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寝ながら学べる構造主義 <内田樹>

 文春新書 20060603

ちょっと読んではあきらめ、読んではあきらめを繰り返していた「構造主義」だが、「寝ながら」という軽さと、内田樹が書いたということで、もう一度だけ試してみることにした。
構造主義の基本の基本をわかりやすく説明してくれている。
ヘーゲルやマルクスとの共通点と相違点、サルトルの実存主義とのちがいなど、なーるほど、そういうことだったのね、と納得がいく。
姜尚中やテッサ・モーリス・スズキが書いてたのはこのことだな。
「つくる会」の歴史観は、構造主義の考え方をねじ曲げて利用してるんだな、とか。ふんふん、と理解できた。
どんなに客観的に事実を認識しようとしても、自分の属する時代や社会集団の影響からは逃れることはできないよ、歴史的価値判断が混じり込む前の「なまの状態」のことを探求するのが大事なんだよ、っていうのが構造主義なんだそうだ。
思想だけじゃなくて、身体的条件でさえも、時代や社会によって規定される。
肩こりという概念は欧米にはない、とか、手足を逆の動きにして歩く、というのも、日本では明治以降に押しつけられたものだという。
具体例を通して説明してあるから飽きずに読めた。
レヴィストロースの人間観もユニークだ。
あらゆる集団に妥当するルールとは、「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲すものは、まず他者に与えなければならない」の2つという。
「人間とほかの動物のちがいはどこ」と問われると、二足歩行とか言語とか火の使用とか、いろいろ答えがでてくるけど……そんな「人間」の定義もあったんやなあ。

--------抜粋・要約----------
構造主義とは・・・・・私たちはつねにある時代、地域、社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。・・・私たちはほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」・・・私たちの自由は自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げた。

▽マルクス 人間の個別性をかたちづくるのは、その人が「何ものであるか」ではなく、「何ごとをなすか」によって決定される。存在すること、より、行動すること、に軸足を置いた人間の見方。
▽人間は行動を通じて何かを作りだし、その創作物が、作り手自身が何者であるかを規定し返す。この「作り出す」活動が「労働」。労働を通じての自己規定という定式をヘーゲルから受け継いだ。
▽主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義の根本にあり、ヘーゲルとマルクスから継承したもの。
▽マルクスは人間は自由に思考しているつもりで、実は階級的に思考している、と看破した。フロイトは、人間は実は自分が「どういうふうに」思考しているかを知らないで思考していると看破した。
▽ニーチェは「他の人と同じようにふるまう」畜群を唾棄し、その正反対のタイプの、自分の外側にいかなる参照項をもたない自立者としての「貴族」「超人」を置く。
「超人」を定義するかわりに、「そこから逃れるべき場所」としての畜群を説明する。超人の「高さ」を観測する基準点として「笑うべきサル」である「永遠の賤民」を指名する。これが最終的にたどり着いたのは、反ユダヤ主義プロパガンダだった。
▽過去のある時代における社会的感受性や身体感覚のようなものは、「いま」を基準にしては把持できない。過去や異邦の経験を内側から生きるには、緻密で徹底的な資料的基礎づけと、大胆な想像力とのびやかな知性が必要とされる。この考え方は、フーコーに受け継がれ、学術的方法として定着することになる。
▽ソシュール 言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのもの。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が思考の中に存在するようになる。
▽「私のアイデンティティ」 西洋は、「自我」とか「意識」とか名付けて、世界経験の中枢に据えてきた。ソシュールの考えは、この伝統的な人間観に致命的な影響を及ぼすことになる。
▽フーコー ある制度が「生成した瞬間の現場」、歴史的価値判断が混じり込む前の「なまの状態」のことを、バルトは「零度」と術語化した。構造主義とは、ひとことで言えば、さまざまな人間的諸制度における「零度の探求」であると言うこともできる。
▽歴史の直線的推移」というのは幻想。それ以外の可能性から組織的に目をそらさない限り、歴史を貫く「線」というようなものは見えてこないから。
たとえば自分が誰の子孫、というとき、4人の祖父母がいるのに、4人のうち3人を除去し、1人だけを父祖に指名している。「○の末裔」を称するということは二のn乗マイナス1人の祖先の姓を忘却の彼方に葬り去ることに同意した、ということを意味する。
▽身体も1個の社会制度。たとえば江戸時代の日本人の歩き方は、足と手が同じ動きをしていた(相撲のすり足)が、明治維新後に政府主導で廃止された。軍隊行進をヨーロッパ化するためだった。
▽60年代から全国の小中学に普及した「体育坐り」 竹内敏晴〓によると、日本の学校が子どもの体に加えたもっとも残忍な暴力の一つ。両手を組ませるのは「手遊び」をさせないため。首も左右にうまく動かない。胸部を強く圧迫し、深い呼吸ができないから大声も出せない。残酷なのは、子どもたちがすぐに慣れてしまったこと。浅い呼吸、こわばった背中、しびれて何も感じなくなった手足、それをしばしば「楽な状態」と思うようになってしまう。
▽バルト ラング(langue:母国語)、スティル(style:個人の言語感覚)、さらにエクリチュール(ecriture:自ら選択することばづかい)
▽テキストを(本)を読んで最初は見落とした意味を、2度目に見つけることがある。それは、その本を一度最後まで読んだせいで、私のものの見方に微妙な変化が生じたから。新しい意味を読み出すことができる「読める主体」へと私を形成したのは、テクストを読む経験そのものだった。テクストと読者がお互いを深め合う双方向的ダイナミズム。
▽レヴィストロース サルトルの実存主義を粉砕。以来、フランス知識人は「意識」「主体」を語るのをやめ、「規則」と「構造」を語るようになる。
「実存」とは、自分の「現実的なあり方」 「実存は本質に先行する」 特定の状況でどういう決断をしたかによって、その人間が本質的に「何ものであるか」は決定されるということ。ここまでは構造主義も同じ。
「歴史を貫く鉄の法則性」を知ったものは、状況判断で過つことがない、とサルトルは考えた。実存主義はこうして一度は排除した「神の視点」を、「歴史」と名を変えて、裏口から導き入れた格好になった。レヴィストロースが咎めたのはこの点だった。
レヴィストロース 「未開人の思考」と「文明人の思考」の違いは発展段階の差ではなく、そもそも「別の思考」であり、優劣を論じるのは無意味、と主張した。
サルトルは「歴史」を究極の審級とみなす。レヴィストロースによれば、サルトルが「歴史」という物差しをあてがって「歴史的に正しい決断をする人間」「誤りをおかす人間」を峻別しているのは、「メラネシアの野蛮人」が、彼らの独自の「物差し」を使って、「自分たち」と「よそもの」を区別しているのと本質的にまったく同じふるまい。

▽贈り物を受け取ったものは、「お返し」をしないと気が済まないという人間固有の「気分」に動機づけられた行為。「反対給付」。これは、知られる限りすべての人間集団に観察される。近親相姦を禁ずるのは、「男は別の男から、その娘または姉妹を譲り受けるという形でしか、女を手に入れることができない」

▽贈与と返礼の往還によって社会は同一状態にとどまることができない。人間社会は存在し続けるためには、たえず「変化」することが必要。ただし「変化」は、必ずしも「進歩」ではない。単にいくつかの状態が循環するだけで「変化」と考えた。「熱い社会」も「冷たい社会」も、恒常的な変化を確保する社会構造を持っている。
▽レヴィストロース 時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールとは、「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲すものは、まず他者に与えなければならない」の2つ。・・・「隣人愛」や「自己犠牲」といった行動が、人間性の「起源」であることを見抜いたレヴィストロースをどうして反人間主義と呼ぶことができるでしょう。
▽アナログ的な世界にデジタルな切れ目を入れることは、言語学的に言えば「記号による世界の分節」であり、人類学的に言えば「近親相姦の禁止」。

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