六ヶ所村ラプソディー

映画「六ヶ所村ラプソディー」を道後のユースで鑑賞。
チューリップを育て自分の暮らしを楽しむ人。
無農薬の米を作りを通して都会の消費者と交流するおばちゃん。
原発頼りでなく農業で自立を考える人。
建設業者から動燃の作業員になったおじさん。
動燃の作業服を洗濯するクリーニング屋さん。
みんな現実的な選択として、原発を受け入れながら日々の生活を送っている。
「原発を受け入れながら」と言っても、原発はおじさん達が子どもの頃からあった計画だから反対のしようがない。
だから「現実的な選択」。
農作物への影響を心配し、米作りのおばちゃんが消費者にアンケートを出したところ、
「正直心配です」と購入を断る人も出てきた。
伝えようとすれば自分ばかりか地域の首も絞めてしまう矛盾。
米作りのおばちゃんはもともと「中立派」だった。
学者に言われた言葉で「反対派」の意思表示をすることに。
「中立っていうのは見ていること。行動しないこと。それは容認していることで賛成していることと一緒なんだって言われた。中立の怖さを初めて知った」
良い関係だった都会の消費者からの購入を断る手紙に
「仕方ないよね」
 と、力無く笑うおばちゃんの姿はやるせない。
合併で「六ヶ所村農協」は「東北天間農協」となり、農作物から「六ヶ所村」の名が消えた。
愛媛でも加戸知事が核廃棄物最終処分場の誘致を容認する発言があった。
「市町が望めば」と断りを入れたものの、「お金がないなら仕方ないだろ」と言ってるように聞こえる。
弱いもの、力のないもの、声の小さなもの、数の少ないものだけが、キツイ・キケン・キタナイを受け入れなくてはいけないのだろうか。
自治体間にしても人間にしても「競争」の行き着く先ってどんなだろう。

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