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北前船の近代史 <中西聡>

■北前船の近代史 <中西聡> 成山堂書店 20140522
北前船が生まれた時代や経済の背景、北前船がもたらした経済の影響などを綿密に記してありとてもおもしろい本だった。
北前船というと江戸時代というイメージがあるが、江戸時代に藩と結びついて活躍した大船主は御用金の負担などで没落した。江戸期にそれほど大きくなかったため相対的に権力から独立していた船主が最も発展したのが明治だった。汽船が就航したあとも、定期航路がない日本海側は、建造費が安い和船が活躍した。
交通や通信の発達で、地域間価格差が縮まると、最後まで価格差のあった北海道が草刈り場フロンティアになる。さらに価格差がちぢまると、多くの船主はやめてしまうが、少数の船主は汽船を経営したり、北洋漁業に進出したりした。
北前船の繁栄には北海道というフロンティアがあり、汽船や陸上交通が不便という条件がそろっている必要があった。北前船は何百年もつづいたのではなく、近世から近代へとうつる時代の一瞬のあだ花ともいえる存在だった。
土地を買い集めて地主になったのは東北の本間家など。加賀の大家などは拠点を大阪などに移して汽船経営をした。銀行や保険会社をはじめたところも多い。だが、大規模な製造業などに投資することは少なく、それが後に「裏日本」と位置づけられる背景になった。
逆に今、農業や環境と工業の調和がとれていることが、幸福度の高さにつながっている。北前船のもたらしたものが再評価されるべきではないか−−という。
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▽1 牧野隆信を中心として1984年に加賀市で北前船セミナーが開かれてから、北前船は全国的に知られるようになった。
船主が商業活動をする「買積」。運賃をもらって運ぶ「運賃積」とは異なる廻船経営として注目された。
▽3 明治に入り、地域間価格差は次第に縮小したが、最後まで価格差が残されたのが、北海道と関東・東海・関西・瀬戸内・九州などとの間で、結果的に、明治時代には大部分の北前船主が北海道へ進出することになった。
…近代初頭から神戸−横浜−函館に定期汽船航路が開かれた。日本海では、鉄道・定期汽船網の整備が遅れたこともあり、19世紀末まで和船輸送が海運の中心だった。
▽9 江戸時代の場所請負制 松前藩下の福山湊や箱館湊・江差湊のみが本州方面との交易湊とされていたたため、場所請負人は3湊に拠点を置く商人だった。3湊に支店をおく商人のうちでは、近江商人と18世紀末に北海道に進出した江戸商人が大きな地位をしめた。
近江商人は17世紀に北海道に進出。…荷役船の船主は、越前国敦賀・河野・吉崎や加賀国橋立の船主が多く、北海道の漁獲物を敦賀で荷下ろしさせた。北海道−敦賀−大津というルートで18世紀の北海道産物が運ばれた。
▽16 北海道と江戸の結びつきは1780年代に田沼が北海道開発を計画してから強まった。江戸商人がこの時期に北海道へ進出。
▽22 北海道の鰊魚肥は、19世紀後半には、日本で最大の販売肥料として日本農業を支えた。20世紀初頭まで、この魚肥は北前船の最大の積荷としてその主要な利益源泉となった。
▽24 近代にはいると三井物産も魚肥市場に参入。巨大中央資本に対して、北海道の海産物商、北前船主そして大阪の廻船問屋は、組合を作って集団間の取引をすることで三井物産に対抗。…石川県・福井県の北前船主が中心となって1887年に北陸親議会という組合を結成して取引慣行を統一し、大阪の廻船問屋の組合との間で排他的な取引関係を結んだ。その結果、三井物産は北海道産鰊魚肥市場から一時的に撤退した。地域の資本が連携することで中央資本に勝利した。
▽27 北前船主は、資本蓄積を、漁業経営の拡大や取引相手への資金融通に投入したため、出身地元の銀行・会社設立にはあまり関与せず、そのため、東京・大阪に比べて日本海沿岸地域の企業勃興は遅れることになった。
漁業経営も1910年代に鰊が不漁になると衰退し、船主の多くは漁業・海運経営から撤退した。
▽30 函館銀行には、北前船主の平出喜三郎が発起人、西出、久保も取締役に。
…函館商人は海運会社設立をめざして渡島組を設立し、その経営に橋立の船主の忠谷久蔵がくわわり、函館汽船会社を設立。
▽32 小樽倉庫会社 西出が取締役に。…銀行経営にも北前船主がかかわる。
▽40 山形県の本間家。秋野家・野村家。
石川県南部の北前船主が、北海道産物をもっぱら扱い、出身地産物にそれほど関心を示さなかったのに対し、野村家は地元産のの大豆と魚肥、秋野家はコメを扱っていた。東北地域の船主は地域経済と密接につながっていた。
両家はの商業的蓄積の投下先は主に土地取得。蓄積が1880〜90年代の「企業勃興」期にあまり会社設立に向かわなかったことが、東北地方での会社設立の低迷につながったと思われる。
地主経営を一歩進めて、商業的農業を発展させる方向へ展開できれば、東北地域の経済も別の展開があったように思われる。(〓なるほどそうみると裏日本になってしまった過程が見えてくる)
▽46 新潟県は、富山・石川・福井おどではないが、ある程度北前船主も輩出した。
▽57 越中 富山県産米を北海道に運び、北海道で魚肥を買って富山県に運んだ。北海道漁業と富山県農業が密接に関係した。…と汽船と鉄道で魚肥がはこばれるようになると、東岩瀬の船主・宮城家は、北洋漁業への転身を図った。北前船主が北洋漁業に転身し、漁獲物が伏木港などに水揚げされることで1910年代の富山県の水産物生産額は急増した。
▽61 明治以降の北海道では東京の都市銀行の出店が相次いだが、東京以外では富山県の銀行の出店が目立つ。…1921,31年ともに、北海道での道外銀行の支店の過半数は富山県の銀行の支店が占めており、こうした富山県の銀行が1943年に北陸銀行に合併されたことで、戦後に北陸銀行が、北海道金融界において道外本店銀行としては有力な地位を占め続けた。
▽62 高岡 菅野家が中心になって、高岡紡績を設立。高岡銀行も。
伏木の藤井能三。伏木港の整備に尽力。その結果、1910年代以降に工場設立が進む。1908年に設立された「北陸人造肥料」。北前船主が設立メンバー。…第一次大戦で欧州からの工業製品の輸入途絶は、重化学工業が日本ではじまる契機となり、安価な電力がある富山は魅力的だった。
▽67 2003年に北海道銀行と北陸銀行が経営統合。この背景には、近代以降の北海道経済と富山県経済の密接なつながりがあろう。
▽69 能登 江戸時代には越中よりもむしろ能登の方が、北海道とのつながりは強かったともいえる。
時国家。上時国家が北前船経営をしていたことがあきらかに。…能登半島は、耕地が少ない丘陵地帯であり、漁業や海運業を生業とする人々が多数存在していた。そういう船乗りの活動が、北海道と本州との交易を盛んにすることに大きく貢献した。
能登半島の湊は風町湊として重要だった。とくに有名なのが福浦港。河村瑞賢が1672年に整備した西廻り航路では、福浦が福井・石川・富山県域で唯一の寄港地として選ばれた。福浦港には最盛期には20戸ほどの船宿があったといわれ…
…七尾港が定期汽船航路の寄港地として整備され、石川県で最大の港となったが、福浦・小木などでは帆船の入港が多く、1908年でも、福浦は年間2500隻、小木港は4300隻の帆船が入港した。
…明治時代の能登半島で最大の船主は一の宮の西村家。…1889年杜氏の大阪では浪華財界の三羽烏として「銀行の鴻池、工業の古河、海運の西村」とうたわれるようになった。
▽75  網野は、前近代の日本社会を農業社会ととらえるのではなく、多様な生業の存在を強調して、漁業や海運業など、うみにかかわる生業から日本社会をとらえなおす「海民論」を提唱した。
時国家は、江戸時代の農奴主として大規模に農業経営をおこなっており、近世農村社会を体現する家と考えられてきた。ところが、北前船経営をおこない、北海道や樺太まで交易に赴いていたことが判明し、それが「海民論」を支える有力な論拠のひとつとなった。
▽77 加賀の北前船主 銭屋。
江戸時代から北海道に進出していたのが橋立の船主。牧野隆信氏によって、橋立の北前船は北前船の典型例と位置づけられ…
▽83 酒谷家 株式投資先は20世紀初頭までは、函館に本社をおく銀行や会社が主だった。その後、伊予鉄道電気・京都電灯・大聖寺川水電など本州の電力会社に投資するようになったが。
…病院設立や学校建設への寄付など、橋立の北前船主は、生活面での地元社会への貢献をしたことが知られている。
▽86 江戸時代ではなく、近代期になってから北海道に店舗を設けた加賀国の北前船主が多い。彼らがのこした基盤が北海道経済に重要な貢献を果たすことに。
…結果的に旧加賀国地域の企業勃興に最も貢献した船主は、旧大聖寺藩領の大規模船主ではなく、旧金沢藩領の大規模御用船主でもなく、熊田家のような旧金沢藩領の中規模北前船主だった。

▽88 越前・若狭 近江商人は、松前や江差湊に拠点を設けて両浜組という仲間組織を設立。18世紀になると、両浜組は、北海道の海産物を共同で船を雇って敦賀まで運ばせ、そこから陸揚げして近江国に運んだ。両浜組に雇われた船主も越前や南加賀の船主が多く、河野・吉崎・敦賀・橋立の船主が主に雇われた。
三国湊は、加賀国南部からの物資や、九頭竜川流域からの特産物の集散地だったため、港湾機能が早くから整い、江戸時代には福井藩の外湊ともなった。西廻り航路が整備されると、福井・丸岡藩の年貢米を中心とする物資の多くが、三国湊から直接海路大坂に送られるようになった。
…三国・小浜の有力船主は、福井藩・小浜藩と結びついて御用輸送を大規模におこなった。河野・敦賀の船主は、近江商人の両浜組に雇われて、北海道〜敦賀の輸送を担った船主が多く、右近家・中村家もそうだったが、19世紀に入ると両浜組から独立した。彼らは江戸時代以上に近代期に成長した。(〓意外に新しい。江戸時代ではなく明治に繁栄していた。ごくわずかな時期だった)
▽91 小浜の御用船主・古河嘉太夫家
…小浜や三国の船主が、藩とのつながりの強さから多額の御用金を負担した結果、最幕末期には資産額が伸び悩んだ一方で、藩とのつながりが相対的に弱かった河野や敦賀の北前船主が近代期に発展した。右近は個人船主としては日本有数の汽船船主になり、敦賀の大和田荘七家は大和田銀行を設立し福井有数の銀行に成長し、北海道有数の炭鉱主ともなった。
(オカミだのみはだめ〓中居の衰退と同じ、補助金だのみはダメ)
▽97 1890年代以降は絹織物業が発達したため、北海道産魚肥の需要は伸びなかった。拠点を大阪と北海道に移した河野の右近家や中村家をのぞき、主要船主は1880年代に海運経営から撤退した。
そのなかで、近世期は経営規模が相対的に小さかったため、御用金負担が少なくて、幕末維新期に急速に経営規模を拡大した三国の森田家や大和田家が個人銀行を設立した。ただし、富山県のように近代的紡績会社などを直接設立するまでには至らなかった。
▽99 4つのタイプ
・和船を蒸気船に転換し、近代的船主となったタイプ。北陸の五大北前船主と呼ばれた家のうち馬場道久家、大家七平家・廣海二三郎家・右近権左衛門家がその典型。
・海運業は和船でもっておわり、以後は港湾都市に定住して問屋商人となるタイプ。大阪に廻船問屋を構えた能登の西村忠兵衛が典型。
・蓄積された資本を土地・山林に投資して地主となるタイプ。兵庫県北部の但馬国の船主が典型。
・蓄積された資本で近代的漁業部門に投資し、北洋漁業などへ進出するタイプ。富山県の船主が典型。
▽108 山陰 鉄道網の整備が1910年代まで遅れたため、定期汽船寄港地と沿岸の港を結ぶ地域内海運が発達した。
▽112 島根県・山口県での販売品はコメが中心で、買い入れ品は半紙・鉄・塩が中心だった。(〓たたら製鉄、工業地帯だった)
…浜田港は1896年に特別輸出入港に指定され、…鳥取/島根の船主たちは、朝鮮半島の釜山・仁川・元山と浜田を結び、挑戦から米や大豆を運んで浜田で販売し、浜田で材木・焼き物・瓦・竹を買って朝鮮に運んだ。(インターナショナルだった〓)
…北陸の船主の多くが20世紀初頭に北洋漁業に進出。同じ時期に山陰の帆船船主が朝鮮半島との貿易に進出した。日本海沿岸の帆船船主の活動範囲はこの時期に文字どおり「日本海」になったといえよう。
▽122 徳島県撫養港。徳島藩の主要特産物は塩と藍。主要移入品は藍むけの魚肥。
▽124 三国の船主の多くが、松方デフレ期に海運業から撤退したなかで、80年代前半には橋立の船主に加え、右近家との取引座像台した。
▽139 終章 地域間の価格差を利用して大きな利益をあげた。北前船の活発な活動により、国内市場は拡大した。ところが、大きな地域間価格差が残っているところに北前船が殺到することで、地域間価格差は縮小することになる。つまり、自らの経営基盤を掘り崩しながら活動を活発化させ、結果的に近代に入り、汽船網・電信網の整備によって、情報が速やかに伝わるとともに大量・迅速に物流が行われることで地域間価格差が縮小するに至り、その活動を終えた。
…商品市場での取引が力関係で恣意的に決まるのではなく、純経済的な交渉で価格が決まるようになり、商品市場を近代化させることに大きな役割を果たした。
▽140 資産家番付。…汽船経営に展開した北陸の大規模船主が上位に。…銀行設立。大都市ではなくむしろ地方での資金需要に北前船主の資金力が大きな役割を果たした。
▽144 北前船主は銀行や会社経営をてがけたが、1880年代の松方デフレで経営が破綻した。杜氏はまだ商法が制定される以前だったため、株式会社の有限責任の認識がヒロ待ていなかったため、経営者だった北前船主は家産を処分して会社に対する債権者に補償することになり、損失を被った。そうのため、1890年代の「企業勃興」期に積極的に会社設立に貢献することができなかったが、それ以前の日本において先駆的に会社制度を日本の普及させる役割の一端を果たした。
…明治時代前期の「企業勃興」が定着するには、商法制定による株式会社の有限責任認識の普及が必要だったことも同時に示していた。(〓株式会社の意味。有限責任の意味。なるほど)
▽北前船主らが経営を担った会社は銀行以外には運輸会社・保険会社が多く、製造業部門への投資は少なかった。(例外は高岡の菅野)
そのことが、日本海沿岸地域で大会社による工業化が遅れた背景にあったと考えられる。土地経営をする船主もおおく、農業部門の比重は高いまま推移することに。
こうした遅れが「裏日本」と呼ばれる背景になったが、いまは逆に再評価の余地が大きい。工業に特化するのではなく、農業・工業・商業をバランスよく展開させてことにより、自然環境の維持とある程度の生活水準の上昇の折り合いをつけつつゆるやかな経済成長を遂げたと考えてみたい。住民の幸福度も高い。(〓幸福度の高さの源泉?)
北前船主は、土地経営・醸造経営などで農業との強い関連を持ち続けた船主が多かった。こうした家業維持と複合経営の志向性に支えられて、1,2,3次産業間のバランスのとれた産業構成で、生活の豊かさを目指す道の可能性を北陸地方に見てとれると思われる。
▽147 北前船は江戸時代というイメージが強いが、実際は近代になってからさらに発展した。江戸時代後期に幕藩権力と結んで大規模船主となった人々は、御用金の負担が大きく、さらに松方デフレ期に家産の多くを失ったため、近代校に廻船経営を発展させることができなかった。
それに対して、江戸時代はそれほど大きくなく、幕藩権力から相対的に自立していた船主が、幕藩体制による活動の規制がなくなるとともに、廻船経営を発展させることになった。それができたのは、明治時代に北海道が本格的に開発され、新たに広大な市場が形成されたからだった(〓フロンティの存在〓)
▽148 大家七平は、日本と対岸のロシア・朝鮮を結ぶ日本海一周定期汽船航路を20世紀初頭に開設するにいたった。日露戦争で南樺太を領有するようになると、多くの船主が北洋漁業に進出。1910、20年代の日本は「日本海時代」を迎えることに。

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