MENU

フォッサムグナに栄えたヒスイの王国の巫女王

 出雲王国が広範囲に影響をおよぼしたことは神話がしめしている。出雲の神々が、朝鮮半島や能登半島に大きな綱をつけて土地を引っぱってきて島根半島をつくった(出雲国風土記)。さらに、八千矛の神(大国主命)が、「越(こし)の国」にかしこくて美しい姫がいるときいて現在の新潟まで600キロも遠征し、奴奈川姫(ぬなかわひめ)と結婚した(古事記)。

目次

奴奈川姫と掠奪結婚

糸魚川市の海沿いにたつ奴奈川姫像

 はるばる「越の国」まで嫁をもらいにきた大国主命に、地元の男神たちが反発する。そこで大国主命は「飛び比べをして私が負けたらあきらめる」と提案した。大国主命は牛に、地元神は馬にまたがり、駒ヶ岳の山頂から飛んで……大国主命が勝った。
 姫の屋敷にかけつけた大国主命は旅装もとかずに求婚した。姫は「今夜は会えません」と板戸を開けようとしないが、色っぽい歌で翌日の夜の再会を約した。
「私の真っ白な腕、沫雪のようにやわらかい胸を、その手で愛撫し、抱いていとおしみ、美しい手をさしかわし、足をゆったりと伸ばして、おやすみになってくださいませ」
 古事記を代表する愛のエピソードだ。

糸魚川市役所のわきにある天津神社・奴奈川神社

 大国主と奴奈川姫のあいだに生まれたのが御穂須々美命(みほすすみのみこと)で、その名から「美保」の地名ができた。御穂須々美命は建御名方(たけみなかた)神となり、「国譲り」の際、大和を代表する建御雷(たけみかづち)神との相撲に敗れて母のいる越の国に逃げ、姫川沿いに南に下り、諏訪にたどりついたところで降参した。大和勢力は「そこから一步も動くな」と言って引きあげていった。建御名方は諏訪大社の祭神になった。
 長距離恋愛でむすばれて、大国主命の正妻の須勢理(すせり)姫にやきもちをやかせたカップルだったが、幸せはつづかなかった。関係はこじれて姫は故郷に逃げ帰る。姫川の支流の根知谷に身をひそめたが、追っ手の放った火におそわれた、あるいは自害した、と伝えられている。

東西の水の味

 奴奈川姫伝説がつたわる新潟県西部の姫川は、日本列島の東西をわけるフォッサマグナ西端の糸魚川−静岡構造線に沿ってながれている。フォッサマグナは日本列島が大陸からはなれたときにできた東西の裂け目で、海底だった部分に土砂が堆積し、マグマが上昇して、富士山や八ヶ岳などの火山が誕生した。姫川周辺はヒスイ産地としても知られている。
 出雲とフォッサマグナとヒスイのつながりを知りたくて、2025年11月、糸魚川市をたずねた。

根知川の上流には雨飾山がそびえる

 糸魚川市街から姫川を6キロさかのぼった支流の根知川の谷は、大国主のもとからにげてきた奴奈川姫がかくれすんだ谷だ。その川の右岸の「フォッサマグナパーク」には、糸魚川−静岡構造線の断層が露出している。

 断層破砕帯を境として、東西の色が異なる。西側はユーラシアプレートで2億7000年前の地層であり、東側は北アメリカプレートで、海底の堆積層がもりあがった1600万年前の地層だ。

枕状溶岩

 構造線の断層は根知川の対岸につづき、まさにその断層の真上に渡辺酒造店の「豊穣蔵」がたつ。「男山」(北海道の「男山」とは異なる)という酒をつくっている。

 酒蔵にはいると、「どうぞ、東西の井戸の水を味わってください」と声をかけられた。
 断層の東の井戸と西の井戸の水だ。1600万年前の地層からわきでる東の水の味はわずかにとんがりがある。ミネラルが多いらしい。2億7000万年前の地層からにじむ西の水はやわらかい。硬水と軟水のちがいだろうか。西の水で酒造りをして東の水は生活用水につかっている。

この小川が東と西をわける「構造線」

 渡辺酒造店は明治時代の創業で、かつては敷地内の断層上を流れる小川の上流の水車で精米していた。30年前、阪神淡路大震災のころ、建物が構造線の真上にあることを指摘された。
「子どものころからよく崖が崩れるなぁとは思っていたけど、フォッサマグナを意識したことはなかったのでびっくりでした」
 おかみさんらしき女性が説明してくれた。今では「フォッサマグナ」を酒の宣伝に活用している。
 まさか酒蔵で、日本の東西の水の味の差を体感するとは思わなかった。
 しっかりした味という「山廃」を1本購入した。2000円。新潟の酒は水みたいで、ものたりないことが多いのだけど、この酒はのみやすいけど、酸味もかんじられておいしかった。(酒をのんだあと、10年前にも来店し、同様の説明をうけたことを思いだした)

縄文のヒスイ工房

 フォッサマグナと奴奈川(ヌナカワ)姫伝説はどんな関係があるのだろう。
 根知川と糸魚川市街のあいだの標高90メートルの河岸段丘にのぼり、縄文時代の長者ケ原遺跡と「フォッサマグナミュージアム」を見学した。

マイコミ平の竪穴洞窟の模型

 フォッサマグナは海底だったから石灰岩が多い。黒姫山(1222m)南部のカルスト地形が発達した「マイコミ平」には、日本一深い竪型洞穴(深さ513m)がある。旧能生町(現在は糸魚川市)の天然ガスは今も家庭にひかれて利用されている。プレートがぶつかり高圧がかかる場所にしかないヒスイがとれるのも、大地のエネルギーが集中するフォッサマグナならではだ。
 博物館には、ヒスイがごろごろならんでいる。

 ヒスイ原石は姫川支流の小滝川や、富山県境に近い青海川上流で見つかっている。そこから海に流れ、荒波で研磨された石を縄文人たちは河口や海岸でひろって、遺跡の「工房」にもってきて加工した。

青海川のヒスイ峡。いったいどれが原石だろう

 6500年前の縄文初期は、硬くて重いヒスイはハンマー(たたき石)としてつかわれた。6000年前の縄文前期に最古のヒスイの「玉」がみつかり、5000年前の中期には、長者ケ原遺跡や寺地遺跡の集落内にヒスイ工房がつくられた。
 これらの集落では、早期・前期は蛇紋岩の耳飾りや石斧などをつくっており、その技術をより硬いヒスイの加工に応用したとみられる。

工房の復元模型
男女の性器をあしらった縄文土器。縄文らしい自由さ

 長者ヶ原遺跡は、中央広場をかこうように住居や墓があった。住居跡は24軒見つかったが、300軒はあったと推測されている。ヒスイの原石や玉、砥石、ハンマーも出土した。
 縄文中期には、ヒスイの大きなペンダント「大珠」がつくられ、主に東の東北地方や北海道の礼文島までつたわった。3000年前の後期以降は、ヒスイや蛇紋岩などの緑色の石で、小型の丸玉や勾玉などがつくられた。弥生時代や古墳時代の「勾玉」は東ではなく西に伝わり沖縄までとどく。長者ヶ原遺跡の海側には、ヒスイの工房がある弥生時代や古墳時代の遺跡も見つかっている。まさに奴奈川姫の時代である。

石灰岩の採掘現場の上までのぼり姫がすんでいた福来ケ口鍾乳洞を訪ねようとしたが……
鍾乳洞の入口はみつからなかった

 郷土史家の土田孝雄によると、奴奈川姫は、邪馬台国の卑弥呼のように、ヒスイ王国の巫女王のような存在であり、大国主命の求婚は、ヒスイ王国を勢力下におき、ヒスイ加工技術を習得することも目的だった。事実、出雲王国の玉造では、花仙山のメノウで玉が製造されたが、その技法は糸魚川・西頸城地方の技術とおなじだという。

1200年ぶりの再発見

 ヒスイによる玉づくりは6世紀になると衰退し、奈良時代中期(8世紀)、東大寺法華堂(三月堂)の本尊、不空羂索観音立像のの宝冠を最後にヒスイは日本の歴史から姿を消す。
 原因は仏教伝来という。6世紀、仏教派の蘇我氏が、伝統的神々を重視する物部氏・中臣氏を政権から排除した。ヒスイの霊力を重んじる勢力は一気に衰退した。奈良時代、巨大寺院と仏像がたちならぶなか、ヒスイの霊力に目を向ける人はいなくなってしまった。
 その後1000年以上、日本にあるヒスイは大陸産であり「日本にはヒスイが産出しない」とされてきた。
 1935(昭和10)年(1938年という説も)、糸魚川でヒスイが再発見された。以後の研究の結果、縄文時代以降に日本で利用されたヒスイのほとんどすべてが糸魚川産であることが明らかになった。
 ヒスイを知らない地元の人たちは、その重さから漬物石にしたり、屋根の置き石にしていたが、「宝石」だとわかって大騒ぎになったという。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次