしきたりがある。〓
▽352 都市での御霊の祭礼そのものが、水と疫病との関連から夏の農村の水辺の祭儀をもとにして夏におこなわれていた。その都市起源の夏祭りの形式が逆に農村に流入してきたのである。祇園信仰や八幡信仰など有力な大神への信仰は、まずこの夏祭りを契機に農村に入ってきた。
…夏の祭を盛んにし、多くの土地の祭を「祭礼」にしてしまったのは、全体としては中世以来の都市文化の力であった。
▽358 氏神の祭は、本来屋内でなく屋外の清浄な地で営まれた。特定の自然物、ふつうは特殊な樹が、神の憑く依り代とされた。(〓あえのことは家ごとの祭、本来の氏神の祭の形を残している)
▽388 宮座による祭。江戸中期になると宮座を構成する家の数が増えて、頭屋になる資格を持つようになる。数十年に1回しかまわってこないようになり、不慣れなため問題がおこりやすくなる。そのため、専門的な知識と技術をもつ神職の必要性が生じてきた。村の外部からの専門の神職が、氏子による1年神主とならんで一定の役割をはたすようになっていった。
…外からの神職のなかに、八幡や熊野、春日、北野天神、祇園、鹿島などの有力な神社に属する神人もあったのである。
(〓…頭屋制をのこしている祭が能登のいどり祭)
▽413 昔話は、古い神話的世界とつながりがあり、固有の信仰や遠祖の自然観や生活理想を知ることができる。
▽424 日本における神観の原像は、直接には雷神、火雷神と考えられていた。その火の根源は、男神としての太陽神とされていた。人々が神をしばしばヘビの姿で思い描いたのも、稲妻の形からであった。……天の大神と人間の娘とのあいだにうまれた雷の子についての古い伝承は多くの地域に分布している。
▽427 柳田の氏神信仰研究は、人々の氏神信仰をこの国家神道の体系から切り離そうとするものでもあった。
▽431 各村落や市街地の氏神社も官国弊社-府県社-郷社-村社-無格社、というかたちでの官制の神社編成に組みこまれた。各地の神職は内務省管轄の准国家官吏(官選神官)と位置づけられ(給与は地方行政団体が負担)、建物や土地は公有とされた。
▽436 丸山は、復古神道の見方と同様、記紀神話と氏神信仰、国家神道と氏神信仰を連続的にとらえ、そのうえで近代天皇制を支えるものとして両者を批判した。
柳田は、国家神道およびそのベースになっている宣長や平田派の復古神道を、氏神信仰とは異なるものと捉えている。国家神道の教義の基本を構成している平田派の神道は、古文献に主な材料をとって「現実の民間信仰を軽んじ」ていると柳田は考えた。「人為的」な、したがってある時期がくれば「雲消霧散」しないとも限らないもの。
▽441 八幡を応神天皇、天神を菅原道真とするような観念もあとから加わったものと考えられる。八幡は、金属の製造加工とむすびついて全国に広がり、各地の氏神と合祀されるようになった。もとは神を父とし、人間の女性を母とする半神半人の神子すなわち王子を祭神とするもので、その王子神がのちに応神に対応させられたのではないか。
また天神も、雷神としての天神信仰が広がっていたところに、雷神を菅原道真の怨霊と結びつけた北野天神があらわれた。その強力な神人組織とその託宣活動によって統一し、その結果、各地の天神が菅原道真を祭神とするようになった。
▽444 氏神は、本来神社ではなく近くの山の頂にとどまり、祭の時々に里に下りてくるものと観念されていた。常設の建物としての神社の意味はそれほど本源的なものではない。…したがって、国家神道のように「ただ建造物を目安にして祭の式を定めたのは、古い思想に反するのみか、土地(の人々)の要望にも合わぬ」と批判している。
▽445 国家神道の基礎をなす復古神道では、氏神を常に神社に座しているものとみなす。それゆえ、祭の日にかぎらず、通常の日でも神社での神拝が可能だとされ、毎朝神拝の作法もいわれた。
▽446 1年神主と呼ばれる頭屋が輪番で祭主をつとめる頭屋制が、人々の「共同の力」に支えられた氏神信仰にとっては重要な意味をもってきた。(いどり祭や、あえのこと〓)
▽448 柳田は、人々の氏神に対する信仰の本源的な姿を明らかにすることによって、それを国家神道から切り離そうとした。
▽453 柳田の氏神信仰論は一つの国家神道批判、近代天皇制批判であり、その政治論における事実上の天皇象徴化の方向とつながりをもつものだった。
▽459 首相の任命は、薩長藩閥集団のトップメンバー(元老)の推薦にもとづいておこなわれており、実質的には彼らが決定権を保持していた。陸海軍の上層部も藩閥集団によって握られていた。天皇は基本的には、彼らに国家統治の正当性を付与する存在だった。この点は、君主が独自の意志で実際に統治権を行使するドイツ帝政などと異なる。
▽467 氏神は祖霊ではなく、異界から訪れる「まれびと」ではないか、との折口信夫の批判がよく知られている。
▽468 氏神信仰は柳田にとって、国民意識のひとつの基礎であり、村落における共同性を内面的に支えるものだった。さらには、…人々の価値観や倫理意識の形成に重要な意味をもつものとして、積極的に評価されるべきものと考えられていた。
▽470 柳田の関心は、生活文化を構成してきたさまざまの伝統的ファクターを、新しい社会形成にいかに生かしうるかにあった。
▽484 年中行事はつねに暦と関係づけられているが、「古くからあったのは信仰で、暦の方が後から来たもの」だった。
▽488 カゴメカゴメなどは、もとは神霊に占いをたてる一つの方式だった.一人の人物のまわりをぐるぐるまわり、その人物を失神状態にしておいて、これに神意を問うた。
▽490 第3部の心意現象 この解明を「われわれの学問の目的」ともっとも重視していた。
▽512 人間の意思や行動を、倫理的に方向づけてきたのは、超越的な「目に見えない」存在、「物質的でない力」との関係においてだった。…一般の人々の「行いの基準」となってきたものは、いわゆる氏神信仰だった。
…価値判断の根拠は、人々の人生観や世界観によっている。そして、人生観や世界観は、信仰、宗教を背景としてきた。
…人は誰でも死して後は氏神に融合すると想定されていた。。子どもも老人も障害を持った人も神になるべき存在として、尊ばれなければならないと考えられてきた。それが人々の共生を支える倫理意識の一つのベースになってきた。
…家を絶やさず、子どもを育て、先祖をまつり、死後は神となって子孫を守っていくことを、重要な生きがいとしていた。
▽523 丸山真男や大塚久雄、ルース・ベネディクトは、日本人の倫理意識は外面的なもので、他人にどう思われるかを重視する、内面性を欠如したものだと考えた。柳田は、内面的な信仰に支えられているものであり、外面的なものとばかりはいえないとみていた。
…呪術から宗教への発展を基本とするフレイザーの宗教論を継承するウェーバーによっているのが丸山や大塚。柳田はデュルケーム的。デュルケームは、アニミズム以上に原始的宗教とされるトーテミズムにおいても、倫理形成力をもっていたと考えた。…このような観点はレヴィ=ストロースの「野性の思考」への積極的評価に受け継がれる。
▽530 大家族制が崩れ、集落が複数の家系によって形成されるようになる。近世中期ごろには村の構成がフラットになり、各家が輪番で祭祀を主催する頭屋制がひろがっていた。
▽534 倫理的意識形成。本来人間の自然性に内在しているとする性善説。自然に近い社会では倫理的なものも野蛮な段階にとどまっているとする性悪説。柳田やデュルケームは、どちらでもない。個々人が生きる意味をどう考え、他者や自然をどのように意味づけているか、その価値観が倫理意識を基礎づけている。そのような価値観は、宗教的なものを背景に形成されてきたと。
▽536 個人的な利害から生じた協定によって「社会的連帯」ができあがるという社会契約論的な説。デュルケームは、個人の私的な利害関心から、社会的結合がストレートには生まれないと考えた。…社会の存立基盤を「功利的動機」には還元できないとする。「人間が社会を形成した瞬間から、人々の諸関係を統括する諸準則が、しがたってまたひとつの道徳が…必然的に存在する」…社会の基礎には、一種の「集合表象」「集合意識」として倫理的なものが存在するという。
…倫理的なものは、柳田と同様、宗教から生じてきたと考えた。
…デュルケームによれば、未開社会においても、人間はすぐれて倫理的な存在だった。それは人が原初において宗教的であるが故である。(フレイザーと異なる視点)
▽552 デュルケームによれば、神という存在、聖なるものは、「社会の具象的な表現」「象徴的表現」にほかならない。宗教意識における聖なるものに対する人間の帰依は、「社会」に対する感情であり、帰依の転化形態である。「神とは社会の実体化された形態にほかならなかった」…倫理的なものを基礎づけてきたものは、じつは社会それ自体だ。…「社会」概念の意味論的存在論的把握は、レヴィ=ストロースの「構造」概念へとつながっていく。
▽555 (宗教が失われた)現代の問題に対処するには…「有機的連帯」の一端を担っている自己を意識化すること。社会的二次的集団、ことに職業集団を育成すること。これらによってアノミー状況に歯止めをかける社会的連帯を再建しようとする。さらに、社会の存在を個々人に自覚化させるために、社会的集合儀礼が必要であるとする。
…柳田も、社会的な二次的な集団、とりわけ地域的な小集団の役割を重視していた。宗教的祭儀を共同意識を普段に再生するものとして捉えている。
▽561 デュルケームもウェーバーも、当時もはや宗教的信仰によって倫理的なものを根拠づけることは不可能だと考えていた。柳田はそうではなかった。現に人々が信仰している氏神信仰を維持し、それが基礎づけてきた倫理的なものを、持続させていこうと考えている。
…将来いずれは日本においても、氏神信仰への宗教意識は消え去るだろうとみていた。
…信仰が消え去った後の日本人にとって、倫理的なものの内面的形成の根拠はいかなるものか。柳田は黙して語っていない。
▽564 時代を越えた子孫への思いが倫理を作る。…子どもたちのことを考えようとすれば、彼らがおかれている社会や文化を、よりよくしていくことを考えなければならない。…当然、他者や自然との共生ということを意識的に考えなければならない。そこに将来の倫理形成への一つの糸口があるのではないか。そう柳田は考えたのではないか。
(大きな歴史の一部としての自覚〓。三世代前のことを普通に語る林業家)

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