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小樽と北前船と戦後日本の盛衰202108

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北海道最古の鉄路

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 函館本線の小樽駅に降りると、坂のずっと下に海がのぞいている。海に向かってちょっと下ると、古い線路と交わった。
 北海道で最初の鉄道である官営幌内鉄道(手宮−札幌−幌内)の一部として1880年(明治13年)に開通した旧国鉄手宮線の跡だ(1985年廃止)。
 かつては内陸部の石炭が小樽から船に積まれて本州に移出された。札幌という新都に近い、北海道の玄関口だった。
 線路沿いの遊歩道を北にたどると、北海道の鉄道起点「ゼロ・マイル」の記念碑と、蒸気機関車を方向転換した転車台がある。小樽市総合博物館は以前は北海道鉄道記念館だった。
 博物館で保存されていた蒸気機関車C62を復活させるため1986年、前年に廃線になっていた手宮線のレールで函館本線まで運んだ。1988年から95年まで、函館本線を「C62ニセコ号」として運行した。

北前船の遺産

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 コロナで休館の博物館から海側にちょっと歩くと、旧右近倉庫、旧広海倉庫、旧増田倉庫という石造りの倉庫がならんでいた。右近家は、福井県南越前町河野、広海家は石川県加賀市大聖寺瀬越町、増田家は加賀市橋立の北前船の大船主だ。ちょっと離れた大家倉庫も瀬越の船主、大家七平によって建てられた。

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 市総合博物館の運河館になっている小樽倉庫も、橋立の船主である西谷庄八と西出孫左衛門が建てた。

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 そのほか運日本郵船の小樽支店(重要文化財)や大河ドラマで有名になった渋沢栄一の旧渋沢倉庫など、明治の石造りの建物がふんだんに残り、カフェや食堂、ビアホールになっている。
 江戸時代は奥地の産物はすべて江差に集荷され、そこから本州向けの船に載せられた。北前船が小樽まで北上するのは1870(明治3)年以降だった。小樽の経済発展の基盤をつくったのは北前船主たちだった。

船主たちの故郷

 2015年、私は北前船主が育った北陸の海辺を自転車で巡った。

瀬越竹の浦館-22

 瀬越にある旧瀨越小学校の木造校舎は広海家と大家家の寄付で1930年に建てられた。堅牢な建物は3769人の犠牲者が出た48年の福井地震でも無事だった。

橋立-28

 橋立は船主約40人が屋敷を構え、大正期の雑誌に「日本一の富豪村」と紹介された。船主たちが道を整備し医院を開き寺を建てた。戦後は船主は外に出てしまい、旧屋敷では家財の競り市が開かれ、屋敷も切り売りされた。橋立最大の船主だった西出家でも、膨大な家財道具が売りに出された。

河野村右近家周辺-32

 河野の「北前船主の館・右近家」は、母屋のほか土蔵7棟や茶室があり、背後の山の中腹には1階がスペイン風、2階がスイスの山小屋風の「西洋館」がある。右近家は明治期には約20隻の船を動かし、和船から汽船への転換期にも生き残って、加賀の船主と共同で日本海上保険(損保ジャパン日本興亜の前身)も設立した。
【北陸の北前船については「北陸の海辺自転車紀行 北前船の記憶を求めて」に書きました。http://www.amazon.co.jp/dp/4871773361】

観光に活路、日本と重なる

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 運河からちょっと離れた一角にはガラス工房などが軒を連ね、観光客がそぞろ歩く。古い銀行の建物がガラス工房などの観光施設になっている。
「すしや通り」の店に入って海鮮丼を食べた。ウニ丼4000円はさすがに高い。2000円台の海鮮丼にした。ウニが甘くておいしかった。
 大正年間には小樽市内に25の銀行があり「北のウォール街」と呼ばれた。鉄道や道路が整備されて海の玄関口の役割が薄れ、明治から大正にかけて建てられた遺産を観光に活用している。
 経済力が衰えて観光に活路を見出すあり方は、中国や韓国企業との競争に敗れ、相対的に物価が安くなってインバウンドに救いを求める日本経済を先取りしているように思えた。

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