MENU

民俗学 ヴァナキュラー編 人と出会い、問いを立てる<加藤幸治>

■武蔵野美術大学出版局240830
 欧米には、異文化を研究する民族学博物館と、自国民の文化的多様性や習俗の地域差を研究する民俗博物館がつくられていった。そこでは各文化を個別に展示した。言語や宗教、物質文化、儀礼などの要素のセットで「文化」を展示室に再現できることが前提となっている。逆に言えば、人間は文化によって分断されていると考えられた。
 1970年代に入ると文化の見方は劇的にかわる。文化とは、人が異文化にふれて、それを丹念に記述することで「理解」にいたるとされた。文化は科学的法則から(要素の収集で)おのずと解明されるのではなく、自己が他者を理解しようと努力することで描き出されるもの(解釈学的理解)であるという考え方だった。その努力とは、エスノグラフィ(民族誌)を書くことで、くわしい記述によって文化ははじめて理解できるとされた。
 項目に分類して記述するものから、不可分に絡み合ったその意味を解釈するものへと変化したのだった。
 1980年代になると、文化を「書く」ことの権力性への批判が生じる。90年代には、文化を「書く」という行為の問題は、文化研究だけでなく、歴史学や文学など幅広い近代の学術にあてはまり、文化の背景には、常に支配と被支配の関係(権力関係)があるという主張が、文化の概念をさらに揺るがしていった。その代表が「オリエンタリズム」だった。

 ヴァナキュラーとは、人々の生活からはぐくまれた文化的特性を意味する。民俗学とは「ヴァナキュラーを見出す技法」であるという。
 たとえば「おつかれさまです」というあいさつはそのまま外国語に翻訳しても意味が伝わらない。関係性のなかに埋めこまれたコトバだからだ。翻訳不能なものを言葉をつくして理解してもらうのが、民俗学の仕事なのだという。
 ブリコラージュとは、そこらにあるもので、まったく別の目的に使う道具をつくりだす知恵であり、近代科学とは対極にある「野性の思考」であるとレヴィストロースは考えた。世界中の神話も、断片化されたエピソードの寄せ集めであり、一見世界観として一貫していてもは矛盾をはらみ、隣接文化から流入したものなどをふくんでいる。「寄せ集め」こそが文化の本質であり、ローカルな知識や生活文化は、状況のなかで常に変化しつつ普遍的な人間の文化に通じていくのだという。
 かつては調査者は黒子だと考えられたが、活動的な参加型の調査が望まれるようになり、話者が研究者の調査のために語るだけでなく、語ることで当事者意識を再確認するありかたを目指す「語りのオーナーシップ」が重視されるようになってきた。地域と積極的にかかわる宮本常一的な民俗学者が主流になりつつあるようだ。

 柳田国男は当初、農耕以前には狩猟採集を生業とする先住民「山人」がいたと考えたが、研究を進めた結果みえてきたのは、山地に定住した農耕をベースにした地域社会であり、山村は「奥地の農村」にすぎないと結論づけた。「山人」論が挫折してたちあがってきたのが「常民」という概念だった。
 農漁村とくらべ山村は、林業や鉱山などは企業的な労働だが、山林資源を活用して産物を得るという生業においては、遊び仕事の要素が強い。山村は、人生を楽しげに語る人が多いという。
 なるほど。熊野のニホンミツバチの蜜をとる人たちは楽しそうだったなあ……と思いだしていたら、筆者も和歌山の博物館学芸員だったときにその調査をしていた。
 セイヨウミツバチは、蜜を口に含み、そのまま巣に貯蔵するため蜜はショ糖だが、ニホンミツバチは、花の蜜を体内の酵素と反応させてから貯蔵するため巣にある時点ですでにブドウ糖だという。だから、ニホンミツの味はやわらかなのだ。
 一方、伝統的な養蜂法だと思っていた「ゴーラ」は、江戸時代の「日本山海名物図会」の挿絵にはでてこず、軒に吊した桶の底板にミツバチの出入り口を開けたようなものをつかっていた。ゴーラは間伐材を使うから、比較的新しい道具ではないかと筆者は推測する。
 熊野では、養蜂と備長炭と梅の循環農業がいとなまれてきた。備長炭の森の特徴は「択伐」にあり、伐採した時期によって陽当たりが変化し、植生がまるでことなる。そうした二次林がそだつ過程で、野草や薬草の採集、ニホンミツバチを使った蜂蜜採取、狩猟などがおこなわれてきた。

 東北の復興へのかかわりも興味深い。
 被災地の復興は、「復旧」ではなく、持続的発展が可能なモデルへと産業構造をつくりかえることが意図された。商品力の高いものに集中的に支援しし、それらが全国で三陸の特産品として受け入れられていくことをねらった。
 三陸は、数十年に一度の津波のたびにそういったリニューアルを経験してきた。牡鹿半島の鮎川は、1896年の津波と1903の大凶作からの復興の起爆剤として、西日本の捕鯨会社を誘致し、近代捕鯨の一大拠点として成長した。商店や映画館、娯楽施設がならんだ。1928年には鯨館の前身となる展示ができ、54年には鮎川町立資料館ができた。震災後は観光物産交流施設と復興国立公園のビジターセンターに資料館が併設された。
 筆者は震災後、人々が大切にしたいと考えるものを再認識する活動「復興キュレーション」をはじめた。ひとつの展示で聞いたエピソードから、次のテーマが浮き彫りなり、その連鎖によって地域の暮らしのイメージを共有していく。
 能登の復興にもそういった視点が必要かもしれない。

 全国の「市」では市神をまつっている。市場は神域であり、世俗の論理を超えることができる。そこに持ちこまれたものは神に献げた奉納物のように、だれのものでもなくなり、だからこそ「安全に」交換ができる。「市」には自由な交易を保障する神がいるのだ。
 市場の研究はアジールの議論とつながる。アジールとは、世俗の権利や法の及ばない聖域であり、無塩寺・縁切り寺に逃げ込んだ奴婢や犯罪人、夫と離縁したい妻などを追っ手から守護できる場だった。
 現代においても、宴会における無礼講や、鬼遊びのなかの安全地帯、エンガチョ、さらには大使館という存在や、赤十字活動の中立性などにアジールの痕跡を見出すことができるという。


=======
▽66 「記憶」「絆」「文化財」、「国体」「日本的」「国民精神」……鶴見俊輔は「お守り言葉」と呼んだ。「社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、自分の社会的・政治的立場をまもるために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事の上にかぶせたりすることをいう」
「お守り言葉」が、どういう土台の上に横たわり、それによってどういう拘束や規制を受けているかに「気づく」視点をもつのは人文学やアーティストの役割である。
▽68 エスノグラフィ 直訳の「民族誌」から派生し、ミクロな場の文脈の理解のための継続的な関与といった意味である。
▽70 ブリコラージュ そこらに転がっている切れっ端を使って、まったく別の目的に使う道具をつくりだしてしまう知恵。近代科学やエンジニアリングとは対極にある「野性の思考」であるとした。……世界中の神話も同様に、断片化されたエピソードの寄せ集めでできており、一見すると世界観として一貫しているようで、実は矛盾をはらみ、かつ隣接する文化からの流入など差異を含んだものであるとした。どんな文化も寄せ集めの状態に過ぎない。それが文化の本質であるとした。
……この概念は90年代のカルチュラル/スタディーズという現代文化研究において、拡張された。
 カルチュラル……は今ではほとんど萎縮してしまったが……ローカルな知識や生活文化が、常に状況依存的に変化しつつ、普遍的な人間の文化に通じていくといった動態的な性格をもっているという共通認識だけは現代の文化の研究に広く浸透している。……地域に固有に形成されていく生活文化は、まさに寄せ集めのブリコラージュで、独自な文脈をもっている。
▽74 話者が研究者の調査のために語るだけでなく、語ることで当事者意識を再確認するような在り方を目指す「語りのオーナーシップ:
 「黒子調査」のような静かな調査から、活動的な、いわば参加型の調査、池に石を放りこんでその波紋を読むような調査研究法の模索が望まれる……(〓表現の意味)
▽80 2010年代、ミツバチをめぐる2つのニュース 「害虫としてのミツバチ」「コミュニケーションツールとしてのミツバチ」(まちづくり)。
▽82 ハチの狩猟。宮崎県の五ヶ瀬川上流では、スズメバチの体に布きれを結び、それを目視でおいかけて森のなかの巣をさぐりあて、幼虫や成虫をとる昆虫食のための狩猟がおこなわれている。
……高野山で、土の中に巣をつくるスズメバチの狩猟へ。
 蜂の子のバター炒め、サナギの佃煮。
▽87 セイヨウミツバチは、蜜を口に含み、そのまま巣に持ち帰り貯蔵する。そのため蜜はショ糖である。ニホンミツバチは、花の蜜を体内の酵素と反応させてから貯蔵するため、巣にある時点ですでにブドウ糖の状態である。つまり、すぐにエネルギーを発生させることができる。
……天敵は肉食のスズメバチ。巣にスズメバチが入ってくると、一斉に働きバチが蜂蜜をなめてエネルギーをため、スズメバチを団子のように囲んで羽を震わせ、それによって発生する熱で殺したり撃退したりする。熱に耐えられる温度が、ミツバチの方が少しだけ高いのだそうである。
……秋から冬、集めた蜜をなめながら越冬をする。夏の蜂蜜の収穫では、ハチの巣の半分だけを取り、半分は越冬のために残しておく。
▽90 江戸時代の熊野の養蜂「日本山海名物図会」の挿絵を見ると、ゴーラとは似ても似つかない道具を養蜂箱にしている。軒に吊した桶の底板にミツバチの出入り口を開けたようなものであった。ゴーラは間伐材を使うことからも、意外と新しい道具なのではないかとわたしは推測している〓。
▽98 農漁村とくらべ山村は、林業や鉱山などは企業的な労働のコミュニティをベースとしているが、山林資源を活用して産物を得るという生業の面においては、遊び仕事の要素が強い。現金収入という目的はあるものの、個人のなかの創造性や……仲間との競い合いといったものがある。山村では……人生をじつに楽しげに語る人に出会うことが多い。
▽99 柳田国男の「山人」の研究。定住文化以前の狩猟採集民という仮説があったが、……そこでみえてきたのは、山地に定住した農耕をベースにした地域社会のすがたであり、「山村生活の研究」では、山村は「奥地の農村」にすぎないと結論づけた。
「山人」論が挫折して、逆に立ちあがってきたのが「常民」という概念である。
▽102 備長炭の森の特徴は、選択的に伐採をする「択伐」にある。……去年切ったばかりの森では、陽当たりが植生がまるで違う。その二次林が育っていく過程で、野草や薬草の採集、ニホンミツバチを使った蜂蜜採取、狩猟などが行われる。
▽109 11月7日は山仕事の仲間がつどって山祭り。
 山祭り当日は、山に入ることをタブーとしている。……山の神は春には山に種をまき、秋には山の木を数えると言われるため、山に入ると木の数に数えこまれて、帰れなくなってしまうという世にも奇妙な伝承があるからである。
▽114 1999年から和歌山県立の博物館施設で学芸員
▽118「たまにびっくりするような御馳走を食べるより、毎日食べる同じものが美味しい方が嬉しいわな」。おばあさんは、毎日つくる茶粥と、毎年作る漬物と味噌のことをいつも考えているような人だったが、わたしはそこに日常性に対する無条件の信頼を感じるようになっていた。
……茶粥食は1日5食……夏の昼間に冷やした茶粥、……。
▽121 明治後期から昭和初期には、桑の木を減らしつつ、紙すき用のコウゾを増やしていき、昭和中期にはシュロ畑がメインとなっていった。平成に入ってからは、山椒やキウイ、シシトウの仲間などがはやり……
▽130 高機が普及する前、庶民の衣服や、麻やカラムシ(ちょま)などの植物繊維や、樹皮の靱皮(外皮と幹の間の層にある繊維)を利用する、フジ、コウゾ、シナ、アイヌのオヒョウの繊維でつくられた。
 江戸時代、木綿が流通すると、日本の衣文化は大きく変化していった。柳田はそこに決定的な意識の転換を見ぬいた。「木綿以前の事」〓
……木綿は染めやすいから、人々は色に対する感性を豊かにし、それを日常のなかにより求めるようになったと主張する。生活を取り巻く物品が変わることで、人々の意識が変わることを、最も身近な着衣から浮き彫りにしたのである。
▽134 旧木頭村でつくられてきた布に、太布(たふ)がある。コウゾの繊維で作られる布。
▽135 黒糖を太布の搾り袋に入れて重しをかけて圧搾すると、黒蜜が染み出し、……真っ白い三盆糖となるわけである。……この圧搾には、太布以外の宇野では敗れてしまうため、現在でも太布が欠かせない。
……太布はその強靭さから、山仕事の道具や砂糖の圧搾という、ヘヴィーな仕事にもちいる道具の素材として選ばれてきた。
▽144 気仙沼名物の気仙沼ホルモン。日本の水産業を支える規模の特定第3種漁港〓である気仙沼は全国屈指の港町。
▽149 牡鹿半島の水産業 仙台湾側の表浜 女川湾側の裏浜。
▽153 被災地の復興は、地震の直前を目標に復旧するのではなく、基本的に持続的発展が可能なモデルへと産業構造をつくりかえることが意図された。
 基本的な路線となるのが、、いわゆる六次産業化・地産地消法。
 ……商品力の高いもの、……へ集中的に支援が行われている。こうしたものが名物として全国に流通し、三陸沿岸の特産品として受け入れられていくとすれば、被災地域のブランド食材は政策的にコーディネートされたものと言えよう。(〓能登の復興は、少量多品種こそが価値なのに〓)
▽174 牡鹿半島の鮎川。1896の津波、1903の大凶作からの復興の起爆剤として、西日本の捕鯨会社の誘致に動いた。鮎川は近代捕鯨の一大拠点として成長した。
 鮎川は、「産業としての捕鯨」と、地元資本による「家業としての捕鯨」がともに発展していった。商店や映画館、娯楽施設がならび……
▽175 人々が大切にしたいと考えるものを再認識する活動、「復興キュレーション」をはじめた。
▽176 ひとつの展示で聞いたエピソードから、次のテーマが浮き彫りなり、その連鎖によって地域の暮らしのイメージを共有していく。
▽184 鯨歯や鯨ヒゲをもちいた鯨細工。鯨歯の印鑑や……
▽186 1928年、鯨館の前身となる展示。
 1954年に鮎川町立資料館。
 観光物産交流施設と復興国立公園のビジターセンターに併設された。
▽190 「昔ながらの」「伝統的な」というイメージから脱却し、……日常生活の現実をも含みうる
現在進行形の暮らしの造形や表現を射程にとらえることができるという。
▽192 牛タン 渡網と呼ばれる牛タン焼き用の金網。仙台市内で、蒸籠や篩といった曲物の台所用具をつくってきたOさんが手作りしてきた。
 金網製試験管立て スピーカーの金網。
 東日本大震災のあとにOさんが亡くなり、曲輪職人がつくる金網製品は仙台から消えてしまった
▽200 紀州鍛冶 畿内各地に出稼ぎし、移動先に定着していった。田辺領の許しをえて、紀北や河内などに出稼ぎ﨑を展開させていった農家の次男三男だった。……大正期になって、職人たちがチャーターした船が沈没する事件があり、次第に地元の紀州にもどらなくなり、出稼ぎ先に定着して、ふつうの野鍛冶となり「紀州鍛冶」を名のるようになった。
▽208 縁日市 世田谷のボロ市〓
▽212 市神をまつった市場は神域であり、世俗の論理を超えることができる。そこに持ちこまれたものは一旦神に献げた奉納物のように、だれのものでもなくなり、だからこそ「安全に」交換ができる。「市場での自由な交易を保障する神」
▽219 中島義一は、市場で見るべきポイントのひとつとして、市の開かれる日に、その町の商店は店を開けるか開けないのかということをあげていた。
▽223「貸椀伝説」 岩などで椀を貸してくれと叫ぶと次に行ったときに椀がおいてあるという伝説。合羽などの妖怪が運ぶという例もある。不心得者が、借りた椀をごまかすと二度と貸してもらえなかったり罰を受けたりするのである。鳥居龍蔵は「これは沈黙貿易である」とし、柳田国男は「いやこれは竜宮伝説のような異郷観にもとづく神への信仰だ」とした。
……市場の研究においては、自由と平和はアジールの議論とつながっている。アジールとは、世俗の権利や法の及ばない聖域であり、無塩寺・縁切り寺に逃げ込んだ奴婢や犯罪人、夫と離縁したい妻などを追っ手から守護できる論理であった。楽市楽座についても、世俗の法や関税とは無縁な自由交易のできる場であり……
 現代においても、アジールの痕跡を見出すことができる。宴会における無礼講、子どもの鬼遊びのなかの安全地帯、エンガチョなどである。大使館という存在や、赤十字活動の中立性などを、特異な形で残ったアジールの痕跡とみることもできるかもしれない。
▽234 浜松市楽器博物館
▽235 旅や商いを生きるアウトローな人々。……民俗学はこうした人々を正面から描くことをしてこなかった。
▽239「ヴァナキュラーを見出す技法」としての民俗学。ヴァナキュラーとは、人が生きる現場と人と人の関係性、つまり生活のなかから立ちあがる文化的特性を言う。
……オンラインやSNS オンデマンド授業 一話完結で短めに準備して、それ自体がひとつのエッセイとなるようにすること。そして科目全体が一冊の本をなすように構成すること。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次