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縄文人の世界 日本人の原像を求めて<梅原猛編 三方町縄文博物館長>

■縄文人の世界 日本人の原像を求めて<梅原猛編 三方町縄文博物館長> 20141111
□梅原
▽12 今まで狩猟採集をし、流浪していて、文化の低いと考えられていた縄文人が実は定着していて、しかもかなり高い精神文化をもっていたらしいということは明らかになって参りました。
▽14 縄文文化は約1万年の間、日本にい続いているのです。世よい時代から江戸時代までの4,5倍であります。(〓平和はわずか60年、近代はわずか100年、縄文ほど続くのだろうか。原発は〓万年。非現実的。)
▽ エゾの子孫がアイヌ。アイヌの人たちこそ狩猟採集文明、つまり日本の伝統を堅く守ってきた縄文の遺民である。縄文人の世界観を考える中ではアイヌの人たちの世界観が最も参考になるのではないか。
沖縄に稲作農業が本当に定着したのは鎌倉時代以降と言われます。
アイヌの次に沖縄、その次に東北の人や離れ島に住む人たちに古モンゴロイド的体質の人が多く、近畿を中心として平野部に住む人に新モンゴロイド的な特徴を示した人が多く、確かに東北の人には、目のぱっちりとして鼻筋の通った、顔の凹凸のはっきりとした多いように思われる。
▽18 蛇 人間を殺すような力を持ったものを祀ることによって、かえって人間を守る神にしようとするのが日本の神道の本質であると私は思います。
▽土偶はすべて女性。すべて妊娠している。妊婦が死んだときの葬儀のためにもちいられたものと考えざるを得ない。
▽縄文時代の世界観は生きとし生けるものとの共存の世界観であり、生きとし生けるものがすべて、このよとあの世の間を循環する世界観であるということがわかります。「姓名の永久の循環」…縄文人の世界観は、我々が取り戻さなくてはならない、未来の人類が生きていくために是非必要な世界観であると思います。それゆえに縄文博物館は単なる過去を研究する博物館ではなく、現代に警鐘を鳴らし、未来に向かっての新しい世界観を提供するような役目を果たさねばならないと思います。〓
□小林達雄・新潟県立歴史博物館長
▽31 定住化によって、老人はムラの中で留守番することができ、天寿を全うすることができるようになった。旅の途中で涙ながらに落伍していくことはなくなりました。それによって、老人は自分の経験を一世代飛んで孫に伝えていく。それが文化力を育てる一番のもとになっている。
…縄文の文化力 定住革命によるムラの生活が軌道に乗って、おじいさん、おばあさんから孫へと言うメカニズム、仕組みができあがった結果なのです。〓
▽40 炉がある縄文の家。米作りが入ると、炉の火になんかかまっていられなくて炉はなくなる。けれどもやがて復活する。それが囲炉裏です。あれは火を消してはいけないのです。実は縄文時代以来の炉の心、炉を守った心が囲炉裏につながってきているのです。…囲炉裏に変わるものとして、リビングルームに応接3点セットを置くんです。
▽44 縄文時代から小規模ながら戦争はあった。弥生に比べたら少ないですよ。弥生時代は本気を出して戦争をするのですから。
▽49 縄文時代のように、アイデンティティとして、腹の足しにならない、しかし世界観と結びつくような記念物をたてようということがあまりにもなさすぎる〓。ダムをつくるかわりにそういう記念物をみんなでつくるべきではないでしょうか。(〓石碑の大切さ)。この公民館は弥生デザインなんですよ。1回来たらすぐに忘れるでしょう。ここを縄文デザインにすると、ああ、いい雰囲気だと心を打つものになるはずです。お金は公共的であればあるほど、無駄なところへ遣わないといけないのです。
□宗左近
▽55 熊野新宮の宝物館。縄文土器。縄文の遺跡の上に新宮が建っていた。
▽57 縄文の神様は、人々に恵みを与える「愛の神様」。弥生人は自然と闘ってきた人たちですから、その神様は「知の神様」だろうと思われます。「縄文人は南から、弥生人は大陸からやってきた」
▽60 戦前、マルクス主義は国禁でした。「縄文」の言葉も国禁だった。縄文を認めることは、皇紀2600年の歴史がうそだということがばれてしまうから。
▽62 岡本太郎「縄文土器・土偶。こんなに激烈な芸術が世界にまたとあろうか。…」「俺のおかげで縄文土器・土偶は大学の研究室の戸棚から出て美術骨董店のショーウインドウに移ったのだ」と豪語した。
…東京国立博物館の縄文土器の部屋に外国人と行きますと、目の色が変わってきます。
▽82 ヒスイは新潟県の姫川でしかとれない…弥生が縄文を征服したときに、縄文人のすべての芸術を否定した。化けもの扱いをした。例外は勾玉。魅力にとりつかれた。勾玉は古墳時代になってもさらに増える。それがなくなるのは奈良時代。仏教美術に征服されたからなくなってしまった。
▽93 安田 冷たい青い色を求めた縄文人。マヤ文明も青い緑色の玉が大好き。緑色の玉とは何かというと「森の緑」。縄文も森、マヤも森。
□廣瀬量平
□土取利行
▽145 梅原 縄文土器の美というのは岡本太郎によって再発見された。私は縄文をはじめてアイヌと結びつけた。
□小山修三 おしゃれな縄文人
▽160 縄文時代のアクセサリー 貝の腕輪だのヒスイのペンダントだの多様を極める。なのになぜゴリラに近い格好にするんだろう。赤い櫛はどこにいったんだろう。縄文時代といったらずっと昔のことだから、原始人に違いないという考古学者の思いこみなんですね。…縄文人は四角い顔、眉毛が濃い、目が大きい、耳たぶがたっぷり、髭が濃い。女だったら吉永小百合、男なら西田敏行に似ているといいます。ただし背は低い。
▽167 赤と黒〓。ベンガラや墨を遣ったんでしょうけど、この二つの色は縄文時代を通じて出てくる色です。色鮮やかに着飾って生き生きと動き回っていた縄文人がいたと思わざるをえない。(〓サンディニスタも赤と黒。生と死か?)
▽177 梅原 縄文の模様を見ると、とにかく空白がない。悪霊という空間に対する恐怖があるんだと思います。弥生になると、ほとんど無地。…関西は空白を大事にする弥生の美学、東北は料理でも全部くしゃくしゃ。縄文と弥生の感覚の差。棟方志功の絵とかは縄文の絵です。
▽179 平安と江戸に髪の毛に異常にこだわる時代があった。平安と江戸は、日本の基層文化である縄文文化が復活する時代。(=平和?)
▽181西田 縄文の美的水準はものすごく高い。5000年以上前からああいう櫛がつくられはじめ2500年にわたって進化していった。
▽187 安田 いろんな動物を複合して、ひとつの抽象的な世界観をつくっていくのと、蛇は蛇だと信仰する世界は、当然社会の形態が違うと思う。竜を生みだしたのは、さまざまにちがう民族のトーテムを一つの統合としてシンボルを作り上げた、これが漢民族の大きなパワーとなって、巨大な国家に成長していく。

□縄文時代の女性たち
▽193小山 縄文人は何でもすりつぶして食べていたような感じ。石皿と磨石。…
縄文人はおしゃれなんだなと気づいたのは、鳥浜貝塚から出土した櫛なんですよ。ヒスイとか、暖かい海の貝とか。おしゃれのためなら高価なお金を払っているようなところがありますね。腹が減ってもおしゃれをする。デモ人間にはそんなところがある。大事なことだと思います。
漆はハイテク産業ですから、素人が一人で全部やったと考えるのはちょっと苦しい。
□山田昌久 森をつかう縄文人
▽225 栗の木。他の木よりも生の時点では軟らかくて切り倒しやすい。建築材で使えるなかで一番やわらかい木だったとわかってきました。
▽230 安田 関東平野 弥生時代になるとカシやシイが増える。カシの木というのは堅くて石器で伐れないので、使い勝手の悪いうっそうとした森が増えたら困るから、火をつけた伐採したりして、拡大を防いでいたからでは。;
縄文人は役立つ木としてクリを選抜した。
▽235山田 通常の家は20センチくらいが一番良い。若木は石器でも切りやすい。
▽245 松が増えるのは弥生時代以降。古墳時代から製塩土器がたくさんでている。その燃料に使っていたので、若狭沿岸は松林になった。(〓珠洲と同じ) 松は燃料としては土器を焼くときに使っていた。
□まつりと土器 小杉康
□鳥浜はすごい遺跡だ 森川昌和
▽292 日本ザルの骨。頭をパーンと割られて中の脳みそを食べられてしまった〓(中華料理は縄文?)
▽304 うんこ石 糞石。
鳥浜遺跡は水漬けの遺跡。低湿地。地下3メートルから縄文の華が咲いた。
1万年前の糸。編み物もたくさんでてきた。
漆の文化があった。クリ材をくりぬいた漆の容器がでてきた。
教科書の記述も、1980年代は「動物や植物資源の獲得は自然条件に左右され、生産力は低く、人びとは不安で厳しい生活を送っていたと考えられる」と書かれていた。ところが1992年頃になると内容が一転していて、「食料の獲得法が多様化したことによって、人びとの生活が安定して、定住的な生活がはじまった」となります。プアな縄文人からリッチな縄文人へと教科書が変わった。
▽308安田 栽培植物の問題でも、はじめは縄文時代にそんなものなどあるはずがないと激しい批判を受けました。
▽小島 鳥浜貝塚が注目された理由の一つは、縄文人が食べていたものが大量に残されていたこと。淡水魚で一番多いのがフナ。…
▽森川 フグを相当食べている。ハスも食べていた。
▽安田 鳥浜で出土したヒョウタン、エゴマは南方起源で、日本には自生していません。だれかがもってきた。

□湖と人間 川那部浩哉
▽343 琵琶湖で網で一番とれるのはブルーギル、次はオオクチバス(ブラックバス)、三番目はヌマチチブ。これももとはいなかった種類。4番目がやっと在来種のトウヨシノボリ、いわゆるゴリですわ。
▽345 オオクチバスは1925年、箱根の芦ノ湖に移入された。入れたのはかなり強引な人だったと聞かされていますが…(〓天皇?)。それが戦後、各地へばらまかれてしまう。
▽348 梅原 「万物を水や火や空気というのはつまらない」ということでソクラテスが始めるギリシャ哲学は、人間中心主義で、自然哲学を忘れて人間の理性を中心に世界を考えていく。…「自然が大事、循環が大事」という考え方からはじまった哲学であったのに、人間中心主義で「循環」を否定してしまった。そこから哲学の間違いがあるんじゃないかと、私は考えているんですよ。

□自然環境と文化 中島経夫
▽355 琵琶湖の魚の8割は外来種。在来種は湖から外来種に追われ、上流の田んぼや水路に多くすんでいる。
▽367 なぜ西日本はまずい淡水魚をとるのか。これは1年のある決まった時期に必ず大量にやってくる、それをとって保存のために加工する、淡水魚、特にフナはあてになる資源だったのです。これらの資源によって定住生活ができるわけです。(なれ寿司は淡水魚〓)
西日本の縄文文化は照葉樹林文化、東日本の縄文文化は北方のナラ林文化、サケマス資源に支えられた文化だといわれています。
▽374 水につかる時間が長い田んぼは稲の生育が悪くなる。でも、水につかれば魚が捕れる。「悪い田」だから税金も安い。琵琶湖の湖辺の田んぼでは、オカズトリの漁業が盛んでした。昭和初期までは、おそらく専業漁師さんが捕る量より多い漁獲があったと推定されています。
今は圃場整備されて水につかることがない。湖周道路は堤防なのです。米の収穫は増えたが、琵琶湖本来の環境は完全に失われてしまった。
湖と陸を区別することによって、魚たちの産卵場は失われ、稚魚の成育場所も失われてしまった。そんな中で、アジアモンスーン地域とまったくちがう場所で生活していたブルーギルやオオクチバスが入ってきて、水辺エコトーンだった沿岸帯やデルタ帯に住み着いてしまった。
昭和30年代、琵琶湖の湖岸に近づこうにも、陸側からは近づけなかった。ヨシがあってドロドロで汚くて、湖側から舟に乗ってでもしないと近づけませんでした。(〓そうかぁ。湖は遠かったのだ)
▽378 吉田良三・三方五湖浄化推進連絡協議会長・漁師・「淡水」経営。平成6年を最後に、縄文公園の横に流れている鰣川の由来となるハスが三方五湖から消えてしまった。
東日本のサケ・マス論に対して、西日本にはフナもアユもいる。
▽中島 エリが壊れるほどとれるのが琵琶湖のフナの捕れかたでした。イオ島というのは、フナが島のように水面を盛り上がらせ塊になってやってくる。それを捕って漁師さんは活気づく。
▽吉田 5,6月の産卵期には、鯉とか鮒の群が遡上したというのはしょっちゅう見ております。本当に水が盛り上がる。昭和60年ぐらいまでは結構見られました。平成になってからはほとんどそういう状態が見られなくなってきました。
▽388 吉田「淡水」ウナギ屋。
三方湖からは、カワムツ、ワタカ、ムギツク、ヒガイ、ニゴイ、イチモンジタナゴ、アジメドジョウ、ヒメハゼ、カジカ…はいなくなった。
アオコがわく昭和46,7年頃からどんどん漁獲量が減って、昭和55年には最悪の時を迎えます。養殖していたコイは、年間7万トンあったのを全部殺してしまった。ウナギも2万匹全部殺しました。
▽397 鰣川の河川工事にしても、三方湖の護岸工事にしても、開発側の県の一方的なサイドでやってしまう。
田んぼが環境浄化するといわれますけれども、三方湖の水質を見る限り、田んぼとか梅畑から流れる肥料というのは、大変水を傷めております。

□DNAからみた縄文農耕 佐藤洋一郎
▽日本列島はクリの列島だった。
▽419 微生物。西の人がよく使うのは乳酸菌。東の人たちは麹を含めたカビですね。西の酒はビールが典型。麦のデンプンを糖に変えて、その糖をアルコールにする。麦の種子そのものが持っている酵素を使う。東のイネの風土の人たちは、主にカビ(麹)を使ってお酒を造る。
ネギは北の方は白ネギ(加賀ネギ)、南の方は九条ネギと言って緑色でたくさんにカブ分れをする系統。
▽441 梅原猛さん。循環の思想を縄文時代から学び取って、それを現代に生かすことがこの博物館の使命であるとおっしゃっている。
「ローテクでいこう」とか「忙しい思いをしないでゆっくりしようじゃないか」という意味も含んでいると思うんです。

□あとがき
▽456 縄文時代は女性中心の時代であった。その時代を語るのが男ばかりではあまりに片手落ちである。…
縄文博物館は、わずか9000人の小さな街が、独力で創出した日本初の縄文博物館である。…縄文時代と縄文文化が語る現代へのメッセージ、地球環境問題への警鐘に特化したのが功を奏したものと思う。〓〓
…水月湖の湖底から年縞が発見された。1年に1本ずつ形成されるバーコード状の縞々である。この年縞が10万年近くにわたって連続的に湖底に堆積していたのである。

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