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葬式と檀家<圭室(たまむろ)文雄>

■葬式と檀家<圭室(たまむろ)文雄>吉川弘文館1999年 2016/06/28
 カトリック教会の神父さんから借りて、飛ばし読みした。
 キリシタンを弾圧するために檀家制度がつくられ、人びとは寺の住職に自分の身分を保証してもらわなければならなくなった。檀家の側には寺を選択する権限はないから、寺が役所のような権力をふるうようになった。それが本来の信仰が薄れ、葬式仏教になってしまう一因になった。
 キリシタン本人のみならず、親類・縁者を「類族」として戸籍を別に作成する制度ができた。類族が死んだ場合は、檀那寺がその内容を帳面に記して切支丹奉行に提出した。類族は何代も後の子孫にまで及んだ。一般に戒名を与えられず、墓石もつくられなかった。
 そうやって差別された「類族」は日本にどの程度いたのか。筆者は、岡山藩と熊本藩の数を検証したうえで、両藩が全国の平均的キリシタン分布であると仮定して石高をもとに計算した。岡山藩でとらえられた23人が、37年後は存命の類族のみで190名になっていた。37年間で9.3倍とすれば、明治元年まで170年間に43倍になる計算だ。元禄13年の存命者を約3万とすると、幕末の数字は129万になる。「類族」と呼ばれた人が身近に必ずいたことになるという。

 寺院側は、キリシタンを監視する権限を一般の檀家にも活用した。寺への経済的な負担をしない檀家に対して「宗旨人別帳からはずす」と脅すなど、檀家の家族の生殺与奪の権を握った。宗判権を使った僧侶の不義密通も記録されているという。

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▽30 日本人全員が檀家と関係を結び、寺が身分保証(キリシタンではないと)するようになったのは、寛永年間。寺請証文。
▽54 島原の乱は寛永年間。
▽66 檀家制度がつくられたのは、自分の身分保障を寺の住職にしてもらわなければならない体制がつくられたから。檀家の側には、信仰によって寺を選択する権限はない。
▽162 キリシタン本人のみならず、親類・縁者を類族として、戸籍を別に作成するという政策を打ち出したのが貞享4(1687)年。
 第4条…キリシタンであったものが、ころんだ以後は、檀那寺があるはずであるから、その寺の宗派と参詣している寺名ならびに常々寺参りしているかどうか、またその寺に付け届けをおこなっているかどうか、数珠をもち父母の忌日には寺参りをしているかどうか、または自分の家に持仏(仏壇)をかまえ香や花を絶やさずにしているかどうか、以上のことを檀那寺が確かに調べること。
 第7条 元キリシタンの者が死去した場合は、死骸は塩詰めにしておき、切支丹奉行の指図をうけること。
 第8条 類族の者が死去した場合は、特別のことがないかぎりは、檀那寺で吟味をして、その内容を帳面に記し、毎年7月と12月の2回切支丹奉行に差し出し、切支丹類族帳から除くべきこと。
 …寺院側は、この権限を切支丹と関係がない一般の檀家にも拡大し、檀家制度における寺側の権限の強化に利用していった。
▽168 類族人は、現世では宗教差別に泣き、来世に往生するときは戒名すら与えられず、墓石さえつくられないのが一般的であった。こうした扱いによって差別意識そのものが形成されていくことになった。
▽172 岡山・熊本藩の数値が全国の平均的キリシタン分布であるとの前提に立っての考えだが、両国の存命者は合計976名、石高が合計85万5000石。元禄13年(1700年)前後の全国の総石高は2592万石。この倍率をキリシタン存命者にあてはめると2万9573名になる。
 岡山藩でとらえられた23人が37年後には存命者のみで190名を数える。9.3倍。明治元年までは170年ある。したがって37年間で9.3倍とすれば、明治元年までは約43倍になる。
 元禄13年の存命者を約3万名とすると、幕末の数字は129万名という驚異的数字になる。キリシタン類族と呼ばれた人びとがわれわれの先祖の生活空間に必ずいたということだけは言えそうだ。
▽173 幕府が享保9年(1724年)、「類族系図」を配布し、その範囲を明確にしている。
 これ以降は、この「早見表」によって各藩で「類族帳」が作成されるようになったため、ねずみ算式な増加をさらに倍加させる結果に。
…檀家制度によって、寺が檀家に対して圧倒的に強力な権利を持つようになったのは元禄13年(1700)ごろから。
▽202 寺への経済的な負担をまったくしなかったことから、「宗旨人別帳」からはずすとの宣告を青蓮寺から受けた。…寺がもっている宗判権というのは、キリシタンかどうかをチェックする権利。檀家制度は、寺が宗判権を握ることによって、檀家を経営基盤に編成し、檀家の家族全員の生殺与奪の権を握ってしまったということ。
…宗判権を盾にとれば、僧侶の不義密通も可能であった。
▽230…明治の神仏分離・廃仏毀釈政策では、江戸時代に存在した3分の2の寺が破却されて廃寺になったといわれているが、その場合にあっても葬式檀家を抱えている寺は生き残り、多くは現在も続いている。

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