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魂にふれる 大震災と、生きている死者<若松英輔>

■トランスビュー 20190217
筆者は2010年2月に妻を亡くした。その経験をもとに、「死者とともに生きる」とはどんなことなのかを綴っている。
寂しさは、失ったものを取り戻そうとする時に湧き上がるが、悲しみは、新しい何かを生みだそうと世界の彼方から訪れる。死者の実在を感じられるから慰めの体験でもある。深く悲しむ人は愛されている人だから、深く人を愛せる。たくさんの傷を負い、それに耐えた人のまわりには、多くの人が集まってくるという。「死者と共にある」とは、思い出を忘れないようにすごすことではなく、その人物と共に今を生きることだという。
余命を感じる病者は、実在の世界にむかって歩きはじめ、異界からの風を感じ、万物とつながろうと心を躍動させているらしい。たしかに私の妻も、ふだんの彼女の発想とはかけ離れた言葉を発した。満開の花を見て多くの苦しむ人に心を寄せて「今苦しい思いをしている人もたくさんいるんだろうけど、私にとっては神様からの贈り物」。病室でお遍路の思い出を話していると「ロマンチックやねぇ。私らはカモメ」…想像力が無限に広がっていた。死者の国からの風を受けて発せられた言葉だったのだろう。鎌倉時代の明恵上人が、夢に出てきた犬や島に手紙を書いたのは、死者の世界を実感していたからなのかもしれない。
感動的な経験をしたとき、死者となった人と共にしたかったと悲しむが、実は死者と共にあるから、真なるもの美しきものに心が動かされるのではないか、と言う。梅の花がほっぺたをすり寄せるように木の枝に甘えていたのを見て「見せてあげたい」と思った。色鮮やかなウグイスが目の前の枝にとまった時も心動かされた。美しさに心が動くことが、死者がそばにいる証拠なのだ。心を揺り動かした梅の花やウグイスは彼女そのものだったのではないか、とも思った。この本を読んでいたからそう錯覚したのかもしれないが。
死者を見つけようとしても見つけられるのではない。死者から「思われて」いることの発見からはじまるという。わかるようでわからない。
プラトンにとって実在はイデア界にあり、人間の生涯はその実相を「想い出す」ことだった。
柳田国男は戦争末期、「先祖の話」で、祭りや風習を通して生者と死者の間にはもうひとつの「日常」があることを示し、生者と死者の関係の復活を求めた。
鈴木大拙は妻をがんで亡くし悲哀を生きた。「大地から出で、また、大地に還る」と言うとき、出るとは、生者が死者に向き合うこと、還るとは死者が新生し、ふたたび生者の世界に帰還することを意味した。
田辺元の妻も55歳で亡くなった。田辺は悲嘆と後悔と懺悔を繰り返す日々を送ったあと、「死者の哲学」を生みだした。
生きかへれ生きかへれ妻よ生きかへれ 汝れなくて我いかで生きられん
わがために命ささげて死に行ける 妻はよみがへりわが内に生く
なれなくてわれひとり生くる五年のうつろの命はやく絶えぬか
田辺の妻の友人だった野上弥生子は、田辺の妻が亡くなる前年に夫を喪っていた。2人は、全身をなげうって相手を思うような関係をつむいだ。
神谷美恵子は、ハンセン病患者について、自分はだれかのために必要なのだ、ということを感じさせるものを求めてあえいでいる、と書いた。自分の欲の追求では人生の意味は見出せないが、だれかのために何かできれば生きる意義をつかめるかもしれない。神谷はまた「愛する者との別れ、といってもほんとうは別れでなく、べつな状態で存在するだけなのだ」「…病に目を奪われる者は、その奥にあって、あらゆる衝撃にも決して侵されない魂の存在に気がつかない。病は存在しない。在るのは病に苦しむ人間だけである。病を見てはならない。向き合うべきは、その奥に生きている実在である」とも書いた。
これらの宗教家も哲学者も民俗学者も、霊魂の不滅を疑っていなかった。
筆者は「妻は、周囲の者のため、とりわけ私のために苦痛に耐えようとしていた。…死の前日、彼女が懇願したのはそばにいることではなく、私たちが家に帰って休むことだった…」「苦しむ者は、多く与える者である。支える者は、恩恵を受ける者である。決して逆ではない」と断言する。実感としてよくわかる。救われているのは、介護する側なのだ。「死者は、自分のためだけに生きることを完全に脱した人間の呼び名である。生きているうちに限りなくその境涯に接近した人を聖者と称することもある」とも書いた。死を目の前にした人は、聖者に限りなく近づく。だから天から注いできたような言葉を発するのだろう。
筆者は妻の死から半年後、自転車に乗って買い物に出かけたとき、かつて二人で走った道で、ペダルを踏む足から力が抜けていくのを感じた。寂しさによってようやく生かされている感覚を覚えた。「私が願ったのは…元気の姿で現れ、共に食卓を囲み…それを強く望むことが、生きることと同義だった。望むのをやめれば、生きることをやめていただろう」。悲しみは生きる力を阻むのではなく、生きる支えになるのだという。
「悲しみ」を肯定的にとらえる。その発想にふれるだけでも、筆者の文章にふれる意味はある。

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▽9 死者が接近するとき、私たちの魂は悲しみにふるえる。悲しみは、死者が訪れる合図である。それは悲哀の経験だが、私たちに寄り添う死者の実在を知る、慰めの経験でもある。
▽10 2010年2月7日、ぼくも妻を喪った。…彼女を喪ってはじめて、人を本当に愛することを知った。ぼくは、かつてよりも、ずっと人を愛おしく思う。
…寂し…さと悲しみは違う。寂しさは、喪われた何かを取り戻そうとするときに湧き上がる。悲しみは、新しい何かを生みだそうとして、ぼくらの住む世界の彼方から訪れる〓〓。
…ぼくらが悲しいのは、その人がいなくなったことよりも、むしろ近くにいるからだ、▽13 君は闇を知った。だから、君は今、本当に光と出会ったとも言える。あるものを見失ったとき、はじめて、それがもっていた存在の重みを知る。光のなかにだけあった頃、その恩恵を全身に浴びながら、その真実の意味を理解していなかった。
▽15 深く悲しむ君は、深く人を愛することができる人だ。なぜなら、君は愛されているからだ。…君が悲しむのは、愛されていることの証しでもある。…悲愛は、ぼくらのなかで育っていく…いずれは果実を実らせ、たくさんの人を幸せにする。…君の許にはたくさんの人が集まってくる。君はたくさんの傷を負い、それに耐えたからだ。
…夜にひとり…自分を孤独だと思うかもしれない。…でも、そのとき君は世界とつながっている。世に苦しみのない人はいないからだ。苦しんだ分、君の愛は深まっている。
▽19 死者は自分の始めていたさまざまなことを、自分のあとに生き残った人々に……続けてやりとげてくれる課題としてゆだねるのではないでしょうか。(〓何をゆだねるのか。人を助けること。…か?)
▽死者と生きるとは、死者の思い出に閉じこもることではない。今を、生き抜いて、新しい歴史を刻むことだ。
▽39 フランクル「夜と霧」 収容所の男 彼が心を砕いたのは、自分が救われることよりも、自分のことで伴侶が苦しまないことだった(〓)
▽40 フランクルが「死者」たちと出会うのは、その存在を考えることによってよりも、彼が日々生きる、その行為の中においてである。「死者」は営みのなかに自己を顕す。行為のなかに「死者」を「見る」こと、生きることそのものが「死者」との交わりであり、協同である。
…私たちが、ただ毎日を生きる、その無言の営みが、死者への絆となり、無上の供物となる。
…死者と共にあるということは、思い出を忘れないように毎日を過ごすことではなく、むしろ、その人物と共に今を生きるということではないだろうか。
▽57 肉体のうちに魂があるのではない。魂が肉体を包む。
▽59 悲嘆にくれるほど愛おしい人に出会っていたことを知るのである。
▽65 プラトン 知ることはすべて「想いだす」こと。実在はすべてイデア界にあり、人間の生涯とは、その実相を想い出すことと同義であった。
▽85 明恵 夢に出てきた犬や、島に手紙を書いた。平田篤胤が本居宣長に「会った」のは師の没後である
▽93 友人や同僚…伴侶からも、私は賢者の言葉を耳にしたことがある。そのときはきまって、発言者の後ろに死者を感じる。彼らを守護し、忠言する死者を感じる。言葉を発している本人もまた、自分の言葉を聞き、驚きながら話しているのである。
▽95 私のなかに心があるのではない。心の中に私があるのだ。(ユング・池田晶子)
▽99 死者、それは自分のためだけに生きることを完全に脱した人間の呼び名である。生きているうちに限りなくその境涯に接近した人を、聖者と称することもある
▽105 フロイトとユングにとって「世界」とは、死者を包含し、時間と永遠が交差する境域である。…ユングが試みたのは、死者を冥府に幽閉した因習的世界の解体であり、死者たちの「解放」だった。
▽107 感動的な経験を、死者となった人と共にしたかったと強く思い、悲しむ。だが、実相はむしろ逆で、私たちは死者と共にあるから、真なるもの、良きもの、美しきものに心が動かされるのではないだろうか。ここでいう感動とは、実在に触れる経験である。
▽113 悲しみは死者が寄り添う合図である。…その臨在を感じ、よろこびに涙し、触れ得ないこと、抱きしめられないことに悲しみを覚える。
▽114 死者との協同を試みて、死者を見ようと目をこらしても、思うようにはいかないだろう。それは死者から「思われて」いることの発見から始まる。協同とは魂を通わせることであって、互いに見つめ合うことではない。
▽127 柳田国男「先祖の話」 戦争末期、日本の歴史に息づく死者の伝統に分け入り、死者の実在を明示しようとした。…「先祖」とは、生者が自覚する、死者としての在り方である。死していっそう生者との関係を深める者の呼び名である。…祭りや言語、風習をあげながら、生者と死者のあいだには、もうひとつの「日常」があることを実証的に論じていく。「魂の行くえ」(1949)
▽134 柳田にとって民俗学とは、生者と死者の隙間なき関係の復活の実践だったといってよい。彼にとって民俗学とは、累々とつらなる死者たちの伝統そのものだった。
▽143 鈴木大拙 妻ビアトリスはガンだった。献身的に介護した。亡くなったのは、大拙69歳、ビアトリス61歳、結婚生活は27年に及んだ。
…私たちと大拙がつながるのは、行き先を失った悲哀を生きる地点においてである。…私たちが真実の意味で他者とのつながりを回復するのは、歓びの瞬間においてではなく、むしろ悲哀の孤独においてである。
▽151 生まれる以前、私たちは「魂」だった。現象界に降りてくるときに、私たちはその経験を一度忘れる。生きるとは、それをひとつひとつ想い出していくことであり、それが「魂」を育てることなのだ、とプラトンは考えた。(「生きがいの創造」と同じ〓)霊魂の不滅を疑わなかった。
▽154 大拙 生者と死者は「大地」において連続する。人は「大地から出で、また、大地に還る」と大拙がいうとき、単に人間の生死を表すのではない。出るとは、生者が死者に向き合うことであり、還るとは死者が新生し、ふたたび生者の世界に帰還することである。
…死は新生であり、他者の救済のために身を捧げる時機の到来だと信じられた。…(生が、尊ばれなくてはならない理由は)生はいつも、眼前の生者だけでなく無数の死者たちによる協同の果実だからである。(自我を離れて死者を感じることで大きな生命のありかたに気づくのか〓)
▽161 西田幾多郎 8人の子のうち4人が彼の存命中に亡くなった。妻も、西田が56歳のときに逝った。
▽168 田辺元 妻のちよは、55歳で亡くなる。田辺はその11年後に亡くなる。最晩年の5年間、全身全霊を込めて書いたのが「死者の哲学」だった。死者との「実存協同
…彼は、うめきと悲嘆、身を焼くような後悔と、不可視な死者に対し、懺悔を繰り返す日々を送った。
生きかへれ生きかへれ妻よ生きかへれ 汝れなくて我いかで生きられん
わがために命ささげて死に行ける 妻はよみがへりわが内に生く
なれなくてわれひとり生くる五年のうつろの命はやく絶えぬか

身を切り裂くような孤独にさいなまれ、闇に吸い込まれそうになって存在が揺れる。そうした存在の危機の経験が、かえって自己の実在を照らす確かな光となる。
野上弥生子 田辺の妻と友人だった。弥生子は、田辺の妻が亡くなる前年に夫を喪っていた。…この恋は、単に肉体が求め合うそれであるより、全身をなげうち相手を思う営みである。
▽181 死者の愛は、いつも存在の暗夜に苦しむ生者の復活に捧げられている。
▽185 神谷美恵子〓 (ハンセン病の患者)こういう思いにうちのめされているひとに必要なのは単なる慰めや同情や説教ではない。…彼はただ、自分の存在はだれかのために、何かのために必要なのだ、ということを強く感じさせるものを求めてあえいでいるのである。(〓だれかのために何かできないか、と。それ以外の存在意義を見出せなくなる)
▽191 生者はしばしば死者の姿を見失い、むなしさと悲しさに包まれ、嘆息し、迷路に迷い込む。
…何日も何日も悲しみと絶望にうちひしがれ、前途はどこまで行っても真っ暗な袋小路としか見えず、発狂か自殺か、この二つしか私の行きつく道はないと思いつづけていたときでした。
続編の「人間をみつめて」では、「愛する者との別れ、といってもほんとうは別れでなく、べつな状態で存在するだけなのだ」
▽197 神谷の実践ほど、単なる憐ぴんからと遠いものはない。…病に目を奪われる者は、その奥にあって、あらゆる衝撃にも決して侵されない魂の存在に気がつかない。病は存在しない。在るのは病に苦しむ人間だけである。病を見てはならない。向き合うべきは、その奥に生きている実在である。(永田和宏の生き方、自分は実在をとらえようとしていたか)
▽200 人は「霊」によって「生きる」存在である。霊性的世界において、死は消滅ではなく新生を意味する。死者とは、霊性的世界からの使者の異名である。「生きがいを失った人に対して新しい生存目標をもたらしてくれるものは、何にせよ、だれにせよ、天来の使者のようなものである」
▽212 (筆者の妻)病者は、介護者が思うよりもずっと、介護者をはじめ自分を生かしてくれる縁ある人を思っている。
…死ぬのは怖くない、彼女は一度ならずそう語った。
余命を感じている病者は、いわば中間世界に生きている。現実世界にありながら、実在の世界にむかって歩き始めている。それは、真実の存在を感じる地平であり、詩人たちが言葉を受け取る場所である。聖者が日々往復する満ちである。病者から発せられる言葉がしばしば、常ならぬ叡智を感じさせるのはそのためだ。彼らは病室にありながら、異界からの風を感じ、万物とつながろうと心を躍動させている。
(〓すてきな言葉、ふだんは聞いたことない言葉が紡ぎ出されるのは異界とのつながりによるものだったのか)
▽215 苦しむ者は、多く与える者である。支える者は、恩恵を受ける者である。決して逆ではない〓。
…黙って横にいることは、厳しい忍耐を要し、ときに苦痛である。苦しむ病者を前に、あまりに非力な自分を痛感しなくてはならないからである。しかし病者は、その思いをもくみ取っている。
▽216 妻は、周囲の者のため、とりわけ私のために苦痛に耐えようとしていた。死の前日まで彼女が心を砕いたのは、母と私の健康である。…死の前日、彼女が懇願したのは、そばにいることではなく、私たちが家に帰って休むことだった。…
▽217 彼女の死から半年ほど経過した晩夏のある日、自転車に乗って買い物に出かけた。かつては二人で走った道だと思うと、ペダルを踏む足から力が抜けていく。寂漠とは、こうしたときに現れる精神風景に違いない。寂しさを感じるのではなく、寂しさによってようやく生かされている感覚である。
私が願ったのは…元気の姿で現れ、共に食卓を囲み…それを強く望むことが、生きることと同義だった。望むのをやめれば、生きることをやめていただろう。
…妻はひとときも離れずに傍らにいる。だが、亡骸から目を離すことができずにいる私は、横にいる「彼女」に気がつかない。
「君がぼくを、独りにしたと思ったあのときも、震えるぼくの傍らに、いてくれたのは、君だった」
死者は感謝を求めない。ただ生き抜くことを望むだけだ。死者は、生者が死者のために生きることを望むのではなく、死者の力を用いてくれることを願っている。
死者を感じたいと願うなら、独りになることを避けてはならない。…死者はいたずらに孤独を癒やすことはしない。孤独を通じてのみ知り得る人生の実相があることを、彼らは知っている。死者は、むしろ、その耐えがたい孤独を共に耐え抜こうとする。
▽222 病床の妻によく叱られた… 遠からず自分が去らねばならないことを見すえ、妻があえて厳しくなったことは、今では痛いほどに感じられる。死を感じることがなければ、彼女は、私の愚かな行為も笑って見過ごしただろう。しかる言葉から逃げようとする、それは抱きしめようとする手をはねのけるのに似ている。それは生者間だけでなく、死者との間でも変わらない。
妻を喪い、悲しみは今も癒えない。しかし、悲しいのは逝った方ではないだろうか。死者は、いつも生者の傍らにあって、自分のことで涙する姿を見なくてはならない。死者もまた、悲しみのうちに生者を感じている。悲愛とは、こうした二者の間に生まれる協同の営みである。

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