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葬られた王朝-古代出雲の謎を解く <梅原猛>

■新潮文庫 20131112

 古事記に描かれた出雲王国は現実にはなかった--筆者はかつてそう書いた。1984年以降、荒神谷遺跡などで大量の銅鐸が見つかり、出雲に巨大な権力があったことが明らかになった。筆者は以前の自説を、神話はすべてフィクションと考える津田左右吉に影響された誤りと認め、懺悔をこめて改めて出雲王国の姿を解き明かした。津田の影響下にある日本の歴史家はだれも日向神話に目を向けない時代、これに関心を示したのがレヴィストロースだったという。
 古事記を綿密に検討し、いわれの地を歩くと、神話の世界が現実にあったかのように生き生きと立ち上がる。過去を知るには豊かな想像力がなければならない。巧みな歴史家は小説家以上の想像力があり、その文章を読む人の心を動かすことができる。
 高天原から追放されたスサノオが韓の国におりて、そこから出雲に渡ったという記述は、渡来人であることを示す。スサノオ王朝は、2代つづけて土地の豪族(国つ神)であるオオヤマツミ家と結婚することで出雲における地位を強固にした。銅鐸は、中国の馬車につけていた馬鈴で、朝鮮半島ではそれが貴人の証しだった。スサノオがつくった出雲王国でも、銅鐸が象徴となった。
 八岐大蛇退治の伝説については、島根では暴れ川の斐伊川の治水工事を示すという説を聞いたが、筆者は、強力な翡翠産出国「越の国」(北陸)の攻撃を撃退したことだと考える。
 その後、スサノオがつくった王国は巨大化し、越の国はもちろん近畿圏まで支配する王国になる。国引き伝説はそうした勢力拡大をあらわす。その立役者が大国主命だった。銅鐸は出雲で生まれ、王国の拡大とともに中国、四国、近畿でつくられるようになった。下鴨神社では重要神事で銅鐸を鳴らす。奈良や京都に出雲系の神社が残っているのも王国の名残りだという。
 オオクニヌシとその参謀のスクナヒコナの最大の功績は、医療をもたらしたことだ。スクナヒコナは朝鮮から先進医療技術をもってきた。そうした医療に関する施設のひとつがスクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えたという玉造温泉だった。粟や小豆、麦、大豆などの農業をもたらしたのも出雲系の神々だということも古事記は示唆している。
 だが、大きくなりすぎた帝国は運営が困難になり崩壊する。そして、稲作をもたらした天孫族に敗北し「国譲り」となり、オオクニヌシは根の国におりることになる。
 ただ、その後も出雲王国は一定の自治を許される。大宝律令によって、先祖代々諸国をおさめていた国造は権力者の立場を追われ、中央政府から任命される国守に実権は移ったが、出雲だけは国守がおかれず、出雲国造は紀伊国造とともに政治的支配権を維持しつづけた。
 筆者は、古事記や日本書紀をつくったのは、律令国家を完成させた藤原不比等だと断じる。
 不比等が立役者となってつくった律令国家は、唐の律令とはまったくちがった。唐の律令は、中書省、門下省、尚書省の3省にわかれ、それぞれ独立して皇帝に直属するが、大宝律令では太政官一本にしぼられている。権力は太政官をにぎる高級官僚、すなわち藤原氏に集中する。いわば象徴天皇制だった。これは藤原家の権力を意味した。
 竹取物語は政治的な風刺小説ではないかと筆者は考える。大伴氏も物部氏も愚かさによって滅ぶ。うそを本当に見せかける天才的な才能をもち、金持ちでけちで残忍な男は不比等なのだという。藤原氏は400年間、日本の政治をほぼ独占した。徳川も及ばない超長期政権だった。
 天孫降臨では、実質的な命令者はアマテラスよりタカミムスビだった。タカミムスビは外祖父として聖武帝を皇位につかせた不比等に似ている。天孫降臨の計画を立てたオモイカネもまさに不比等だ。不比等は律令国家を完成させるとともに、藤原氏の子孫の末永い繁栄をはかる策略を記紀のなかにも忍び込ませた。
 記紀で活躍する神々はすべて不比等を思わせるか、春日四神として藤原氏の氏神になった神だった。古事記は「稗田阿礼が誦んだ旧辞」を書き留めたとされるが、稗田阿礼とは藤原不比等ではないか、とも筆者は推測する。
 不比等こそが、大和王朝に敗れた出雲王朝の神々を出雲に封じ込めた張本人だと結論づける。出雲大社が、天皇の祖先神アマテラスの伊勢神宮よりはるかに壮大なのは、「古事記」に語られている前代の王朝の神々の鎮魂を示したものだという。

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▽19 日本の神話そのものを全くのフィクションと考える津田左右吉の説と「神の流屢」の説は変わりなかった。……津田の影響下にある日本の歴史家には日向神話に目を向ける者などなかった。ところがこれに関心を示したのがレヴィストロースだった。
▽24 出雲に神話にふさわしい遺跡がないという通説は、昭和59年の荒神谷遺跡発見によって吹き飛んでしまった。平成8年には加茂岩倉遺跡が発見。さらに四隅突出型墳丘墓が数多く発見される。
▽33 出雲王朝は少なくとも6代はつづいた。
▽36 出雲王朝の祖先神スサノオとヤマト王朝のアマテラスとは、禊によって生まれた姉弟。……
 イザナギ、イザナミはその子孫によって二つの系統の神々に分かれた。ヤマト王朝と出雲王朝。ヤマト王朝の神々はすべて光の神、善神であり、出雲王朝の神々は闇の神、悪神である。
▽42 「粟の国」徳島県は粟農業を始めた国なのではないか。……古事記の一節は、粟や小豆、麦、大豆などの農業が出雲系の神々によって始められたことを物語っているのでは。ヤマト王朝の祖先神である天孫族がもたらしたのは稲作農業と養蚕に限られていることに対応している。……岡山県すなわち吉備も、黍農業が盛んな国だったのではないか。阿波も吉備も、出雲王朝の権力が及ぶところだった。
▽46 スサノオは朝鮮半島から出雲にわたり、斐伊川をさかのぼり、「鳥上峯」にたどりつく。これは船通山とされる。
▽48 佐原真によれば、銅鐸の源は馬の首につけた朝鮮の馬鈴。
▽56 日本海に臨む当時の国々ので、ヒスイを生産した越の国が最も豊かで強い国。それが出雲を支配し……山々が荒廃し、人々を苦しめていたのではないか。それが八岐大蛇とされたのでは。
▽63 熊野大社 出雲の国の一之宮。出雲国造である出雲大社の宮司が亡くなると、熊野大社に赴いて「火継」の式をおこなわねばならない。ここで神聖な火をもらわないと出雲大社の新しい宮司になれない。また、毎年10月15日に出雲大社の宮司がやってきて「亀田太夫神事」。出雲大社の宮司がもってきた神餅のできばえにケチをつける神事。
 八重垣神社「鏡の池」 クシナダヒメの御霊が沈んでいるといい、今でも硬貨を紙にのせてお供えする。……
 須佐神社。
▽78 スサノオ王朝は、2代続けて土地の豪族、すなわち国つ神オオヤマツミ家と結婚することによって、渡来民であるスサノオ子孫の出雲における地位を強固にしたのであろう。
▽80 「国引き」かつて島であった島根半島が海面下の地盤が隆起によって陸続きになり、……陸地が飛躍的に増えたことを祝賀する話だと考えるべきであろう。
▽99 ヒスイがとれて、豊かな富を誇った「越王朝」を、オオクニヌシは攻めにいく。
▽104 オオクニヌシ王国は、ヤマトを制服しようとする。
▽110 関西周辺には、オオクニヌシおよびその子たちをまつる神社や「出雲」の名を伝える場所がはなはだ多い。……京都には出雲路も。……オオクニヌシは、近畿、四国、山陽の地までも支配下に置いていたと思われる。
▽112 美保関という交通の要地に、スクナヒコナが船に乗って現れる。
▽115 スクナヒコナは朝鮮から先進の医療技術をもってきて多くの人命を救ったのであろう。そのような医療に関する施設の一つが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えたという玉造温泉。スクナヒコナは温泉の開拓者でもあったのだろう。
 酒の醸造技術をもたらした神でもあったらしい。
▽124 数多い王子たちのなかで後継者争いがおこる。「播磨国風土記」には、そういった争いが語られている。オオクニヌシとスクナヒコナが争った話もある。
▽130 姫路は播磨の中心都市であり、明治維新の際には県庁所在地が置かれるはずの地だったが、姫路藩は彦根藩とともにあくまで薩長に抵抗した佐幕の藩であったので県庁の所在地を、名もない港であった神戸に奪われた。
▽143 内部分裂とアメノヒボコといわれる韓の国から来た強力な神の出現によって追い詰められたオオクニヌシのもとに、ついに国譲りの使者がやってくる。……「古事記」では国譲りの使者はタケミカヅチであるのに対し、「日本書紀」では主たる使者は物部の神を思わせるフツヌシ。出雲王国を滅ぼしたのはニニギ一族より一足先にこの国にやってきた物部氏の祖先神かもしれない。
▽145 国譲りを象徴する祭りが、美保神社の「諸手船神事」と「青柴垣神事」。
▽152 美保神社の横山宮司は、松江中学で竹下登と同級。
▽153 出雲大社で最も重要な祭りは神在祭。御忌祭とも呼ばれる。オオクニヌシの葬儀に全国の神々が集まり、神議をおこなう催事。オオクニヌシが黄泉の王として再生したことを祝う祭りともいえよう。……
 佐太神社は、出雲大社および熊野大社とともに出雲では最も尊崇される神社の一つ。……「加賀の潜戸」〓賽の河原という砂浜があり、亡くなった子どもの遺品が備えられ、ランドセルやサンダルなどが散らかっていて、まさに黄泉の国といった風であった。
▽168 イザナギ・イザナミがセックスして国生みをしたオノゴロ島は「沼島」と伝えられている。土佐日記のころには、海賊の島だった。
 …イザナギ・イザナミは、縄文の神であると思う。縄文の哲学は「産み」の哲学である。セックスの哲学である。タカミムスビ、カミムスビの「ムスビ」はセックスを表す。…これに対してイザナギ・イザナミにつづく神々は明らかに弥生の神であり農耕の神である。イザナギが産んだアマテラス、ツクヨミ、スサノオはいずれも農耕の神である。つまり、イザナギ・イザナミから三貴子の時代へと変わることによって縄文時代が終わり、弥生時代がはじまる。…
 こう考えると、スサノオ、オオクニヌシの出雲神話は弥生時代の話なのだろう。…弥生時代のはじまりは通説より500年さかのぼった。つまり紀元前10世紀ごろにはすでに稲作農業が行われていた。従来800年の幅で考えられていた弥生時代を1200年の幅で考えねばならない…西洋においては先史時代を石器時代、青銅器時代、鉄器時代に区分する。青銅器時代は、武器や農具などの実用的道具を重んじる鉄器時代とはちがった何かロマンのある時代と考えられてきた。…弥生時代が500年も広がるとすれば、かなりの長期間の青銅器時代が現出する。スサノオやオオクニヌシの話も弥生時代の話であり、青銅器時代の話である。
▽172 新たに認識された3000年前の弥生初期…かつては日本列島の文化的中心は、日本海沿岸にあった。北陸地方の巨大なウッドサークルは高い文化を示す。真脇遺跡。
▽186 勾玉文化の中心地、越は出雲のオオクニヌシの手に帰した。それが古事記の、オオクニヌシのヌナカワヒメに対する恋の話となった。
 弥生時代になると、ヒスイとならんで碧玉の勾玉や管玉がつくられるようになる。この碧玉がもっとも多くとれる原産地は、玉造にある花仙山。
▽191 荒神谷遺跡 銅剣、銅矛、銅鐸。銅矛は弥生時代の国家の元首の宗教的・政治的シンボルだったと思われる。…遺跡の近くの人に尋ねてまわると、多くの人が、遺跡のある場所は祟りがあるので近寄ってはならないところとされていた、と、話してくれた。(〓)
▽200 昔は岡本太郎と同じく縄文文明の崇拝者で、弥生時代に興味がなかった。
▽204 佐原真 朝鮮の人にとって漢式馬車を持つ貴族は尊敬の的だった。貴族のシンボルとして馬の首につける鈴を副葬した。日本で馬の鈴を銅鐸という形で宝器としたのは、朝鮮から来た貴族かそれにあこがれをもつ人物であったにちがいない。それがスサノオでは。
▽219 国生みの沼島近くの淡路島でも銅鐸20個が出土。
▽223 銅鐸は出雲で生まれ、出雲王国の拡大とともに中国、四国、近畿で多くつくられるようになったのでは。…下鴨神社にも銅鐸があり、重要な神事にはかならず鳴らす。出雲の加茂の出身と思われるカモ氏をまつる下鴨神社には、古い出雲の祭りの名残があるのかもしれない。
▽230 縄文時代、あの世とこの世はあまり変わらないと考えられた。ただ万事があべこべ。この世の冬はあの世の夏、昼は夜。…このような考え方は私が子どものころにはまだ残っていた。着物を裏返しに着たり、水にお茶を入れて飲んだりすると「また死人の真似をする」と叱られた。
▽231 土偶はすべて胎児を宿した女性。そしてすべて必ず破壊されている。中央に縦一文字に引き裂いたような跡がある。
 …アイヌ社会では、子どもが幼くして死んだとき、遠いあの世から帰ってきた祖先にこの世の幸せを十分味会わせずにすぐにあの世へ帰すのは申し訳ないと考え、死体をかめに入れて、人の通る入口に埋める。その子を産んだ夫婦がセックスに励んで、死んだ子が次の子として生まれ変わってくるようにという願い。
 縄文時代の竪穴住居の入口には、子どもの骨がいれられたかめが逆さにして埋められていることがある。この風習がアイヌ社会に残されていたのだろう。
 …妊婦が死んだときはもっと大変。おなかの子は妊婦の腹に閉じ込められてあの世に行けない。だから、いったん墓に妊婦を入れるが、翌日その墓を掘り返し、妊婦の腹を割いて、その胎児を女性に抱かせて葬ります。
 土偶は腹を裂かれて死んだ妊婦の像。
 …縄文時代からの「あの世観」はずっと残っていて、この世で完全なものはあの世で不完全であり、この世で不完全なものはあの世で完全であるという信仰があったと思われる。それゆえに死者に贈られるものは壊して贈らねばならない。
▽238  荒神谷 銅鏡が天孫族の大王のシンボルであったように、銅鐸は出雲国の大王のシンボルであったと思われる。
▽250 研究者がアイヌに彼らがうつっている写真を見せたら、いやがられた。人間の似姿に呪文をかけると、その人間の命も失われるという信仰がアイヌ社会にあった。…鏡は、人の似姿を映す者であり、縄文の信仰に生きる人間には計り知れない恐怖を与える呪器だった。北九州に移民して、先住の縄文人とトラブルを起こしていたにちがいない弥生人の豪族にとって、鏡は縄文の霊を追い払う有益な呪器であったであろう。
 …神武の東征で、ヤマトにいた物部氏の祖の連合軍を滅ぼして日本国の大王となったとき、前代の出雲王朝の銅鐸にかわって、鏡を最高の宝器としたのではなかろうか。
▽256 津田左右吉 日本神話ばかりでなく、記紀の応神天皇以前の記事をすべて信用できないと否定する。天皇家に神聖性を付与するために創作されたフィクションであるとしてしまう。
 …記紀を解明するには、本居宣長と津田左右吉の説、私自身の説を徹底的に批判しなければならない。
 …宣長の思想は、それまでのインド崇拝の仏教者と、中国崇拝の儒学者を批判し、インドや中国は「ねじけた心」の国であり、日本こそまことに素直な「直昆霊(なおびのみたま)」の国であるとする。
 …宣長は、日本の古典を深く理解する…偉大な学者であると同時に、排外主義イデオローグとしての側面が共存していた。…戦前の日本歴史家や国文学者は、宣長説の影響下にあった。
 津田左右吉は、宣長説を根本的に否定した、ほぼ唯一の日本歴史研究者。津田のなかにも、二種類の人間が共存していた。綿密なる考証を行う文献学者としての津田と、大正デモクラシーが生んだ「凡人主義」のイデオローグとしての津田。一切の神秘的なもの、偉大なものを、一切の異様なもの、残虐なものと共に信じないという思想。
 …源氏物語は「好色文学」とされ、芭蕉も「わけのわからない句を作った俳人」と断じる。津田が唯一礼賛していたのは一茶だった。自分の理解し得ないものはみな「たわごと」として一切切り捨てる「凡人主義」の思想の持ち主であることを知った。
 …津田説を金科玉条とする戦後の歴史家によってつくられた歴史教科書では神話はほとんど教えられず…日本国家は村々の自然な共同体の平和的結合によってつくられたかのごとき幻想が教えられている。
 …しかし神話を失った民族が末永く繁栄をつづけることができるとは思われない。
 私の「神々の流ざん」も…
▽270 大宝律令は、唐の律令とは内容はまったくちがった。唐の律令は、中書省、門下省、尚書省の3省にわかれ、それぞれ独立して皇帝に直属するが、日本では太政官一本にしぼられている。権力は天皇より多く太政官をにぎる高級官僚、すなわち藤原氏に集中する。…天皇が親政しない象徴天皇制を志向する律令だった。
 …持統天皇の死んだ702年の8年後に藤原京から平城京にうつされた。新しい藤原権力の確立を印象づけるものだった。
▽272 興福寺や春日大社は藤原氏の繁栄を祈る寺社だった。
▽281 鎌足の後をついだのが、鎌足の次男で、天智天皇の子との噂もある不比等だった。
▽283 天孫降臨でも、実質的な命令者はアマテラスよりタカミムスビだった。タカミムスビは外祖父として聖武帝を皇位につかせようとする不比等にあまりに似ている。
 …オモイカネは天孫降臨の綿密な計画を立てた。周到な政治計画をたてそれを実行する行動力ももっていた藤原不比等にあまりに似ている。
 …不比等は律令国家への道を完成させるとともに、藤原氏の子孫の末永い繁栄をはかる策略を律令制完成の仕事に密かに忍び込ませた。
 古事記において不比等は、あるいはタカミムスビとして、あるいはオモイカネとして現れているように思われる。
▽302 「古事記」「日本書紀」において活躍する神々はすべて不比等を思わせる神か、春日四神として藤原氏の氏神になった神である。
▽307 古事記は「稗田阿礼が誦んだ旧辞」を書き留めたとされるが、稗田阿礼とは藤原不比等ではないか。
▽313 稗田阿礼=女性説は、平田種胤が唱え、明治の国学者、井上頼國によって復興され、柳田国男によって受け継がれた。…現代のほぼすべての「古事記」研究者は宣長のウズメ氏説を信じる。違うのは、宣長に従って男性とするか、平田種胤に従って女性とするかだけである。
▽317 「日本書紀」 藤原不比等を編集責任者として、多くは帰化系の官人を集めて撰集されたものにちがいない。そこに、記紀の神代史において重要な役割を果たす大伴氏や物部氏、忌部氏などに属する高級官僚は誰一人入っていなかった。
▽328 「古事記」は、神話の名において諸氏の勤務評定をしたようなもの。勤務評定において百点をとったのは藤原氏のみ。
▽331 竹取物語は、日本ではめずらしい政治的な風刺小説ではないか。大伴氏も物部氏も愚かさによって滅んでいく。うそを本当に見せかける天才的な才能をもち、金持ちでけちで残忍な男は不比等の風刺だ。
 …藤原氏は以来400年、日本の政治をほぼ独占した。
▽338 ヤマト王朝において前代の王朝鎮魂という神事の主役をしていたのは物部氏であり忌部氏であった。この2氏を祭事の主役から追い払い、その主役を中臣・藤原氏に独占させることが「古事記」神話創造の目的であり、その象徴的建物が、巨大な建物、出雲大社だったのである。〓
▽357 大宝律令によって、先祖代々国の長として諸国を治めていた国造は政治的実権者としての立場を追われ、中央政府から任命される国守に代えられたが、出雲にだけは国守がおかれず、出雲国造は紀伊国造とともにその政治的支配権をとめおかれた。それはおそらく出雲国の神祭りが特別に重視されたからであろう。
▽365 不比等は、自らの子孫のみに藤原姓を名乗らせ、他の藤原氏を元の姓、中臣氏にして、政治を藤原氏、神事を中臣氏に司らせた。
▽368 不比等こそが、ヤマト王朝に敗れた出雲王朝の神々を出雲の地に封じ込めた張本人だと思う。…江戸時代に出雲大社の本殿は半分の高さになったが、それでも天皇の祖先神アマテラスの坐す伊勢神宮よりはるかに壮大な神社である。
 …出雲大社建造は、「古事記」に語られている前代の王朝の神々の鎮魂を具体的に示したものであるといえよう。

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