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余市 ニシンとリンゴとウイスキー202108

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 NHKの連続テレビ小説の主人公「マッサン」こと竹鶴政孝はなぜ北海道の余市でニッカを創業したのか。余市の風土や歴史はマッサンにどんな影響を与えたのか。余市を訪ねてみると、かつて隆盛を極めたニシン漁や、会津藩士による開拓とのかかわりが見えてきた。

目次

金肥のフードマイレージ

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 私が4年間をすごした能登半島の輪島市ではかつて、イシル(魚醤)をつくる際に出たイワシのしぼり粕を道に干して肥料をつくり、農家が大八車で取りに来て野菜と交換していた。旧門前町(今は輪島市)の漁村では、大釜でイワシをゆでて搾って乾燥させ、藁のかますに入れて干鰯として出荷していたと聞いた。
 江戸時代、干鰯は大阪近郊の綿花栽培に使われた。草木灰や人糞と比べると軽くて即効性があるからだ。イワシの値段が上がると鰊粕(にしんかす)が注目された。綿花のほか、菜種油や藍、ミカンなどの商品作物をつくる瀬戸内海沿岸で重宝された。
 琵琶湖東岸の近江商人が北海道の松前へわたり、18世紀になると、松前藩士から知行地の「場所経営」を請け負い、漁場開拓にも手を広げた。
 近江商人の多くは北陸の船を雇って物資を運搬した。その船主のなかから18世紀後半になると独自の才覚で商品を売り買いする「北前船」があらわれた。
 江戸末期から明治にかけて、北前船は、北海道から鰊粕や昆布、鮑、海鼠などを上方方面に運んだ。最大の商品が鰊粕だった。
 江戸末期の関西や瀬戸内の農家は、はるか2000キロ離れた北海道の鰊粕で畑をつくっていたのだ。

大商人が海沿いに拠点

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 2021年8月、私は札幌から小樽を経由して余市町の海沿いでバスを降りた。
 余市川を河口の橋をわたるとモイレ山という小さな山がある。その海側のふもとに「旧下ヨイチ運上家」(国の重要文化財)という間口40メートル、奥行16メートの巨大な木造建築が残っている。「遠山の金さん」の父である遠山景晋(かげくに)も滞在したことがあるらしい。
 江戸時代、蝦夷地では稲作ができず、蝦夷をおさめる松前藩は家臣に米で知行を与えられなかった。かわりに、アイヌと交易をする権利や、漁業をする土地(知行地)を家臣に与えた。
 江戸中期になると、藩士たちは知行地の運営を近江商人などに委託し、商人は交易の利益の一部を運上金として藩士に納めた。これらの商人が拠点とした建物が運上家(屋)だった。

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 交易の主役はニシンだ。身欠きニシンやカズノコは食用にされたが、大半は大鍋でゆで、それを四角や丸の圧搾胴に入れてしぼる。生鰊70貫(260キロ)が約25貫(94キロ)になり、これを乾燥して鰊粕にした。搾り汁は、油分と水分に分離させて魚油(石けんの材料)を抽出した。
 ニシン漁最盛期の大正時代には、鰊粕を積んだ馬車が港から余市駅まで延々4キロにわたってつらなったという。

旧会津藩士が育てたリンゴ

 一方、余市町の内陸を開拓したのは旧会津藩士だった。
 幕府側について官軍に最後まで抵抗した会津藩は明治政府からにらまれ、約200家族600人が流罪同然に1871(明治4)年に余市の地に入植した。ニシン景気で沸き立っている漁民には「会津の降伏移民」と蔑まれた。
 余市では「会津の人は皆神徒」と言われてきたが、もとは仏教徒も多かった。村から死者が出て葬式を頼んだところ、「朝敵の葬式は引き受けない」と寺に断られ、会津衆は仏教を捨てて神徒になったという。国学にくわしかった会津出身者が葬祭を担い、その男は後に郷社稲荷神社(余市神社の前身)の神官になった。背景には、会津で学んだ教養や尊皇の思想、廃仏毀釈の影響もあったと、余市町史は記している。
 北海道開拓使次官の黒田清隆がアメリカで果樹の苗木を購入し、1875(明治8)年から道内各地にリンゴの苗木が配られた。余市でも75年と77年に各戸10本ずつ配られ、79年に旧会津藩士の庭先に最初のリンゴが実った。
 余市の気候に適していたのに加え、小樽や札幌という都市が近いのが幸いして栽培が広がった。海路でウラジオストクや樺太にも販売した。1906(明治38)年の函館本線全通も追い風になった。栽培開始から12、3年もたつと、ほかの作物の20倍以上の収益が上がるようになったという。

ニッカ創業

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 リンゴとニシンの産地だった余市町にマッサンは1934(昭和9)年にやって来た。
 その年の春、マッサンは、ニシンが海一面を真っ白にしながら浜に押し寄せ、次々に浜に飛び上がり、銀色のうろこをキラキラさせながら砂の上で乱舞する光景を目にした。だがその年が、余市にニシンが押し寄せる最後の年となった。ニシンは幻の魚になり、ニシン漁は一気に消滅した。網元たちが競って建てたニシン御殿のひとつを後にニッカが譲り受けて工場内に移築した。
 ウイスキー製造では、ピート(泥炭・草炭)を使って麦芽を乾燥させ特有の燻香をつける。スコットランドのムーア(湿原)は大地がピートでできており、古くから燃料として利用されてきた。余市でもピートが取れるため、ウイスキー造りにはうってつけだった。

 ニシンが揚がった「旧下ヨイチ運上家」のある海辺から、マッサンの妻の名をとった「リタロード」を歩いてニッカウヰスキー余市蒸溜所を訪ねた。残念ながらが新型コロナウイルスの影響で見学できなかった。
 マッサンは1934年10月にこの工場を建てたが、ウイスキーの商品化には何年もかかるため、社名を「大日本果汁株式会社」として特産のリンゴでジュースを製造した。1本に果実5個分の果汁を使うぜいたくなジュースは、ラムネやサイダーの時代には合わず、売れ行きはふるわなかったという。
 1940年に初のウイスキーを発売。まもなく価格統制の時代になるが、余市工場は海軍の指定工場になって大麦の配給を受けたため、原酒貯蔵量は着実に増えていった。
 戦後、カストリやバクダンといわれる危険な密造酒が横行した。その後も、原酒が1滴も入っていなくても3級ウイスキーとして売れた。マッサンは、税法で許される最高率まで原酒を入れ、他社が640ミリリットル330円だったのに対して500ミリリットル350円にした。値が高いため、他社との競争では不利だった。
 そんな話を竹鶴政孝は「ウイスキーと私」という本に記している。
 私は学生時代から、同じ値段を払うならばサントリーよりニッカを選んできた。貧乏学生に味の差がわかるわけではない。なぜか子どものころから「ニッカはまじめ」というイメージを持っていた。
 大酒飲みだった父の影響だろう。

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