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石狩河口、縄文人も缶詰工場も鮭が支え202108

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 札幌市の南西にそびえる藻岩山(531メートル)頂上から眺めると、間近に日本海が広がり、札幌は日本海側の都市なのだとわかる。大雪山系石狩岳を発してうねうねと蛇行して海に注ぐ石狩川(268キロ)がつくりあげた平野なのだ。北海道の中核部をつくりあげた大河の河口は見ておくことにした。

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成長する砂嘴

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 石狩川の河口に立つ赤と白のツートンカラーの石狩灯台は、1892(明治25年)に完成した。当時は木造六角形で、光源には石油灯を使っていたが、1908(明治41)年に改装された。
 完成した当時は河口の砂嘴の先端にあったが、1世紀を経て砂嘴が成長し、河口まで1.5キロも離れてしまった。

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 灯台のある広大な砂嘴の草原に整備された木道を歩いて川に出ると、肌寒い強風に波立っている。秋色の真っ青な空に薄衣のような雲がゆらゆら流れている。
 足もとには、ミニトマトのようなハマナスの赤い実が揺れている。学生時代、湿原を歩いてのどがかわいて赤い実をむさぼったことを思い出した。

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 石狩川には秋になると鮭がさかのぼる。アイヌの人々は、一時期に大量にとれる鮭を保存食に加工して主食のようにしていた。1877(明治10)年には、北海道開拓使が大量の鮭を生かすため米国人の指導を受けて日本初の缶詰工場を建設した。
「いしかり砂丘の風資料館」はそんな歴史を紹介している。北方の縄文文化が一時に大量に獲れる鮭によって成り立っていたことが理解できる。
 アイヌは「石狩川の主」としてチョウザメを敬っていた。石狩弁天社は「鮫様」を祀っている。資料館にはチョウザメの剥製も展示されている。

碁盤の目の方角は?

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       【資料館の隣にたつ旧長野商店】

 石狩の北はどっち? という企画展も興味深かった。
 帯広の町の碁盤の目は、ぴったり東西南北ではなく、西に6.4度ずれている。資料館のある石狩市の生振(おやふる)の町も同じく6.4度ずれているそうだ。ちなみに京都はほぼ真北を向いているららしい。
 北海道では磁北は、本当の北から西に9度ずれている。江戸時代のはじめは東にずれていて、西暦1800年ごろがちょうどずれがゼロだった。伊能忠敬はこの時代に測量したから傾きのない地図ができた……という。
 生振の区画が設定された明治20年代、偏角は今より3度小さく約6度だった。「帯広や生振が6.4度ずれているのは磁北を補正せずに使ったためと考えられる」と結論づけていた。
 ちなみに札幌は、中心部と、南に少し離れた山鼻地区とでは碁盤の目の角度が微妙にずれている。2つの地区が別々の基準から町を広げたためらしい。

 北前船やニシン漁の足跡を見るため、石狩川の河口から日本海側を北上することにした。(つづく)

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