
福井県三方町(現在は若狭町)の若狭三方縄文博物館をはじめてたずねたのは2014年のことだった。能登半島の輪島から、北陸の海沿いをすべて自転車でたどる連載の取材だった。静かな三方湖のほとりの博物館は前方後円墳に似ているが、縄文だから古墳ではなく土偶のおなかであり、その胎内にはいっていくイメージにしたという。
丸木舟続々 高度な精神文化
鳥浜遺跡は名前しか知らなかったから、初代館長が梅原猛だったことにまずおどろいた。縄文の美を発見した岡本太郎は「人類は進歩なんかしていない。何が進歩だ。縄文土器の凄さを見ろ。ラスコーの壁画だって、ツタンカーメンだって、いまの人間にあんなもの作れるか」とのべた。梅原は岡本に賛同し、縄文のキーワードとして、共生・循環・平等をあげた。博物館はそんな梅原の縄文観を表現している。
展示の冒頭では「世界に先駆けて1万6000年前に土器革命がおこった」とある。「土器革命」がおきた縄文は最先端の文明であるという宣言だ。土器は、「5220±35年前」が「5961±31年前」といったぐあいに700年ぐらい年代が修正されている。後述する水月湖の年縞データをもとに年代を修正したのだ。

スギ製の丸木舟はわずか30ヘクタールの範囲から11艘出土した。琵琶湖とならんで全国最多という。湖から海につながり、丸木舟が行き交うムラだった。
縄文人が漆器をつくっていたことも鳥浜貝塚でわかった。
赤い漆は、石皿でベンガラをくだき、漆をくわえ、さらにエゴマ油をまぜる。黒漆は、煤をあつめて漆とエゴマ油とまぜる。木地に赤漆を何度もぬってかため、最後に黒漆で文様をつける。現在の漆器のデザインの原型がすでに縄文時代にできあがっていた。

輪島塗につながる木地づくり

木地は丸太を縦にわって「横木取り」をする。横木取りは縄文以来の技術だったのか。輪島塗の木地のもとになる荒型(アラカタ)の産地だった輪島市・大沢地区の話を思いだした。

大沢では縄文時代とおなじ横木取りだった。それにたいして山中(加賀市)は技術革新ではやくから「縦木地」を生産した。縦に材をつかうから狂いにくく轆轤(ろくろ)で簡単につくれる。横木地だと狂いが多いから手作業で調整しなければならない。輪島の木地屋も縦木地をつかうようになり、大沢の人が輪島の街にアラカタをおさめにいくと、「これはマサ(柾目)じゃないよ」と安く買いたたかれた。やる気をなくしてアラカタづくりをする人はいなくなってしまった……。
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日本海側では漆製品が数多く出土している。丸木舟による交通で漆工芸文化が日本海側で共有されていた。黒曜石も、能登や隠岐、美ヶ原からもとどいていた。

鳥浜貝塚では、エゴマ、シソ、ヒョウタン、アサ、ゴボウ、豆類がでている。縄文後期から晩期は、稲、オオムギ、粟、小豆は栽培され、農耕がはじまっていた。
アサは全国6遺跡しか出土していない。鳥浜では大麻の縄や苧麻の編み物をつくっていた。
ヒョウタンは西アフリカ原産だが、鳥浜貝塚(8500年前)や滋賀県・栗津湖底遺跡(9600年前)から出土している。エゴマやシソは、東日本から北海道で見つかっている。
共生とアートの時代
2014年は旧三方町役場で博物館建設を担当した玉井常光さん(1942年生まれ)に取材した。
鳥浜貝塚を調査していた1975年ごろ、三方町教育委員会の文化財担当になり、1981年に丸木舟が発掘される場面にたちあった。

舟にはシカの角のようなデザインがほどこされていた。おしゃれな赤い漆の櫛も出土した。割れた土器をひもでつないで再利用していた。哺乳類ではシカとイノシシを食べていたが、幼獣を保護していたためか、成獣の骨しか出土していない。
漫画「はじめ人間ギャートルズ」にでてくる髪がボサボサの「野蛮な原始人」が縄文人と思っていたから、発掘がしめす縄文人の実像は、玉井さんにはおどろきだった。
「梅原先生がおっしゃっていたように縄文時代は、自然と共生する知恵をもち、質の高い芸術を生み、命を大事にする平等な社会でした。(東日本)震災後はとくに、たくさんかせいで消費するだけが豊かさなのではないと気づかされました」
三内丸山が追い風に
当時の町長は「三方町の顔をつくるんや」と博物館建設をうちだし、玉井さんは博物館建設準備室に配属された。
議会は「金がかかる」と建設に反対で、「どれだけの人間がはいるんや!」と批判した。玉井さんも内心では博物館建設に疑問をかんじていたが、「三内丸山遺跡(青森)では100万人がはいっています」と説明した。
鳥浜貝塚では、真珠や石斧の柄のほか、前例がない低湿地の遺跡だから縄などの有機質のものが腐らずにでてきた。しばしば「日本初」と報道され、少しずつ住民のなかに理解がひろがり、12億円かけて2000年にオープンにこぎつけた。梅原猛が館長に、玉井さんは副館長に就任した。
消された縄文
鳥浜遺跡を記念して、三方町では1987年から「若狭三方縄文まつり」をひらき、出土した丸木舟をかたどったFRPの舟で競争した。だが三方町と上中町が2005年に合併して「若狭町」になると、「縄文まつり」は「若狭町まつり」というどこにでもある地方の祭になった。
鳥浜貝塚は一時、東京書籍の教科書にのっていたが、三内丸山遺跡や真脇遺跡が脚光をあびるととりあげられなくなった。
それどころか「縄文」じたいが小学校6年の社会の教科書から消された。
「ゆとり教育」にともない、1998年の学習指導要領改訂で、最も古い時代の記述について「農耕の始まり、古墳について調べ、大和朝廷による国土の統一の様子が分かること」と規定され、2002年度以降の教科書からは、旧石器と縄文は「狩猟採集の時代」でくくられた。2008年の学習指導要領で授業時間が増加したため、2011年度から縄文の記述が復活したが、「縄文」を小学校でならわない年代が10年間もできてしまった。
「この町の先生で縄文を飛ばす人はいなかったと思うけど、来館者に『学校では習ってないと思うけど』と言うのはむなしかったですねぇ」
博物館の学芸員さんはかたった。
縄文博物館の隣には2018年に「福井県年縞博物館」が誕生した。「年縞」とはききなれないコトバだが、世界的にはきわめて貴重であるらしい。(つづく)

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