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蓮如−聖俗具有の人間像

■蓮如−聖俗具有の人間像 五木寛之 岩波新書 201205

 1953年に内灘闘争の現場で「加賀地方には一向一揆100年の伝統があるからね」と筆者は言われた。石川県では一向一揆や「蓮如さん」の記憶が今も生きているのだ。
 蓮如は浄土真宗の中興の祖であり、衰退していた浄土真宗を復興させ、本願寺教団を築き上げた。貴族の家に生まれた聖人・親鸞と異なり、寺の庶子に生まれ、自分の子どもさえ育てる余裕もない中年男だった。40歳を超えてようやく大逆転で本願寺を継いだ。その後、民衆の世界に飛び込み、世俗的な力を存分に発揮してサクセスストーリーを生きた。それ故に経営者に信奉者が多いという。

 蓮如は、一揆をおこし、惣村という共同体を形成しつつあった農民たちを布教対象とした。対立しても連帯することなどなかったムラ(惣)を、「講」を組織することで横につなげ、広域な宗教共同体をつくっていった。政治権力にとっては危険な思想だった。
 教団が大きくなるにつれて、「阿弥陀如来一筋にすがれ」という教えをうのみにしてほかの信仰を攻撃する動きがでてくる。「悪事をはたらいても念仏さえすれば大丈夫」という考えも広がる。個の罪業意識の深さを質として問う親鸞の教えを「量」として成立させようというのだから矛盾があったのだ。
 北陸布教の根拠地とした吉崎が繁栄するとともに、地元有力者や武士が実権をにぎるようになる。雑民のエネルギーに翻弄された蓮如は嫌気がさして北陸を去る。その後北陸では一向一揆が繰り返されることになる。
 蓮如は、加賀の一向一揆のきっかけをつくったが、北陸の民衆のエネルギーは蓮如の思惑をはるかに超え、蓮如を投げ捨てることで一向一揆になだれこんだと筆者は位置づける。
 時代の被害者としての蓮如という位置づけが新鮮だった。

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▽13 大学2年だった1953年に金沢へ。内灘闘争の現場へ。「この加賀地方には一向一揆100年の伝統があるからね」
▽19 親鸞は、求道の人で、個的信仰の確立者。蓮如はときには妥協し、ときには演技しながら、戦い抜いた。親鸞を求道者とするなら蓮如は伝道者。蓮如は宗教的共同体のうちに中世民衆のアイデンティティを確立した人。巨大な本願寺教団を築き上げたサクセス・ストーリーの主人公となった。
▽23 中欧ではキリスト教会の改革運動がはじまり、ローマカトリック教会の堕落を攻撃したヤン・フスが処刑される。ローマ教皇はプラハの人々を批判し、やがてプラハを中心とした反対勢力とカトリック教会側の十字軍の対決となる。「フス戦争」その後20年間、中部ヨーロッパをまきこんだ。職人、農民を中心とし、市民連合のかたちをとったところは、蓮如の時代の一向一揆と共通している。
▽35 土一揆とそれを迎え撃つ武士と激しい戦闘が繰り返される。あの悲惨な民衆を救わねばならぬ、という気持ちと、あの民衆のエネルギーによってしかこのみじめな本願寺を建て直せない、という直感。……40すぎまで暗く訪れる人とてない寺で勉強する、さえない中年男。実に長い雌伏の期間。
▽40 蓮如の子たちは、父母とも別れて見知らぬ他人のところへ、しかも何人かは使用人として渡されていた。……後年の蓮如の思想と行動の原点をなすのは、40数年間にわたる不遇時代の悲しみにちがいない、と……。
▽42 親鸞 原点にはつねに人間の「苦悩」があり……世間とか社会生活とかいったものは二の次。蓮如は、親鸞が自己の「苦悩」を出発点にしたのに対して、現世に生きてゆく人間の「悲苦」、つまり悲しみを原点として出発。限りなく湿っていて、情緒的で……情念の世界。
▽46 蓮如は、法然とも親鸞ともちがい、どろどろした俗世間と俗衆のまっただなかに、体ごととびこんでいく。親鸞がただひとりおのれの救われる道として創りだした信心を、あえて最大多数の民衆の救われる道として掲げ……
▽50 正長の土一揆は蓮如14歳のとき。以後、京都はつねに内戦状態。土一揆によって、乱世、下克上の時代の幕が切っておとされた。
本願寺の相続争いで、大逆転で庶子の蓮如が後継者に。43歳だった。
▽58 「名帳」と「絵系図」 ここに名前や絵を描いてもらうためには、金銭や物品を寺の捧げることが必要。
▽61 堅田衆と蓮如が連帯。堅田衆は、交通・水運に従事する人々も多かった……アウトロー的な側面ももち、彼らを「海賊」扱いする向きもあった。「研屋」
麹屋」「大工」「馬借」「船頭」「漁師」など、自由独立の「非・常民」が蓮如のサポーターだった(都市的な人々? 網野の指摘〓)
▽66 延暦寺が本願寺をおそい、ハキャクされる。ここから蓮如は、無から親鸞の信仰ひとつをかかげて人々のなかにはいってゆく。蓮如をみつめた人々とは、一揆をおこし、動乱の時代の新しい担い手となりつつあった農民や底辺の庶民たち。
▽72 堅田衆は攻めてくる延暦寺の衆徒を迎え撃つが、敗れ、蓮如も門徒の舟で逃げる。襲われては逃げることを繰り返し、布教活動をつづける。
▽76 この時代に農村という共同体が形成された。惣とか惣村は、指導者が農民のなかからでてきた。荘園制度のなかで中央から派遣されてくる役人とは別なもの。自分たちでリーダーを選び、祭祀を営み、水を分配し……という傾向が発生してくる。
▽78 惣村のありかたをどういう形で、新しい宗教的共同体のほうへ変革していくか、を蓮如は考えていたのでは。「惣」を「講」というものへ大きく膨らませていった。
▽81 苦しみながら生きる砂のような孤独な農民たちを、地域の惣というグループから、さらに大きな、全国の人々と結びつける宗教共同体というものとして確立することを考えたのではん。
▽82 この村の講とあの村の講を結びつけ、その地方全体の講が共同の運命体としての意識をもち、国を越えて日本全国にひろがってゆく。すべての人が弥陀の光の前には平等であるという意識が広まって行くことを夢想したにちがいない。
▽99〓 親鸞の信仰理論そのものが、極度にあやういギリギリの地点において結晶した高度な思想。一歩あやまてば、というところが、親鸞の表現にはいつもある。
▽120 北陸布教の根拠地、吉崎(福井県金津町)。陸運、水運どちらも最高の根拠地。
親鸞の墓所を教団の本山として自立させる動きのなかで、関東の門徒ととの間にへだたりをつくったころから、本願寺は北陸へ布教活動をつづけていた。
▽126 当時、北陸で目立ったのは、権威主義的大坊主意識の横行と、金で信心をはかる風潮。門徒の指導者が地域の有力者と重なりあうと、しばしば僧侶が特権階級化しがち。蓮如はそれをたたく。……吉崎は巨大な宗教都市に激変。地上に出現した幻の都。
海にむかって閉ざされた要害の地であると同時に、山にむかって開かれた自由な開放区でもあった。
▽131 親鸞は精神の貴族として世俗にまじわらず市井に埋没して生きた。晩年の蓮如の成り上がりものふうの貴族ぶるまいには、どうしようもなく俗物的な体質が感じられる。
▽134 蓮如忌。毎年春、東本願寺から吉崎まで徒歩で巡行する。今も。能登では珠洲市のヘンジャ祭りが有名。金沢では卯辰山・大乗寺山に押し掛けてどんちゃん騒ぎ。
祝祭性がともなう蓮如。
講も、敬虔さと同時に、談笑し、共に飲食し、歌い騒ぐ「遊び」と「娯しみ」の要素も大きかった。
▽140 女人往生という思想を積極的に打ち出す。……母親が白山権現のお使いと名乗ろうとしたところに、北陸の信仰の重層性がうつしだされている。一家のうちに信仰の古層と、それに対抗する新宗教との対立が浮き彫りにされる。
▽147
▽152 「あきないもせよ、奉公もせよ、獣を狩るものは猟もせよ」「一念の信まことなれば」かならず仏は他力の胸に抱きしめるであろう……と。寄進をしたり善行をしたり、という「善人」でないかぎり、死後は地獄……という古い観念のなかにがんじがらめになって生きていた15世紀乱世の時代。「すくわれる」という言葉の重み。
▽152 蓮如の村ぐるみの農民組織「講」が共通の信仰思想によってよこへよこへとつながっていく減少に武士たちは不安を抱く。それまで村と村は、対立しこそすれ、決して連帯したりはしないものだった。〓
▽160 村と村がひとつの精神的連帯感によってつながってゆけば、新しい共和国が出現するようなもの。同朋、同行の意識は、政治権力にとっては危険な思想だった。
阿弥陀如来ひとすじにすがれ、という教えをうのみにして、ほかの信仰を軽蔑したり攻撃したりする門徒も出て来る。社会秩序を無視し、無軌道に振る舞うものもあらわれる。いくら悪事をはたらいても念仏さえすれば大丈夫だという考えも広がる。……親鸞の信仰は、個の罪業意識の深さを質として問うもの。それを広く衆におよぼし、量として成立させようというのだから、大きな矛盾を最初から抱えていた。
▽164 吉崎が巨大化するとともに、地元有力者や自衛集団の武士が力をもち、蓮如をシンボルに棚上げして、自分たちの手で実権をにぎるようになる。蓮如は、しだいに吉崎が仏法の場でなくなってゆくことにいやけがさしてくる。
▽166 北陸の地に渦巻く雑民のエネルギーに蓮如は翻弄された。……そのときの蓮如の最大の敵が、吉崎を牛耳る多屋衆、管理支配グループであったことは想像できる。
蓮如が去った北陸では、一向一揆が繰り返され、1487年、空前の一揆がおき、富樫政親を自害させ、その後100年「百姓の持ちたる国」と呼ばれる門徒と武士の集団支配の雑民の共和国が出現。
▽171 1475年に61歳で吉崎を去る。……「お文」「御文章」を駆使し、惣村を講に組織する方法で、奇跡のような本願寺ブームを北陸にまきおこしたかに見えたのもつかの間、結局は真の念仏の精神を理解した人びとはごく少数にすぎなかったのか……と挫折感。
▽ 吉崎のあと山科へ。ここにも一大宗教都市ができる。
▽176 大阪の街の先駆けとなる石山本願寺をきずく。1497年に83歳で完成。
▽194 加賀の一向一揆に火を点じたのが蓮如であると同時に、北陸の被支配民衆の津波のようなエネルギーこそが蓮如を大波のてっぺんに押し上げ、投げ捨てた。

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