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むらの社会を研究する<日本村落研究学会 鳥越皓之編>

■むらの社会を研究する<日本村落研究学会 鳥越皓之編>農文協

 日本におけるむらの研究の流れや、研究の方法、現代の課題などを網羅していてわかりやすい。本格的にむら研究をはじめる人には必読の書だろう。私のような素人が読んでもおもしろかった。

 これまで「むら」「集落」「部落」「大字」などの用語を、意識せずに使ってきた。集落は地理学の用語で、そのほか、村落、むら、ムラ、あるいは、行政村との混同を避けるため、区とか部落と呼ぶこともある。「部落」は昭和期に入って広まった。江戸時代からのむらの代表者を村長さんと呼ぶわけにはいかないから、区長、総代、部落会長、自治会長などと呼び方も多様になった。
 「むら」は必ずしも江戸時代からの自然村ではないというのも初耳だった。
 地域には、経済的なつながり、宗教のつながり、講などいろいろなつながりがある。そうしたつながりの上に江戸時代に行政村がかぶせられた。幕末期までに6,7万に及んだとされる行政村は、幕府や諸藩の支配行政を請け負う行政単位でもあった。
 同族や経済生活上の「私」的な共同性が次第に希薄化し、生活上の共同性の部分を担う組織が行政(制度)村しかなくなることで、行政村(制度村)がむら的な共同性全体を体現するかのようになってきたという。

 江戸時代、多くのむらでは農事(生業)組織、神事(信仰)組織、政事(政治)組織は一体のものとして運営されてきた。明治になると、政治組織が政府の末端組織の色合いを強め、神主が専業化し、農事の生産組合化が進められることで「農ー神ー政」が分解されていった。

 近代国家は「名望家の時代」であり、日本の明治時代も、名望家が村の自治を担った。町村長をつとめ、農業を指導し、種々の公共事業を担った。明治期後半から村単位の信用組合が増えるが、地主層は、村の負債の担保に自分の土地を提供した。そうした責任感によって没落した大地主の一例が能登・金蔵の井池家だったのだろう。
 昭和恐慌をきっかけにはじまった農山村経済更生運動は、現在の村づくりの原点だという。村が運動に取り組んだことが、今日の行政の仕組みや農業振興、村づくりにつながった。
 戦前の小作争議で農地委員会がつくられ、地主小作関係の調整がはかられた。それが、戦後の農地改革期を担う農地委員会につながった。農地改革の芽は、小作争議という形ですでにむらに存在していたのだ。

 敗戦後、農業会が解散され、農協が設立された。むら組織が農協の末端組織からはずれ、市町村の末端としての性格を強めた。
 安保闘争で、農業勢力にキャスチングボートが与えられることで、1960年に生産者米価の決定方式が、農業団体が求めて来た「生産費所得補償方式」に変わった。翌年には農業基本法が成立し、大型補助金が約束された。
 生産者米価が消費者米価を上まわり、闇米として売るより政府に売るほうが有利になると、米の全量管理が実現し、米集荷の95%をにぎる農協系統の力が強まった。食管制度は、農協系統に圧力団体としての基盤を与えた。
 1970年からはじまる減反政策では、個々の農家事情がわかるむらに減反面積を割り当て、農家への配分はむらにゆだねた。江戸時代にむらに年貢を割り当てた「村請制」や、戦時中に米の供出量をむらに割り当てた「部落供出制度」に似ていた。むらの存在があったから減反が進み、食管制度をその後30年近く延命させた。
 土地改良や圃場整備、80年代の農用地利用増進法、近年の直接支払制度においても、むら内の合意形成機能が発揮された。その力は、政府の側からも魅力だったし、農民の側からの防衛機制の基盤になったという。

▽生活の技術の時代
 12世紀ごろまで男女の土地への権利は平等だったが、嫁入り婚が増加して相続が認められなくなり、女性は自立できない存在になっていった。
 旧農業基本法も女性を生活労働の対象とみなし、生活技術の指導がおこなわれた。女性は農業技術支援の対象とされなかった。だがこの生活改善活動が、現在の女性起業家や経営者をつくり出している。少量多品種という六次産業化の時代が来て、「生活技術」が生きるようになってきた。「生産」ではなく「生活」の時代なのだ。愛媛県内子町のからりや、長野県小川村の「おやき」の製造販売は生活技術を生かした例だ。小川村では「60歳入社、定年なし」で働けるため1人あたりの老人医療費が低く抑えられ、徳島県上勝町には寝たきり高齢者が2人しかいないという報告もあるという。

▽青年団
 戦後の青年団などの文化運動については、北河賢三が研究している。戦後の青年団が最初に取り組んだのは多くの場合「演芸会」だった。「やくざ踊り」と称された。
 こうした娯楽中心の運動は、内外から批判され、一般に否定的にとらえられてきた。そして、娯楽主義から、「生産」へという方向と、「文化」「学習」というふたつの方向に変化していった。前者には島根の加藤歓一郎らの取り組みがあり、後者には、農村演劇運動や生活記録運動がある。生活記録サークル運動は、1953~55年ごろが黄金期で、経済成長と反比例して衰えていった。

▽戦後の流れ
 戦後のむらを時期別をわけると、1955~60の原点のむら、60~70年は農家の兼業化。70~80年はむらにおける非農家の増加、80~90年は農家の減少、90~2000年は「農業集落」の減少…と分類できる。
 さらに都市化の変遷は、第1は農村から都市への大規模な人口移動が合った時期(60年から顕著に。兼業化の時期)。第2は、過密となった都市が膨脹し、周辺の農村を浸食する段階(逆都市化=70年から進行=郊外団地周辺で起きたこと)。第3は、都市経験者がもたらす都市的生活様式が日本全体を覆う段階(農業集落が減少しはじめる1980年以降)の3段階に分けられる。

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▽日本村落研究学会。1953年に、社会学、経済学、経済史、法学、民俗学(文化人類学)等多様な研究者が協力して、戦後民主化の流れのなかで、それでも農山漁村で厳然と存在する共同性のもつ意味について問いかけることから研究をはじめた。
 …民俗学は共同体や共同性に関心を失っていき、この分野の研究者は学会から減少した。…社会学と経済学・経済史との連合学会の様相を呈するようになった。
▽13 地理学では集落と呼び、研究者によっては、村落、むら、ムラとも呼び、行政村との混乱を避けるため、区とか部落と呼ぶ地方もある。明治以降に大きな村ができたとき、江戸時代のむらに当たる地域に区を設けたたために、現在も区と呼んでいる。部落も、昭和期に入って一般に広まった名称。江戸時代のむらの代表者を村長さんと呼ぶわけにはいかないので、区長さん、総代さん、部落会長さん、自治会長さんなどと呼び方も多様に。
▽17 里山あたりの入会地は伝統的に「むら共有」だったが、明治以降、土地の所有は原則的に個人登記となったので…紛争が各地で起こるように。
▽20 経済学や経済史はむらを村落共同体として取り上げてきた。マルクスの影響。共同体とは、土地の共有を意味するので、土地所有の分析になることが多い。(矢野先生〓)
▽25 江戸時代、多くのむらでは農事(生業)組織、神事(信仰)組織、政事(政治)組織は一体のものとして運営されてきた。それが分離しはじめるのは、明治政府のもとで、政治組織が、政府の末端組織の色合いを強めたことや、神主の専業化、農事の生産組合化が進められた結果と考えられる。
▽27 農ー神ー政一体のゆるみとともに、村事はじょじょに家事へと変わっていく。
▽28 明治政府は地租改正と地方制度改革を通して、むらの直接的支配を貫徹させていく。
▽30 明治維新のときは立国の明るさが輝いていたが、戦後には国家の崩壊が持つ明るさが発見されたという藤田省三の指摘。
▽31 〓北河賢三の文化運動についての研究。戦後の新生青年団。その指導理念として掲げられた言葉「文化」「文化農村」「文化運動」。敗戦後、続々と文化団体が結成され、演劇、ダンス、音楽会、読書会、講演会などが催された。
…青年団が最初に取り組んだのは多くの場合「演芸会」だった。「すさまじい火事のような流行」。やくざ・股旅者の歌に合わせて踊ることが好まれたことから「やくざ踊り」と称された。〓
 こうした娯楽文化中心の運動は、うちからの反省と外からの批判にさらされていく。一般に「汚名」として否定的にとらえられてきたが、北河は、青年自身のうちから発した行動であり、自己自身を見すえる姿勢があることを指摘する。「文化運動の起点としての意味」
 …娯楽主義からの変化は、二つの方向で起きた。ひとつは「文化」から「生産」へという方向(=加藤歓一郎〓)、もうひとつは「文化」あるいは「学習」という方向だった。
 …後者としては、農村演劇運動や生活記録運動。生活記録サークル運動…1953~55年ごろが黄金期であり、経済成長により近代化が実感されはじめるのに反比例して、エネルギーを喪失させた、とまとめている。
▽38 農業センサスは5年ごと。この一部に10年ごとの農業集落調査がある。むらを研究するには「農業集落カード」が不可欠〓。
 1955~60を原点とするむら。60~70年は農家の兼業化。70~80年はむらにおける非農家の増加、80~90年は農家の減少。90~2000年は「農業集落」の減少。
▽42 日本社会都市化の3段階。第1は農村から都市への大規模な人口移動が合った時期(60年から顕著に。兼業化の時期)。第2は、過密となった都市が膨脹し、周辺の農村を浸食する段階(逆都市化)(70年から進行=団地周辺で起きたこと)。第3は、都市経験者がもたらす都市的生活様式が日本全体を覆う段階(農業集落が減少しはじめる1980年以降)。
▽49 1961年の農業基本法。工業の論理を農業にあてはめることがもくろまれた。
▽55 日本の過疎は1960年代、まずは中国・四国地方を中心とした西日本で顕在化し、5~10年遅れで東北地方を中心とした東日本で顕在化した。(中国地方はなだらかで、山奥まで人が住んでいたから?)
▽62 市町村合併 地域のことを責任を持って考える人びとが減少。むらは広域行政の末端と化し、…自治機能は地方自治行政に収奪されていった。
▽77 家族規模の縮小。2005年には、単独世帯の割合は26.9%、2人世帯は26.5%。このふたつで全世帯の56%。
▽112 カワウ 愛知県知多半島の美浜町上野間築にあるの「鵜の山」の森林。糞を肥料として採取利用してきた。カワウが営巣するむらの共有林は、1934年に「鵜の山の繁殖地」として天然記念物になったが、戦後の高度成長期ごろまで糞採取がつづけられた。(〓ペルーのグアノ)
 一方で、琵琶湖の竹生島では害鳥扱い。森を枯らしてしまった。(糞を活用できないのか〓?)

▽119 12世紀ごろまで男女の土地への権利は平等であったらしく…女性の嫁入り婚が増加し…相続が認められず…女性は自立できない存在になっていく。 
▽120 1961年の旧農業基本法では、女性を生活労働、家事労働の対象とみなし、生活技術の指導がおこなわれた。女性は農業技術支援の対象とされず、意思決定からも排除されていたが、皮肉にも、この生活改善活動が現在の女性起業家や経営者をつくり、農村活性化活動として期待されている。(六次産業化で生活技術が生きた?〓生産ではなく生活の時代)
▽128 内子のからり の実践
 長野県小川村 郷土食「おやき」の製造販売。「60歳入社、定年なし」〓おが上村は、ほかと比べて1人あたりの老人医療費が低く抑えられており、上勝町には寝たきり高齢者が2人しかいないという報告もある。〓

▽アジアの共同体
▽144 華北の農村は、先祖祭祀は村の住民全員ではなく宗族ごとにおこなわれている。村落ではなく、複数の宗族ごとに共同体があると考えられる。…中国の農村では、宗族(父系親族集団)ごとに祀堂を有し、先祖祭祀を通して一体感を持っている。その祭祀の経費を賄うために水田などの共有財を有している。
…沖縄の共同体は村落共同体。むらが祖霊・土地神の祭祀を司っている。…現在でも久高島では地割制が残っている。…部落ないし字の全世帯が株を購入し、その資金で運営する共同店。これが存続しているところは、その社会的意義が注目されている。
 …沖縄では公民館がむらの組織としての機能を果たしている。与那国島では公民館がむらの祭祀を司り…
▽154  日本の共同体論の評価が逆転した時代的背景は、高度成長のマイナス面が露呈しはじめ、近代に陰が見えはじめたことにあった。…地域社会の呼び名も、1950年代までの共同体から、70年代以降のコミュニティへと変化してきた。共同体に関する研究者の考察対象が、農村だけでなく都市を含み、共同体の価値判断・評価が「否定」から「肯定」へと転換をとげ…」
▽156 日本の共同体論は1950年代の「共同体」を批判する立場から、1970年代には近代を批判する立場に転換しながらも、まだ二項対立の枠内で議論する傾向があった。ごく最近の共同体論は、ふたつを止揚する「第三の道」を志向している。
▽163 二項対立を超えて、国家や市場の制度を補う公共の担い手として、あるいは生活・生存の担い手として、戦略的に位置づけられ、その機能を期待されることが多い。
▽168 リベラリズムとコミュニタリアニズムという二項対立の論争を止揚するような議論。
▽174 近代日本の農村社会において「字」や「部落」と呼ばれた集落は、必ずしも「自然村」のような閉鎖的な社会的統一体として存在したわけではなかった。
 …幕末期までに6,7万に及んだとされるこれら制度村は、幕府や諸藩の民衆支配の基礎単位で、支配行政一般を請け負う行政単位でもあった。(村請制)
▽178 制度村が、むら的な共同性全体を体現するようにみえるのは、実は、同族や経済生活上の「私」的な共同性が次第に希薄化してしまい、残りの生活上の共同性の部分を担う組織が、行政機能を担う制度村しかなくなっているからである。制度村自身が「自然村」だったのでhなく、むしろ、むら的な共同性の構造変化によるところが大きいと考えられるだろう。
▽182 フランス革命で幕を開けた近代の国家は「名望家の時代」。明治の時代も、類似の名望家が村の自治を担った。
…明治の国家は有産者秩序を軸に組み立てられていた。そこにはあるべき地主像が明確に存在した。町村長として地域統合の要となり、農業の指導者として明治農政を担い、費用負担を含めて種々の公共事業をおこなう。これらが名望家としての地主に求められた社会的責任。
…明治の村長は、一般に精神性が高く、強い公意識をもつ村長が目立つ。
…明治期後半から村を単位とした信用組合が増加するが、村の指導層である地主層は、村の負債の担保に自分の土地を提供したりした。(それで没落した金蔵の例〓)
▽187 昭和恐慌を契機にはじまった農山村経済更生運動は、現在の村づくりの原点。産業組合の拡充を事業の軸としたことが重要な特徴の一つ。村が運動に取り組むなかで町村の役割と位置を大きく変化させ、今日の自治体行政の仕組みや農業振興、村づくりにつながるれきしてきな変化が起きたことが注目される。
▽190 大字(=藩政村)と一致するむらは少数で、1大字に複数の農業集落が存在するケースが多数派である。一般的にむら=藩政村といえるのは近畿や北陸に限られる。
▽191 小作争議を通して、農地調整法(1938年)により委員会制による全村的な階級調整機関である農地委員会がつくられ、地主小作関係の調整がはかられることになる。なお、これが後の農地改革期の農地委員会につながる〓
▽193 戦後1万700の農業会が解散され、1万3000の農協が設立された。農協に対しては「農業会の看板塗り替え」といった評価が後にされるようになる。しかし、むら組織が農協の末端組織からはずれた。むら組織は農業団体の末端から相対的に離れ、自治省管轄の市町村の末端としての性格を強めた。
▽194 安保闘争 戦後最大の政治決戦の場であり、農業勢力にキャスチングボードがあたえられたときだった。
 1960年、生産者米価の決定方式は「生産費所得補償方式」に変わった。戦時中に使われた方式で、農業団体が求めてきたものだった。翌年には農業基本法が成立し、大型の補助金が約束された。安保という政治決戦が、農業・農村にふたつの大きな恩恵をもたらした。
 …生産者米価が上昇し、消費者米価を上まわり、農家は闇米として売るより、政府に売るほうが有利になった。米の全量管理が実現し、米集荷の95%をにぎる農協系統の力も強まった。食管制度は、農協系統に圧力団体としての基盤を与えただけでなく、春闘のような米価闘争という運動スタイルも与えた。
 …1970年に米が余り、減反政策へ。農家個々の事情をわかっているむらに、減反面積を割り当て、個々の農家への配分はむらにゆだねる方式に切り替えた。江戸時代にむらに年貢を割り当てた「村請制」また、戦時中に米の供出量をむらに割り当てた「部落供出制度」に似ていた。むらは農政の末端に組み込まれたようにみえるが、農政にはできない減反配分を見事にやってみせることで、食管制度をその後30年近く延命させるのである。(むらは「維持」に力を発揮する。変革には無力?〓)
▽196 農地の集約にむら機能を活用とするもくろみは失敗した。むらの平等性からいって無理な相談だった。
▽202 土地改良事業・圃場整備事業・米の生産調整、80年代の農用地利用増進法、近年の直接支払制度におけるむら内の合意形成・調整機能の発揮は、農業施策にとって大きな魅力だったし、農民の側からの防衛機制の基盤になった。(むらの現代的意味、みらいへの意味〓)
▽206 佐用町の旧南光町。水田転作ではじまった無農薬のひまわり栽培。食品やシャンプーまで開発。
▽211 従来から都市住民のボランティアによる「援農」や「草刈り十字軍」のような農業・農村への支援活動がおこなわれてきた。…しかし、単に自己実現のために農村地域に空間的に移住することだけでは、地域社会が求める社会的役割は十分に果たせるものではない。農山村にとって都市住民は、たんなる消費者や交流相手としてではなく、地域産業と地域社会の新たな担い手としての役割を期待されるようになっている。(〓むらのメンバーとして)
▽219 現代の日本農村は「古い村落共同体的な秩序ないし体系、…が次第に新しい、地域社会とコミュニティの体系に変わりつつある」といわれる。定年帰農者に注目を…

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