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生きろ 島田叡 戦中最後の沖縄県知事20210406

 戦中最後の沖縄県知事・島田叡の生きざまを、周囲にいた人の証言によってたどるドキュメンタリー。
 東大を出て内務省に入ったが、一度も中央に戻らず地方を巡った。口癖は「アホになれ」。上に対してものを言い、部下に好かれる役人だったらしい。
 沖縄の先代知事は、戦争を恐れて東京に出張したまま沖縄にもどらなかった。
 大阪府の内政部長だった島田は1945年1月に沖縄県知事に任命され、家族の反対を押し切って赴任した。
 台湾総督府にかけあって米を調達し、禁じられていた方言も解禁した。一向に進んでいなかった疎開にも取り組み、県外に7万人、北部に3万人を逃した。「沖縄県民かくたたかえり」という、県民の苦悩をつづった最後の電文で知られる海軍の太田実司令官とは昵懇の仲だった。
 いよいよ米軍が上陸すると、軍司令官の牛島満は南部への撤退を決める。島田は住民が避難している南部への移動に反対したが聞かれない。知事とはいっても司令官の命令に従うしかない。逃げる途中、「知事も摩文仁に」という牛島の命令を無視する形で県庁を解散し、部下たちを逃す。最後まで付き添った部下には「健康に気をつけて」となけなしの現金や黒砂糖を与えた。女性職員には「手を上げて投降しなさい」と説得した。
 一方の牛島は「最後まで遊撃戦でたたかえ」と言い残して自決する。彼が戦争を終わらせる責任を果たさなかったから、日本が降伏する8月15日を過ぎても沖縄では無益な戦闘がつづいた。牛島は沖縄を捨て石として、天皇を守ることしか頭になかった。洞窟内で泣いていた少女を銃殺したり、住民を壕から追い出す軍人もいた。軍は国を守っても国民は守らない。米軍に降伏して洞窟から出るとき、「軍人はいるか」と問われ「たくさんいる。殺せ!」という合唱が起こった。それほど軍人は恨まれていた。だがなかには「自決はするな。最後まで生きろ」と少女をはげます兵士もいた。多くの兵士は「恨むぞ、東條」「お母さん!」と叫んで死んでいった。
 ナチスのユダヤ人虐殺を生き抜いた精神科医フランクルを思い出した。極限の状態で自ら飢えていてもパンを分け与える人がいる。ナチスのなかにも良心的な人はいる。ユダヤ人の被害者のなかにも悪人はいた。
 極限状況でも、人は人らしく生きる可能性がある。どんな過酷な状況でも、そこでどう生きるか選択する自由と責任は残される。
 愛する人も自分自身も必ず死ぬ。人生はしょせん苦なのだ。島田の最期は苦に満ちていた。でもどんなつらい状況でも、人は人らしく生きる可能性がある。そのことを示してくれるドキュメンタリーだった

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