九州から攻めてきたイワレヒコ(神武天皇)は大和をめざして大坂に上陸するが、生駒山地を根城とする長髄彦(ナガスネヒコ)に撃退され、兄のヒコイツセ(彦五瀬命)が重傷を負い、その後死亡する。
神武の軍は熊野へ迂回して今度は南から大和にむかう。長髄彦(ナガスネヒコ)は徹底抗戦するが、主君であり妹の夫でもある饒速日命(ニギハヤヒ)に殺され、ニギハヤヒはたたかわずして神武に帰順してしまった。
ニギハヤヒは神武より先に大和を支配していたという伝説は、大和に神武以前に出雲系王権が存在したことをしめすと村井康彦は主張する(「出雲と大和 古代国家の原像をたずねて」)。ニギハヤヒが神武に帰順したことが「国譲り」だという。神武の最大のライバルである長髄彦は出雲軍の総大将ということになる。
一方、戸矢学は、物部氏の氏祖・宇麻志麻遅命(ウマシマジ)(饒速日命の息子)の伯父である長髄彦こそが三輪山の祭神だととなえる。正体を蛇(おろち)としているのは「祟り神」としておとしめる意図があったとする。かつて存在した三輪王朝は長髄彦王朝であり、オオナムヂ(大国主)を鎮魂するために杵築(出雲)大社を建立したように、長髄彦を鎮魂するために大神神社を建立した、と推測する。(「鬼とはなにか まつろわぬ民か縄文の神か」)
ニギハヤヒの子孫が物部氏となり、大和王権の祭祀や軍事の責任者になった。
神武に屈服したニギハヤヒは、石切劔箭神社や磐船神社の祭神になっているが、「朝敵」である長髄彦をまつる神社はあるのだろうか?
かくされた祭神
生駒山の東麓、長髄彦の本拠があった富雄(奈良市三碓)にある添御県坐神社(そうのみあがたにいます)が長髄彦をまつっているという。2025年12月に訪問した。
近鉄富雄駅におりると西側に生駒山地が屏風のようにそびえている。大坂から攻めてくる神武軍を迎え撃つにはかっこうの要害だ。


右手に生駒をながめながら南にむかう。船形地蔵立像(愛宕地蔵)などを見学して10分ほど歩くと「下條地蔵塚」があり、20体ほどの地蔵が密集している。目の前に三碓(みつがらす)小学校跡である三碓公民館がある。隣の路地をのぼったところに添御縣坐神社が鎮座している。

神社のHPによると、この地域は大和の国の添(そう)郡で、県(あがた)とは、律令体制以前の朝廷の直轄地を意味する。主に皇室に木材や薪をおさめる料地のため御県(みあが た)とよばれた。大和の国の 添郡の県に鎮座する神社という意味だ。

国の重要文化財の本殿は1966年の解体修理の際、内部の壁面に「永徳3年11月9日立柱云々」という墨書が発見され、南北朝時代末期の1383年の建立と判明した。
広大な境内の一角にある「福神宮」は奈良時代の豪族小野氏の祖である小野福麿命をまつる。天之香具山神社や龍王神社、本殿正面には恵美須神社がまつられている。
忖度された伝説
富雄は神武と長髄彦のたたかいの舞台であり、いくつかの本や奈良県のHPには「神社は長髄彦をまつっている」としるされている。だが、神社にはナガスネヒコの「ナ」の字もでてこない。
本殿には建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、武乳速之命(たけちはやのみこと)、櫛稲田姫之命(くしいなだひめのみこと)の3柱がまつられている。長髄彦はどこにいるのだろう。
調べると、「武乳速(タケチハヤ)は先住民の首長・長髄彦で、神武東征による大和平定の際、捲土重来を期して蜂起を図る先住民を説き伏せたうえ自害し、これを惜しんだ人々がその霊を祀ったのが起源」という伝説がつたわっているらしい。これでは長髄彦は神武に帰順したことになる。後世の忖度がはたらいていたのだろう。

明治維新で消えた神
前出の「出雲と大和 古代国家の原像をたずねて」は概略次のようにしるしている。
武乳速命のことを現地の人は長髄彦だと信じ、「自分たちの先祖は長髄彦にしたがい、生駒山頂から大きな石を神武の軍兵に向けて投げたものだ」と戦いのさまを語ってくれる古老がいたとのことだった。先祖が長髄彦にしたがって戦ったという伝承を信じ、誇りにしている人たちが現代もいるというのである。
古老の言によれば、当社の祭神から長髄彦の名が消えたのは明治になってからだという。……長髄彦は生駒地域の首長だっただけでなく、饒速日命の率いる邪馬台国連合の総大将であったとみられる
その古老とはいったいだれだったのだろう。
以前には神社の境内に長髄彦についての説明書きもあったそうだ。もしかして宮司が交代して長髄彦の説明をはずしてしまったのだろうか。
いずれにせよ神社から長髄彦の名は消えてしまっていた。
高天原のムラ
金剛山の中腹、高天原伝説がある高天(御所市)という集落にある高天彦(たかまひこ)神社も長髄彦とかかわりがあるという。
1月6日、奈良の市街は8度だったが、標高400メートル超の神社周辺は4度まで冷えこみ氷が張っている。

参道の登り口には、木柱2本のあいだに注連縄をはった原始的な鳥居がある。

ヒノキの人工林をのぼっていくと、左手に地蔵や石碑がならび、土台だけになった地蔵も多い。明治の廃仏毀釈かなにかでこわされたのだろうか。

ヒノキと杉の森が切れると、目の前に金剛山の山々がそびえ、太陽がさんさんとふりそそぐ里にでる。雄大な山を背にしたひだまりのような隠れ里は、高天原伝説にふさわしい。

杉の古木がつらなる100メートルほどの参道をぬけると、高天彦神社だ。鳥居の右手に「神霊」という石碑がそびえている。

虐殺された先住民
高天彦神社の祭神・高御産巣日神(高皇産霊神)(タカミムスヒ)は、造化三神のうちの一柱だが、本来の御神体は、神社の背後にそびえる白雲岳という。もとは無社殿の神社なのだろう。
境内には「神武天皇遥拝所 明治天皇遥拝所」という2本の石柱があるが、「長髄彦」の文字はみつからない。

本殿にむかって左奥に大きな岩がある。注連縄にたくさんの硬貨がねじこまれている。

御神体山からもってこられた磐座、という説と「土蜘蛛塚」という説もあるらしい。神社の手前には、草ぼうぼうで見つけられなかったが「土蜘蛛窟」跡もあるそうだ。
土蜘蛛は竪穴式住居にすんでいた縄文系の人々ではないかと宮本常一は書いている。鎌倉時代までは竪穴住居でくらす人が多く、昭和10年代までそんな暮らしがのこっていたという。(「日本文化の形成」)
「葛城」という地名は、神武が熊野から攻めてきて縄文系先住民の「土蜘蛛」とたたかった際、葛(かずら)のつるでつくった網で土蜘蛛をつかまえて殺したことから名づけられた−−と、日本書紀はつたえる。
神武に抵抗した長髄彦(ナガスネヒコ)の名は、脛(すね)が長い異形の人という蔑称である。長髄彦は土蜘蛛(先住民)の王あるいはリーダーだったのだろう。
奈良盆地と大峰山一望

神社から12軒30人(2020年)がすむ高天集落をぬけて高天寺橋本院へ。高天寺はかつて、鑑真が住職をつとめるなど「高天千軒」とよばれる大寺院で、役の小角も修行したが、元弘の変(1331)以後、高天寺の修験僧高天行秀らが南朝について北朝方にことごとく焼き打ちされた。1677年に高天寺の一子院橋本院として復興されたという。


橋本院のちかくの棚田からは、奈良盆地や、吉野の山々、その右手には雪におおわれた大峰連山が一望できる。

ふりかえると、神社の御神体山である端正な白雲岳や金剛山がそびえている。山を背にしてたつ本堂には十一面観音がまつられていた。
もうひとつ、奈良には長髄彦と関係する神社があるから、近々たずねて書きくわえることににしよう。

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