■kadokawa20230607
927年の「延喜式」で重要とされた「延喜式内社」2861社は、古代の「聖地」一覧だ。それらをもとに「聖地」とはなにかを考察する。
最初に能登の真脇遺跡がとりあげられていてなつかしい。
真脇遺跡は三方を山に囲まれる母の胎内のような「縄文やすらぎ空間」という。新しい聖地はこうした古くからの聖地を下敷きにすることが多い。
空海は旧来の日本の神々と聖地・霊場を仏教のために活用しようとした。
空海が修行した阿波の太龍寺には龍がすむという洞窟があり、その周辺を丹生とよんだ。高野山のふもとにも丹生津姫神社がある。水銀鉱脈があり、それを採掘する金属技術者とのかかわりを示している。水や水銀をつかさどる丹生津比米の女神と、山の民を表象する狩場明神の力を借りて空海は高野をひらいた。奥の院の墓石群も、山中他界の観念で山に納骨する民俗信仰のなごりだという。最澄も、古来の聖地である比叡山に仏道修行の道場を建立して神仏習合の方向を採用した。
仏教とは、心の苦悩(煩悩)をなくし、安心立命の解脱の境地におもむかせる「心のワザ学」だが、その道場を縄文時代以来の旧来の神々の聖地に建立することで、神仏の聖地として、日本の聖地が拡大した。
聖地の多くは災害に強い。那智大社に樹齢800年の大木が残っていること自体、自然災害が少ないことを示している。
東日本大震災でも、福島の新地町から相馬市、南相馬市沿岸部にある延喜式内社84社のうち67社が無事だった。津波で流された神社は移転したものが多かった。
伊豆国に92座の延喜式内社があるのも地震や火山なおどの自然災害と密接な関係がある。延喜式内社などの聖地は防災の拠点だった。
出雲、丹後・久美浜の熊野神社などからは日本海の彼方の「常世国」にわたることができると信じられたから浦嶋子の伝承がある。
熊野の人びとは黒潮の彼方に「常世国」を見ていた。常世と接するリスキーな土地であるが故に、「常世力」とでもいうべき「幸」を受け取るとかんがえられていた。
野生を失った都人からみれば、雄大な太平洋をのぞむ熊野は、北欧の人びとにとってのイタリアだった。自然の強度が圧倒的な熊野では、海上他界信仰や山中他界信仰が生まれた。
熊野には1400万年前、巨大なカルデラがあった。火山の地下岩体が地表に露出して、神倉神社のゴトビキ岩などの信仰対象となった。
ふたつのプレートがぶつかる熊野では、南方系・暖地性と北方系・寒地性の両方の動植物がいりみだれてすんでいる。人間以前に、虫や魚、草木が「熊野詣」を重ねていた。その上に人間の「蟻の熊野詣」がのっかった。
聖地は、幻想や「詩人気どりの感傷」によってなりたつものではなく、場所のリアリズムに基づいてなりたつのだ。
熊野の徐福伝説は、新宮市と三重県熊野市にある。同様に丹後の伊根町新井崎にも徐福上陸伝説がある。
徐福がさがしていたのは不老長寿の「薬」だ。丹波の語原解釈として「たには」「田庭」という説があるが、「丹」は「丹生」となると水銀を意味し、「丹」は不老長生の薬物とも考えられた。「丹波・丹後」の永遠の生命というイメージが「常世国」と結びついたとも考えられる。
若狭の国には「遠敷(おにゅう)明神」とよばれる若狭の国一宮の若狭彦神社と若狭姫神社がある。「遠敷」は「丹」と関係がある。この若狭彦神社=遠敷明神の神宮寺から「お水送り」がおこなわれ、地下を流れ、東大寺の「お水取り」で汲み上げられる。
神話によると天橋立は、垂直に天地をつなぐ橋だったが、イザナギノミコトが眠っているあいだに倒れて、今のように水平になったという。
橋立の付け根の丹後国一宮の延喜式内社籠神社の奥宮「真名井神社」は「元伊勢外宮」とされる。この地に浦嶋子や天の羽衣の「奈具社」の伝説があるのも、ここが他界や異界との境界線であり、その象徴が「天橋立」だったことをしめしている。
観音浄土にむかう補陀落渡海の那智の浜と、「仙都」につながる浦島伝説の地とは、熊野信仰や海の民の文化として共通している。
日本の「聖地文化」とは、地質・地形・風土の中から生まれた「生態智」を宿しているという。生態智とは「自然に対する深く慎ましい畏怖・畏敬の念に基づく、暮らしの中での鋭敏な観察と経験によって練り上げられた、自然と人工との持続可能な創造的バランス維持システムの智恵と技法」だ。
神社は本来、社殿はなかった。神は、祭りの時にのみ来臨するとされ、迎神のための仮設の社があるだけだった。常設の社殿は、祭りが増えたことや、律令の確立とともに神祇制度が整えられたこと、仏教の寺院の影響などが考えられる。
現在でも三輪山を神体とする大神神社、諏訪大社、金讃(かなきな)神社などは本殿がなく、山や岩、神木などを拝殿をとおしてまつっている。
鏡や玉、剣は、本来磐座、神籬(ひもろぎ=聖樹)にささげられていたものだったのが、のちに神体視されるようになった。
伊勢神宮正殿の床下には、必要のない心御柱があり、古い神籬だとみる説がある。出雲大社の心柱や諏訪大社の御柱も、神籬の名残りと思われる。
長谷寺の十一面観音が磐座の上に安置され、中禅寺の千手観音や書写山円教寺の如意輪観音が立木から彫られたという縁起からは、磐座、神籬の信仰が仏教にあたえた影響が見られるという。
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後半は、それぞれの「聖地」を紹介する。
四国遍路は、4つの顔をもつ四国の自然風土のなかを歩くことで身心変容を遂げていくワザだ。発心、修行、菩提、涅槃の4つにわける準拠枠があることで、自分自身の身心の状態をはかることができる。確かに。4県をめぐることで、体も心も変化していくのは実感できた。88カ所の本尊は観世音菩薩30寺、薬師如来23寺だった。苦からの脱却や救済と病気治療がもとめられた。
西国33所の一番が那智山青岸渡寺になったのは、熊野有馬村にはイザナミノミコトが葬られたと日本書紀に記され、「常世国」に通じるところと信じられたことや、熊野と吉野をむすぶ「奥駈」の修験道が発達したこと、熊野御幸、補陀落信仰などの存在が大きかった。
阿蘇神社は、中岳第一火口にある湯だまり「神霊池」を上宮としてきた。
阿蘇が巨大な湖だったころ、健磐龍命が外輪山を蹴破り、湖の主である大鯰を退治して人の住める土地にしたという伝説がある。阿蘇家や旧社家の人々は今も鯰を食べないという。大鯰は神社成立前の地霊であり、先住の人々が恐れ敬っていた阿蘇の大自然を象徴する国津神だったと推測される。
八幡社の総本宮である宇佐神宮は、渡来系の秦氏の流れの辛島氏、大和の三輪山の神を祀る大神氏の分流、宇佐国造の子孫の宇佐氏の3氏が神職として奉祭してきた。
辛島氏を中心として渡来人達がまつっていた八幡信仰(道教・仏教と習合したシャーマニズム)に、大和朝廷からの大神氏が応神天皇らの伝承をもちこみ、宇佐氏の聖地であった馬城嶺の神と習合させたとという。
大陸文化の影響を受けていた八幡神は、女性シャーマンの託宣を通じて神仏習合を推進し、やがて「八幡大菩薩」と称するまでになる。
だが道鏡事件を境に託宣をくだす禰宜は力を失い、辛島、大神両氏も衰退する。かわって宇佐氏が台頭し近世までつづくことになった。
諏訪大社がまつる建御名方神は、古事記では建御雷との力比べに負け降伏した敗北神とされるが、諏訪では土着の神を制圧した諏訪大明神とされている。
東京の神田神社は、平将門の首が京都からとんできて、それをまつった伝説がある。明治維新後、政府の意向で朝敵である将門を本殿の祭神からはずしたため氏子が怒り、騒動となった。その結果、別殿に将門をまつることになった。昭和59年、全氏子の要望によって将門は本殿の祭神として復帰した。江戸っ子の反骨の気風がかんじられて興味深い(大宮の氷川神社でも神社庁への反乱があった)
鹿島神宮は国譲りに活躍したタケミカヅチノオオカミをまつる。古代の常陸国はみちのくと境を接する蝦夷経営の前線基地であり、在来の神に中央からの「天の大神」を重ね、北方鎮護の軍神としての鹿島神宮が構成された。本殿が北を向いているのは蝦夷地を鎮めるためといわれている。
一方浄土真宗は、縄文以来の信仰と切り離すことで躍進した。カトリックにたいするプロテスタントに近い。教祖親鸞からつづく血統が信仰の力になっているようだ。
親鸞が死ぬと鳥辺野の北の大谷の地に墓がもうけられた。10年後、吉水の北辺に改葬され、大谷廟堂と呼ばれた。覚信尼が墓守り(留守職)になり、留守職を子孫がつぐようになったのが法主の源流だ。
親鸞の曾孫の覚如は、「専修寺」の寺号を称しが、「専修念仏は禁止されたものだ」という比叡山の抗議を受けて「本願寺」の寺号をもちいるようになった。蓮如は幅広く布教したが、比叡山の襲撃をうけ、1465年に大谷の本願寺は破却した。越前の吉崎に坊舎をかまえ、1478年には山科に本願寺を再建した。しかし戦国時代に焼失。証如は大坂に坊舎をうつし、石山本願寺としたが、、信長に攻められる。秀吉が政権をとると、大坂天満に移転し、1591年には京都に寺地を与えられた(西本願寺)。
飛鳥寺は日本最初の本格的寺院で、日本仏教誕生の聖地だ。飛鳥は渡来人に開発された地域で、彼らと深い関係がある蘇我氏が進出した。
室生寺が「女人高野」になったのは江戸時代半ばからにすぎない。室生川の上流には室生龍穴神社や「吉祥龍穴」とよばれる洞窟があり、龍穴と呼ばれて神聖視された。
比叡山信仰は坂本の日吉大社の東大宮からはじまる。東本宮の背後の神奈備型の牛尾山(八王子山378メートル)が神が降臨した本来の鎮座地であり、磐座が屹立している。現在の東本宮は牛尾山に対する里宮だと考えられる。
竹生島は日本三大弁天のひとつ。浅井姫命(竹生島明神)が、本来水の精であった弁財天と同一視されるようになった。
青岸渡寺は明治の神仏分離以前は、如意輪堂と呼ばれ那智権現社(那智大社)に属していた。五来重は、那智のオリジンは滝ではなく妙法山であるとする。死者の霊が訪れる霊地として信仰され、納骨をする風習もあった。最初は妙法山が崇拝対象で、那智の滝は山に入る前の水垢離の場だったが、いつしか滝が神格化され、妙法山にとってかわったという。
七面山(山梨) は日蓮宗の山岳信仰の聖地だが、信仰の底流には、山岳信仰・水神信仰がある。
恐山は比叡山・高野山とならぶ三大霊場。古くは宇曽利山とよばれた。江戸時代、地獄にたとえられる光景から「恐」という字があてられた。死者供養の霊地として信仰されてきた。だが死者の口寄せをするイタコが集まるようになったのは大正から昭和初年にかけてで、昭和30年代からマスコミでも報じられ、「恐山=イタコ」というイメージが急速に形成された。
英彦山(福岡・添田町)明治の神仏分離までは修験道の聖地で、英彦山権現と称された。 「彦山49窟」と総称される修行窟が散在している。洞窟信仰は九州修験道の特徴だが、大陸の石窟寺院の影響も考えられるという。
六郷満山(国東半島) 半島の付け根に鎮座する宇佐八幡宮をはじめ、全体が、神仏にまつわる聖地、霊地として崇められてきた。新羅仏教は、石仏や磨崖仏など山岳仏教系の色彩が濃い。六郷満山をめぐる峰入りは明治に途絶えたが、昭和32年に復活、平成22年にもおこなわれた。
吉野宮は応神天皇以後、聖武天皇まで400年で8人の天皇が行幸した。場所は吉野町宮滝の宮滝遺跡とされている。ここでは縄文土器から平安初期にかけての遺物遺構が次々に見つかった。
大峯は、金銀銅亜鉛マンガンなどの鉱脈が存在し、金峯山神社は金鉱の守護神である金精明神を祀っている。山岳信仰に基づいて発展し、聖地はじょじょに山奥へと移動し、10世紀ごろからは、別の山岳信仰を有していた熊野と、山系を縦走する修行路によってむすばれ、大峰修験道が発生した。
富士山は864年に大噴火。噴火をきっかけに、富士山信仰は水神から火山神へと変質した。
日光は、「補陀落」「二荒(ふたら)」「二荒(にこう)」「日光」とかわったという説がある。男体山に象徴される日光は、観音浄土の補陀落になぞらえられていた。だがその信仰の土台には、円錐形の男体山を神体山とみる在地の古代信仰もあった。
出羽三山は 月山(1984メートル)=月山神社、羽黒山(414メートル)=出羽神社、湯殿山(1500メートル)=湯殿山神社=から形成される。信仰の中心は羽黒山。明治の神仏分離令以前は、仏教色の濃い修験道の聖地だった。
羽黒山山頂の三神合祭殿は、かつて山内を統括した寂光寺の本堂だったといわれているが、その前に鏡池があり、ここから平安時代の銅鏡などが見つかっている。1年を通じて水位の変わらない神秘の池はご神体として崇拝されていた。水分(みくまり)信仰が三山の基盤にまずあるという。
三山の奥の院として機能してきた湯殿山の神社は、熱湯がわきだす巨岩を神体とし、本殿はない。
三山ともに死者供養の場、死霊こもる山として信仰されてきた。羽黒修験や湯殿山での滝修行は、「死の聖地」をめぐることによる再生儀礼・生命循環の秘儀でもある。
沖縄とアイヌのシャーマニズムやアニミズムは異次元情報とアクセスするアクセスポイントとしての聖地を大切にしてきた。
斎場御嶽や久高島。それから宮古諸島の北方4キロにある大神島。人口20数人。島全体が御嶽のような空間のなかで、ツカサたちによる秘儀的な祭祀が維持されてきた。
沖縄全般に残るオバア文化とは「母系制文化」であるが、その母系のオリジンである「祖神」の祭祀と信仰が「大神島」や「久高島」にもっとも濃く伝承されているという。
アイヌの神居古潭(旭川市)は、ストーンサークルや竪穴住居遺跡、神居古潭甌穴群などがある。
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▽19 真脇遺跡のまわりは三方を山に囲まれている。母の胎内のような空間。ほっとできる安心空間。まさに縄文やすらぎ空間。
そのような地形を、ウッドサークルは木柱列の並びを通して模倣しているかに見える。胎内のなかの胎内というような入れ子構造。
・・・三方の山と森。その山森がやさしく抱き込むような入り江の海。
▽25 延喜式内社の須須神社。森のたたずまいが南方系。折口は能登半島までタブが生えているといっているが、そんな森のたたずまいだった。
暖流と寒流がまじわるところに、神社も真脇もある。
▽26 聖地は場所のリアリズムに基づいてはじめてなりたつ。幻想やロマンや「詩人気どりの感傷」によってなりたつものではない。
▽34 神話は世界が多次元的に存在していることを物語る。
▽36 空海は聖地を大切にした。日本の神々を大切に崇拝した。..曼荼羅の思想をもって、空海が日本の神々に対してとった基本戦略は、日本の神々と聖地・霊場に密教弘法の守護を願い、活用するという方策であった。
▽37 高野山と水銀鉱脈 丹生明神
・・・阿波の太龍寺にも龍がすんでいるという洞窟があり、その周辺を丹生とよんだから、ここに水銀鉱脈があり、その水銀を採掘する金属技術者とかかわりがあることを示唆している。
空海が高野においてえも阿波においても、丹生の地と龍と金属技術者集団に深い縁があったことが知られる。
丹生津姫の神は、水および水銀をつかさどる女神。この姫神と狩場明神の力を借りて高野をっひらいたのである。狩場明神はおそらく、山住みの民を表象しているのであろう。
▽41 平安京の鬼門にあたる比叡山という地をいちはやく選んだ最澄の地政学的センス。神々のおわす古来の聖地に新しい仏道修行の道場を建立するという神仏共存ないし神仏習合の方向を採用したからである。
「道心」を堅固に養い耕すために、12年間、山を下りずに一心不乱に比叡山で修行することを義務づけた。比叡山はこの最澄の「山家学生式」のマニフェストによって世界に冠たる学道の府となったのである。
最澄と空海は、日本の聖地と中国の聖地を結びつけた。最澄の場合は天台山と比叡山、空海の場合は長安の青龍寺と東寺と高野山をつなげた。それによって日本の仏道修行の道場でありながら、日本の神々にも守られ、中国の仏教聖地や寺院の道統をも受け継ぐ人物のハブとなりえたのである。
▽44 最澄と空海は、仏教セクトを中国から導入する際に、日本の神々のはたらく神道的聖地に隣接して、あるいは間借りして仏道修行の道場をつくり、「神仏習合」の聖地を生み出し、聖地概念を拡張し、聖地形態を拡大した功労者なのだ。
▽48 空海 歴史的ブッダを超える宇宙的ブッダすなわち大日如来からの流出・展開を基軸にすえて、そこと直接コンタクトしようとした。
▽49 仏教とは、心の苦悩(煩悩)を滅尽し、安心立命の解脱の境地におもむかせる「心のワザ学」だったが、その道場を神々の聖地に建立することで、神仏の聖地・霊地として、日本の聖地が拡大顕現したのである。
▽54 那智退社の境内の楠の巨木からトトロの生息する楠をイメージしたのだろうか。
▽56〓天川村坪内の天河大弁財天社
▽60 周囲が壊滅的打撃をうけているときも、聖地の中心部は被害がなかった。
樹齢800年の大木が残っていること自体が、そこが地盤が安定していて自然災害が少ないことを示している。
・・・聖地という聖なる場所は、自然災害の避難地として用意されたともいえる。
▽63 東北・延喜式内社100社のうち、石巻市や女川町がある牡鹿半島周辺に10社も密集していること自体が、地震や津波の多発と関係があるといえよう。
東日本大震災において、神社が避難所になった。
▽63 福島の新地町から相馬市、南相馬市沿岸部にある84社のうち67社が無事で17社が被害をうけた。津波で流された神社は移転の歴史があるものが多く・・・
▽64 伊豆国に92座の延喜式内社がある意味も地震や火山の噴火などの自然災害と密接な関係があると推定できる。
延喜式内社が、防災・安心・安全装置や拠点であった。
▽65 延喜式内社などが縄文遺跡などの遺跡および古代遺跡と近接し、縄文時代からの信仰と切り離せないことも重要なポイント。
日本の聖地文化とは、地質・地形・風土のなかから生まれた「生態智」を深く宿していることが見えてきた。
▽73 熊野からも、出雲からも「常世国」にわたることができる。丹後・久美浜の熊野神社から日本海の彼方の「常世国」にわたることは可能なのだ。そこで、この地域に浦嶋子の伝承が伝わったのだ。
・・・熊野は「常世国」と境を接するリスキーな土地であるが故に、そこから「常世力」とでもいうべき「幸」を受け取ることができるデインジャラスでセイクレッドな場所と認識されていたことがわかる。恐ろしい! それ故に聖なる力をもっている。畏怖と魅惑の両極を抱くヌミノーゼ的な聖地が熊野なのだ。
▽74 野生を失いつつある都人からみれば、創造を絶するような雄大な太平洋の光景、陰鬱な冬の気候をもつパリやベルリンの人々にとっての光と風の国イタリアの開放感と共通する。・・・熊野は日本のイタリアなのである。
京都から熊野にむかうとき、・・・まさに、異界。ここに強烈な他界信仰が生まれてくるのがよくわかる。海上他界信仰や山中他界信仰が。人間の生存基盤である自然の強度が違うのである。
・・・熊野には光と闇の両極がある。それが死者のつどう「隠国」という熊野信仰となり、浄土と地獄が掛け軸に共生する「熊野十界観心曼荼羅図」に結実する。
▽76 熊野には1400万年前には巨大なカルデラがあった。・・・地下にあった火成岩脈の一部が地表にあらわれ、それが「古座川狐状岩脈」になった。・・・火山がないのに温泉が多いのはそのためだ。・・・火山の地下岩体が地表に露出して、神倉神社のゴトビキ岩などの奇岩、岩峰は大事な信仰対象になっている。
▽78 プレートがぶつかる・・・熊野地方は生物多様性が担保され、・・・「蟻の熊野詣」になるが、そのような参詣以前に文字通り「蟻」「虫」が熊野詣をしていたのである。
ふたつのプレートがぶつかる熊野では、南方系・暖地性と北方系・寒地性の両方の虫が入り乱れてすんでいる。
・・・人間以前に、虫や魚、草木が熊野詣を重ねていた。その生命線の上に「蟻の熊野詣」がのっかっている。
▽79 熊野の徐福伝説は、新宮市と三重県熊野市にある。同様、徐福伝説のある丹後。伊根町新井崎に徐福上陸伝説。新井崎神社の祭神に。
徐福がさがしていたのは不老長寿の「薬」だが、その薬は「丹」とよばれることもある。丹波の語原解釈として「たには」「田庭」という説があるが、・・・「丹」の字があてられていくことは意味深長である。「丹」は「丹生」となると水銀を意味し、「丹道」は古代中国の錬金術の「煉丹術」で、これには「内丹法」としての気功・導引と「外丹法」としての服薬・復食の二法があった。「丹」はまた不老長生の薬物とも考えられ・・・
とすれば、「丹波・丹後」にも永遠の生命というイメージが「常世国」と結びついてあったとも考えられる。
隣の若狭の国には「遠敷明神」とよばれる若狭の国一宮の若狭彦神社と若狭姫神社が鎮座するが、この「遠敷」が「丹」と関係がある。
・・・この若狭彦神社=遠敷明神の神宮寺から「お水送り」がおこなわれ、地下を流れ、東大寺の「お水取り」で汲み上げられる。
▽81 天橋立 今のように水平のものではなく、垂直のもので、天地をつなぐ橋であったが、イザナギノミコトが眠っているあいだに倒れて、今のようになったという伝承。
橋立の付け根の丹後国一宮の延喜式内社の籠神社。その奥宮が「元伊勢外宮」とされる真名井神社である。
・・・「元伊勢」とされる地は、「倭姫命世記」には、現在の伊勢の内宮を含め25カ所の記載があるが、大和国笠縫邑から、次に移ったのが丹波国吉佐宮である。「二番目の元伊勢」
▽84 この地に浦嶋子や天の羽衣の「奈具社」の伝説ともつながる。・・・ここが他界や異界との境界線であり、その象徴が「天橋立」であった。
・・・観音浄土に向かうフダラク渡海のある那智の浜とこの「仙都」につながる浦島伝説の地とは、熊野信仰や海の民の文化として深く通じている。
▽90 京丹後の嶋児神社とは別に、伊根町には浦嶋神社がある
▽古事記には仏教についての記載はいっさいなく、そのかわり、出雲についての記述はきわめて詳細。日本書紀の神話は、分量と内容も古事記の豊富さと波瀾万丈の展開から見るときわめて貧弱である。
▽93 出雲には、熊野神社や神魂神社などの古社がある。熊野大社が鎮座していたとされる「上の宮」 聖域にはいったとたん、ガーンとくるものがあった。聖地感覚。・・・磐座のようなもの・・・巨岩にのぼった頂上は「御笠山」
熊野山には大きさ15メートル、幅高さ3、4メートルの巨岩が3つほど重なっている巨大な磐座群があって、そこで古代磐座祭祀が行われていたという。
▽96 日御碕神社は夕日の聖地。出雲と伊勢は象徴的な対極軸。イザナミノミコトが入っていったという黄泉の国の入り口の洞窟とされる「猪目洞窟遺跡」もある
▽102 927年に完成した「延喜式」に重要神社として指定された神社「延喜式内社」全国で2861社。鎮座する神は3132座。
▽103 出雲ともう一つの出雲としての熊野、出雲の対極としてありつづける伊勢。この両軸のサンドイッチの中にわが日本はある。
▽107 読売新聞一面トップに「全国パワースポット、若者激増で珍景色・珍現象」平成22年8月20日
・恐山・明治神宮清正井・富士山・分杭峠・伊勢神宮・鞍馬山・大神神社(奈良)・須佐神社(島根)・高千穂の9カ所を掲載。
▽109 日本の「聖地文化」とは、地質・地形・風土の中から生まれた「生態智」深く宿している。生態智とは「自然に対する深く慎ましい畏怖・畏敬の念に基づく、暮らしの中での鋭敏な観察と経験によって練り上げられた、自然と人工との持続可能な創造的バランス維持システムの智恵と技法」
▽119 遍路 民俗的な「身心変容技法」 遍路によって、それを行う人の身も心も魂も変化をこうむるということ。
発心、修行、菩提、涅槃
4段階の身心変容の課程。この準拠枠があることによって、自分自身の身心に励ましとともに測定の枠を入れることができる。
▽122 虚空蔵求聞持法 超記憶増進術
▽125 88カ所のうち、「医王山」が5ケ寺。薬師如来の信仰が強かった。本尊は観世音菩薩30寺、薬師如来23寺
そこで求められているのは、苦からの脱却や救済と病気治療である
「古代から4つの顔をもつ陰影の深い四国の自然風土のなかを、弘法大師との同行二人で歩行しながら身心変容を遂げていくワザと巡礼文化」
▽130 西国33所
熊野有馬村にはイザナミノミコトが葬られたと日本書紀に記され、「常世国」に通じるところという特別の尊宗があった。熊野と吉野を「奥がけ」とする修験道が発達したことや、阿弥陀信仰などの流行、上皇たちの熊野御幸、ふだらく信仰などによって、一番札所が那智山青岸渡寺になったと考えられる。
・千手観音15、十一面観音7、如意輪観音6、聖観音4。
▽138 秩父34カ所。西国と坂東をあわせて日本百観音霊場という。
▽141 千日回峰行 拠点となったのが赤山禅院で「天台宗修験道」を名乗り、瓜生山に奥の院をもつ狸谷不動尊は「真言宗修験道大本山」を名乗っている。
東山修験道 筆者が曼殊院の下ではじめた。
・・・東山連峰は日本の神仏の一大密集地であり、聖地文化の集蔵地である。
地図を持たない、電灯をもたないで夜中の山中を歩く・・・
▽151 神社は本来、社殿をともなわなかったと考えられる。神は、特定の場所に聖なる時間である祭りの時にのみ来臨し、祭りが終われば去っていくと観念され、社は、迎神のための仮設の設備だった・・・常設な社殿がつくられるようになったのは、神に対する祭りが増えていったこと、律令の確立とともに神祇制度も整えられたこと、仏教の寺院の影響などが指摘されている。
現在でも〓大神神社、諏訪大社、金讃(かなきな)神社などは本殿がなく、山や岩、神木などを拝殿をとおして祭るように・・・
・・・鏡や玉、剣は、本来磐座、神籬(ひもろぎ=聖樹)にささげられていたものが、神体視されていったのだろう。
伊勢神宮正殿の床下には、必要のない心御柱があり、これが鏡を神体とする正殿がたてられるより古い神籬だったとみる説は多い。
出雲大社の心柱や諏訪大社の御柱なども、ひもろぎによる祭祀の名残と思われ、真脇遺跡のウッドサークルなどから、その起源を縄文時代にさかのぼる見方もある。
長谷寺の十一面観音が磐座の上に安置されていたり、中禅寺の千手観音が立木から、書写山円教寺の如意輪観音が桜の生木からそれぞれ彫られたという縁起からは、磐座、ひもろぎの信仰が仏教に与えた影響を読み解くことが可能だろう。
▽153 阿蘇神社 中岳第一火口にある湯だまり「神霊池」とよばれ、火口を上宮とよんでいた。
・・・阿蘇の地が巨大な湖だったころに、健磐龍命が外輪山を蹴破り、人の住める土地にしたという干拓の伝説が伝わっている。それらの伝説では湖の主であった大鯰が退治されたという。阿蘇家や旧社家の人々は忌みはばかって、今も鯰を食べないそうである。大鯰は神社成立前の地霊であり、先住の人々が恐れ敬っていた荒ぶる阿蘇の大自然を象徴する国津神だったのではないかとも推測されている。
▽157 宗像大社 沖の島に沖津宮、海岸近くの大島に中津宮、玄海町田島に片津宮が鎮座。沖の島は今も女人禁制で、一木一草たりとも外にもちだしてはならず、嶋で見聞きしたことは話してはならない「不言様」ともいわれた神の島。
▽161 宇佐神宮 八幡社の総本宮。渡来系氏族秦氏の流れという辛島氏、大和の三輪山の神を祀る大神氏の分流とする大神氏、宇佐国造の子孫という宇佐氏の3氏が古代より神職として奉祭してきたようだ。
・・・辛島氏を中心として渡来人達がまつっていた八幡信仰=道教・仏教と習合したシャーマニズム=に、大和朝廷からの大神氏が応神天皇と神功皇后の伝承をもちこみ、宇佐氏の聖地であった馬城嶺の神と習合させたようである。
・・・当初から大陸文化の影響を受けていた八幡神は、女性シャーマンのセンタクを通じて積極的に神仏習合を推進し、やがて「八幡大菩薩」と称するまでになっていく。
道鏡事件を境にセンタクをくだす禰宜は力を失い、辛島、大神両氏も衰退する。かわって宇佐氏が台頭し大宮司職を独占し、近世までつづいていくことになるのである。
▽165 出雲大社 現在は24メートル、伝承では中古は48メートル、上古は96メートルとされ・・・
大和から見て、東方の伊勢に皇祖神天照大御神をまつり、日が沈む出雲に国津神を代表する大国主神をまつることで、王権を支える神学的地理空間とでもいうべきものが、演出されたと考えられる。
▽167 厳島神社 宗像三女神を祀る。・・・厳島の神と宗像の神は本来別の神であったが、三女神のうち市木午島姫(いちきしまひめ)が伊都岐島神と音韻的にも神格的にも類似するために習合化し、後に厳島の祭神を宗像3女神と称するようになったのだろう。
▽171 〓大神(おおみわ)神社(桜井市)本殿がなく、拝殿裏の三輪鳥居を通して直接神体山たる三輪山を拝するようになっている。
三輪山は、カンナビ山としてあがめられ、山中には磐座が点在し、多数の祭祀異物が出土している〓。
三輪山の大物主神は、祟りをなす、蛇体の国津神。現代でも地元では「巳いさん」と呼んで、神木の杉などに生卵を供える風習があり、三輪山の神を蛇体とする信仰が息づいている。
▽175 熊野三山 山中他界と海上他界が出会う熊野は、古くからの死と再生の聖地であった。
▽179 伊勢神宮 持統天皇によって、20年ごとに社殿や装束、神宝を新調する式年遷宮がはじめられた。
▽181 諏訪大社 建御名方神は建御雷との力比べに負け、出雲から諏訪湖まで逃れて降伏した道化の敗北神として描写される。だが地元では土着の神を制圧して鎮座した諏訪大明神として、「古事記」とはまったくちがう神話が伝承されている。
▽185 箱根神社 駒ヶ岳を神体山としてあおぎ、「権現の御手洗」として芦ノ湖をひかえる地に鎮座。
・・・芦ノ湖には、湖底から上にのびて見える逆さ杉という不思議な杉が湖中に見られる。この逆さ杉から、九頭龍の伝説が生まれたといわれる。・・・近年、九頭龍をまつる末社の九頭龍神社がパワースポットとして人気。
土地の伝承では、万巻上人に調伏されるまで九頭龍は村の娘を人身御供に差し出させていたという。それがブームという不思議。逆に万巻上人の墓とされる五輪塔が箱根神社の裏山にあるが見ると病気になるといって、土地の人は決して近づかないという。皮肉な話である。
▽188 江ノ島神社 神仏混淆で、厳島、竹生島とならぶ日本三大弁天のひとつ。
▽193 神田神社 平将門の首が京都からとんできて、それをまつったといわれる。
・・・明治維新後、政府の意向で朝廷にさからった将門をはばかって、本殿の祭神からはずしたため、氏子が怒り、騒動となった。結果、別殿に将門をまつることになったという。昭和59年、全氏子の要望によって将門は本殿の祭神として復帰している〓〓。
▽193 京都下京区の神田神宮は、将門の首をさらしたところ。
▽196 鹿島神宮 国譲りに活躍したタケミカヅチノオオカミをまつる。
・・・古代の常陸国はみちのくと境を接する蝦夷経営の前線基地であり、在来の神に中央からの「天の大神」を重ね、北方鎮護の軍神としての鹿島神宮が構成されたようである。本殿は北を向いて建てられており、それは蝦夷地を鎮めるためといわれている。
▽200 鹽竈神社〓(行くべきだった!)
製塩の神、あるいは製塩につかう鉄釜を神体とする神と古くから考えられ…
市内には「おかまさま」とよばれる御釜神社があり、…古代、陸奥国府の管理下でおこなわれていた塩の生産を儀式化したのが、藻塩焼神事であるといわれている。
▽207 仏教の聖地 以前から、在来・土着の信仰において聖地視されていたところがほとんど。仏教の聖地の地下には、必ずと言っていいほど、土着の古い信仰・宗教が底流している。
▽208 高野山 空海以前、高野には、狩猟を生業とする山民たちによる独自の山神信仰があった。それが狩場明神。高野山北麓の小盆地に天野という地があり、丹生都比売神への信仰があったと考えられており、丹生都比売神社が鎮座。
…在来の信仰を土台にして密教聖地の建設をもくらんだ可能性もあるのだ。
▽211 奥の院の墓石群。古来、山中他界の観念があり、山に納骨する風習が見られた。こうした民俗信仰の名残りが奥の院に見られるのかもしれない。
▽212 本願寺 親鸞は、鳥辺野の延仁寺で荼毘に付され、鳥辺野の北の大谷の地に墓がもうけられた。10年後、吉水の北辺に改葬され、大谷廟堂と呼ばれた。覚信尼が墓守り(留守職)に。留守職はその子孫が代々相承するようになり、これが法主の源流である。
親鸞の曾孫の覚如は、「専修寺」の寺号を称して額をかかげたが、「専修念仏は禁止されたものだ」という比叡山の抗議を受けたので撤回し、「本願寺」の寺号がもちいられるようになった。
蓮如は積極的に布教にのりだし、…本願寺の興隆に比叡山が反発し、1465年には、大谷の本願寺は襲撃を受け、破却。
蓮如は転々としたのち、越前の吉崎に坊舎をかまえ…1478年には山科に居を移して本願寺を再建。しかし戦国時代の政争にまきこまれ、焼失。証如は大坂に坊舎をうつし、石山本願寺としたが、、信長に攻められ、顕如は大坂を退く。秀吉が政権をとると、大坂天満に移転、1591年には京都に寺地を与えられた(西本願寺)。
…現在のように発展することができたのは、ルーツが祖師親鸞の墓所にあり、そこを親鸞の血族が守ってきたという自負と誇りが拠り所としてあった…
▽216 飛鳥寺 日本最初の本格的寺院。日本仏教誕生の聖地。
飛鳥は渡来系氏族によって開発された地域であり、そこへ彼らと深い関係を結んでいた蘇我氏が進出した。日本仏教最初の本格的寺院が建造されたのは、そこが宮都であったからではなく、はやくから仏教に帰依していた、蘇我氏の地盤であったことが理由にあげられよう。
▽220 室生寺 室生川の上流には室生龍穴神社、さらにのぼると「吉祥龍穴」とよばれる洞窟。点在する洞窟はかつての火山活動で形成された。龍のすみかと考えられ、龍穴と呼ばれて神聖視された。
「女人高野」は江戸時代半ばから。
▽224 比叡山 琵琶湖の坂本に、比叡山信仰の震源ともいえる日吉大社。
その東大宮が、神社創祀の地。東本宮の背後にそびえる神奈備型の牛尾山(八王子山378メートル)こそが神が降臨した本来の鎮座地であり、現在の東本宮は牛尾山に対する里宮だと考えられている。
「小比叡」とも呼ばれる牛尾山の山頂には磐座が屹立し…
…比叡山東麓、湖周辺には、古くから朝鮮半島からの渡来人が多く住みついていた。
…日本仏教の母山とも形容される比叡山だが、実際は土着・外来のさまざまな宗教・信仰がブレンドされた、重層的な聖地なのである。
▽228 竹生島 日本三大弁天のひとつ 浅井姫命(竹生島明神)が、本来水の精であった弁財天と同一視されるようになったものらしい。
▽231 青岸渡寺 西国33所 平安時代なかには長谷寺を一番としていた巡礼者もいた。青岸渡寺が一番になったのは熊野修験の影響が考えられる。
明治の神仏分離以前は、如意輪堂と呼ばれ、神仏習合時代には、那智権現社(那智大社)に属していた。
…五来重は、那智のオリジンは妙法山であるという〓(西国巡礼の寺)。つまり、滝ではなく、山の信仰が最初だというわけである。
この山の地元では
死者の霊が訪れる霊地として信仰され、納骨をする風習もあった。
…五来によれば、最初は妙法山が崇拝の対象で、那智の滝は山に入る前の水垢離の場所だったが、いつしか滝が神格化され、妙法山にとってかわられていったのだという。〓。
…1884年、41歳の修験者・林実利が捨身行を実践し、大滝の絶頂から座禅姿のまま滝壺にとびおり、入定をとげた。
補陀落渡海は、一種の捨身行であろう。
那智山には「死」の匂いが漂っているようである。
▽237 永平寺 白山とのつながり
▽239 七面山(山梨) 日蓮宗の山岳信仰の聖地。…七面山信仰の底流には、日蓮宗ではなく、山岳信仰・水神信仰があるのであろう。
▽242 恐山 比叡山・高野山とならぶ三大霊場。古くは宇曽利山とよばれた。…
一帯は硫黄山で…江戸時代に入り、地獄にたとえられる光景から「恐」という字があてられるようになったものらしい。
…死者供養の霊地として信仰されてきた。
死者の口寄せをおこなうイタコ。恐山にイタコが集まるようになったのは大正から昭和初年にかけてのこと。昭和30年代ぐらいからマスコミでも報じられ、「恐山=イタコ」というイメージが急速に形成されたが、その歴史案外に浅いのである。
▽246 修験道 古来、山はみだりに足を踏みいれることwすら禁じられた聖域だった。ところが、奈良時代頃から変調が訪れた。禁忌の場だった霊山に登頂を試みるものがあらわれた。これが修験道のはじまり。
修験道に習合しているのは、神道と仏教だけではなく、道教・儒教、陰陽道も。
▽英彦山(福岡・添田町)
明治の神仏分離までは神仏混淆の修験道の一大聖地で、英彦山権現と称された。
英彦山内外には「彦山49窟」と総称される修行窟が散在し…こうしたある種の洞窟信仰は、九州修験道の特徴のひとつといわれるが、大陸の石窟寺院の影響も考えられるだろう。
▽251 六郷満山(国東半島)
半島の付け根に鎮座する宇佐八幡宮をはじめ、全体が、神仏にまつわる聖地、霊地として崇められてきた。
▽252 新羅仏教の特徴は、石仏や磨崖仏…山岳仏教系の色彩が濃い。
…六郷満山をめぐる峰入りは明治に途絶えたが、昭和32年に復活、最近では平成22年に行われている。
▽255 吉野・大峯山
吉野宮 応神天皇以後聖武天皇まで400年にわたり8人の天皇が行幸している。…吉野町宮滝の宮滝遺跡が宮跡として確実視されている。縄文土器にはじまって,弥生、飛鳥、奈良、平安初期にかけての遺物遺構が次々に見つかったからである。
▽258 大峯は、金脈が存在する山として信じられていたらしい。金銀銅亜鉛マンガンなどの鉱脈が存在。金峯山神社は金鉱の守護神である金精明神を祀っている。
大峰は、山岳信仰に基づいて発展し、その聖地は山麓からじょじょに山上へ、山奥へと移動していった。10世紀ごろからは、別の山岳信仰を有していた熊野と、大峯山系を縦走する修行路の開通によってむすばれ、大峰修験道が発生した。これがモデルになって、全国に修験道が広まっていったのである。
▽260 立山 中世までは「たちやま」と読んだ。
地獄信仰
芦峅寺(雄山神社中宮)の集落にあった姥堂。女性が参拝できるのはこの姥堂までとされた。
…明治の神仏分離で姥堂は破却され、…布橋灌頂もいったん絶えた。…
▽263 富士山 富士信仰の中核を担ってきたのは、富士宮市の富士山本宮浅間神社である。…富士信仰は、山を登ることではなく、麓から霊妙な山容を拝み観ることに本源がある。
…富士山は864年に大噴火。こうした噴火をきっかけに、富士山信仰は水神から火山神へと変質した。…水の信仰に火の信仰が合わさったことで、富士山は日本のマトリックスと化したのだろう。
▽266 日光 「補陀落」「二荒(ふたら)」「二荒(にこう)」「日光」とかわったという説がある。男体山に象徴される日光は、観音浄土の補陀落になぞらえられていた。だがその信仰の土台には、円錐形の男体山を神体山とみる在地の古代信仰もあったはずである。
▽269 出羽三山
月山(1984メートル)=月山神社、羽黒山(414メートル)=出羽神社、湯殿山(1500メートル)=湯殿山神社。信仰の中心は羽黒山。明治の神仏分離令以前は、仏教色の濃い修験道の聖地で、三山の祭神は、ただ出羽三所権現とよばれるのがふつうだった。
羽黒山山頂の三神合祭殿は、かつて山内を統括した寂光寺の本堂だったといわれているが、その前に鏡池があり、ここから平安時代の銅鏡などが見つかっている。1年を通じてほとんど水位の変わらない神秘の池。池自体がご神体として崇拝されていたらしい。水分(みくまり)信仰が三山の基盤にまずあるのだ。
▽271 三山の奥の院として機能してきた湯殿山の神霊は…その霊地は月山から下った沢沿いにあり、巨岩からは熱湯が湧きだしている。湯殿山神社はこの巨岩を神体とし、本殿はない。湯があふれ出す巨岩は生命の根源である女陰にたとえられ…
三山とひとくくりにするのがはばかられるほどに、固有の信仰風土・歴史を有しているが、いずれも死者供養の場、死霊こもる山として信仰されてきた。…羽黒修験や湯殿山での滝修行は、「死の聖地」をめぐることによる再生儀礼、生命循環の秘儀でもあるのだ。
▽274 沖縄とアイヌ アニミズムとシャーマニズムの感覚。シャーマニズムとは、神や精霊など目に見えない超自然的存在と直接交信する特殊な能力をもった宗教的職能者によって繰り広げられる宗教現象。
▽276 マルセル・モースの民族学に刺激されて帰国した岡本太郎の「沖縄文化論」。…御嶽「森のなかのちょっとした、なんでもない空地。…その何もないということの素晴らしさに私は驚嘆した」御嶽における「何もなさ」のすごさと聖性。
▽278 日本列島で、シャーマニズムの現象がもっとも強く生活のなかに根ざしているのが沖縄とアイヌの文化。…シャーマニズムやアニミズムは異次元情報とアクセスするアクセスポイントとしての聖地を大切にしてきた。
▽280 斎場御嶽 もともと男子禁制の聖域だったが、2000年に首里城跡などとともに世界文化遺産に指定され…。
▽282 大重潤一郞監督の「久髙オデッセイ第一部終章」(2006)、「久髙オデッセイ第二部生章」(2009)は、イザイホーの儀式が途絶えた中での2000年代の10年間ほどの久高島の日々の祈りと年中行事を執り行う島の生活を描いている。平成27年には完結編「久髙オデッセイ第三部風章」ができあがる予定である。
▽283 比嘉康雄が「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」にこめた命題は「母系文化の再評価と復活」。その最後の砦でありフィールドが久高島だった。
▽284 大神島 宮古諸島の北方4キロ。人口20数人の離島。谷川健一によってサルタヒコのルーツのひとつとされた「サダル神」の導く祖神祭がおこなわれる狩俣集落から船で15分ほど。
大神島には、もっともディープな沖縄の霊性が宿っているといえる。島全体が御嶽のような空間のなかで、ツカサたちによる秘儀的な祭祀が維持されてきた。宮古島の島尻と狩俣もこの島を祖神のおわすもっとも特別な聖なる島として尊宗している。
…沖縄全般に残るオバア文化とはヒガヤスオのいう「母系制文化」であるが、その母系のオリジンである「祖神」の祭祀と信仰が「大神島」や「久高島」にもっとも濃く伝承され息づいているといえる。
▽286 アイヌ 神居古潭(旭川市) ストーンサークルや竪穴住居遺跡、神居古潭甌穴群。
▽289 神威岬
日本列島と日本文化の多様性がアイヌと沖縄という境界的な地域によってまもられ、育まれてきた。…その多様性を侵害し、同化の力でねじ伏せようとしてきた。ある意味では、グローバリズムは帝国的な意志として古代から現代にまでつながっている。日本の聖地にふれることは、そのような意志とそれを超えるモノとの微妙な境にふれることである。
…聖地巡礼とは、「ちはやぶる神」の「超自然のエネルギー」にふれ、身心魂まるごと賦活されて「生活の原動力」に目ざめて生きていくことなのである。
▽新宗教
日本人の信仰のありさまに深刻な断裂を強いる神仏分離政策 急速な近代化の中で行き場を失った民衆の宗教的情念の受け皿として新宗教が誕生していった
▽292 大本事件 聖地の施設がダイナマイトまで用いて徹底的に破壊された。…二代目三代目になると先鋭的な色彩を薄め、聖地も地域になじんでくる。天理教の聖地親里とその周辺は天理市という名になるほど根づいており、世界救世教の聖地瑞雲郷にあるMOA美術館も…
▽294 黒住教の聖地 宗忠神社(岡山市と京都市)天照大神は普遍的ないのちの根源であり…すべてを神に任せて陽気に生きる神人一体の「生き通し」が大切であるという。
左京区吉田大路町にも宗忠神社。1865年には孝明天皇の勅願所に。尊皇倒幕運動の一拠点になった。維新後、黒住教は教派神道の一派として国家から公認される。
▽297 大本教 教祖の出口なおの五女と結婚した上田喜三郎は出口王仁三郎に。
…1918年のなおの死後、幹部が終末主義的に世の建て替えの切迫を過激に宣伝するようになって当局を刺激し、1921年に不敬罪、新聞紙法違反で王仁三郎らは検挙され…(第一次大本教事件)
1935年、治安維持法違反、不敬罪でふたたび検挙。綾部と亀岡の本部施設を徹底的に破壊された。
亀岡の高熊山
▽301 天理教 神が人間をつくったのは、人間が明るく勇んだ心で生きる「陽気ぐらし」を見たいからで、そのために欲や高慢、嘘などの悪しき心を、人を助ける心に入れ替える心直し、世直しが説かれた。
…明治になると、淫祠邪教として弾圧された。教祖のみきは何度も検挙され1887年に死去。翌年、神道本局所属の天理教会として公認され、国家神道に教義を近づけ、1908年には教派神道の一派として独立が認められた。戦後は教祖の教えにもどるべく、教義の復元に努め、教派神道連合会からも脱退している。
▽302 屋敷で足が止まって動かなくなった地点。そこを甘露台の「ぢば(地場)」と定めた。神が人間を創造し鎮まっている根源的な聖地であるとされている。
ぢばを中心にした天理教教会本部がある一帯は、…親里ともいわれるが、そこでは教祖が今なお、世界救済のために働いていると考えられている。「存命の理」。弘法大師が,今もなお高野山の奥の院で生きて瞑想しているという入定信仰の影響があるともいわれている。
▽304 世界救世教「神仙郷」(箱根町)
岡田茂吉は大本教に入信。…昭和10年に大日本観音会を発会。たびたび弾圧され…
箱根の拠点は神仙郷、熱海は瑞雲郷と命名され、後に京都に建設される平安郷とともに三大聖地となしている。
宗教を土台にした精神文明による理想社会を創造すべく、浄霊や自然農法を推奨。天国は美にみちていなければならないと、生活の芸術化を唱えていたことから、美術品も蒐集し、神仙郷に箱根美術館を開設している。瑞雲郷にも美術館(MOA美術館)
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