■死について考える<遠藤周作>光文社文庫 201803
20〜40代にかけて3回の胸の手術を経験し、絶望の日々を送った。手術をしては再発する繰り返しを続け、「死んだ方が楽だ。苦しまなくてすむ」と思った。上顎がんの疑いでも手術を受け、25歳のお手伝いさんが亡くなった。
死について考え続けてきた。
うまく年をとって従容として死んでいっても、じたばたして死んでいってもいいと思う。死にたくない、という我々の心の底を神はご存じのはず。ジタバタして死ぬことを肯定してくれるものが宗教にはある。信仰の第一段階は、信仰によって死の恐怖を克服できるような気持ちになったとき。死を前にして周章狼狽するのを、それでいいのだと言えるようになるのが信仰の第2段階。
「あなただけが死ぬんじゃない。今元気にしている私もやがて死ぬんです」と示してあげるそうです。苦しみというものには、つらい孤独感がある。それを理解と連帯感によってやわらげている。
キューブラー・ロスによると、蘇生した人たちは、死んだ後、自分を愛してくれた人、自分が愛した人で、すでに死んでしまった人たちと会えたという共通経験が多い。さらに、慈愛に満ちた、なんとも言えない柔らかい光に包まれたという。
死に苦しみが伴うのは、この世からあの世へ行く通過儀礼だからでしょう。
先祖を拝むということは、永遠の生命の中に入ってしまった先祖に、「私もやがてそちらに行きます。また会えるのですね」と言ってやることだと思うのです。
神は自分の中にもある大きな生命です。そして、死によって人間はその大きな生命のなかにもどっていく。それを復活というのです。復活は蘇生ではない。大きな永遠の生命のなかにもどっていくことなのです。
老年とは若い時や中年の時とはちがって、何かにじっと耳傾ける時だと思っているのです。その何かとはやがて旅立っていく次なる世界からかすかに聞こえてくる音なのです。
「死というのは、たぶん、海みたいなものだろうな 入っていくときはつめたいが、いったん中に入ってしまうと……」(セスプロンの言葉)
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