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さきたま古墳群と「のぼうの城」と足袋の町

 埼玉(さきたま)古墳群は小学生のときの夏休みに、家族ででかけた。
 田んぼのなかにあるまん丸の稲荷山古墳を、汗をかきかきのぼった。115の金文字がきざまれた鉄剣(金錯銘鉄剣)を展示する資料館には長蛇の列ができていた。

鉄剣のレプリカ

 大にぎわいの茶屋でトコロテンをたべてラムネをのんだ。
 父は店の人に七味をもってこさせて説教した。
「トコロテンにマスタードなんて毛唐みたいな食い方をするな!」
 これははずかしかった。
 あのにぎわいはどうなったのだろうか。

目次

円墳上に石田三成の本陣

 古墳群がどんな場所にあるのか確認したくて、高崎線吹上駅から約4キロの道をたどった。
 だだっ広い田畑を流れる元荒川をわたり、新幹線の高架と国道17号バイパスを地下歩道でくぐると、芝生のところどころに木々が生いしげる史跡公園があらわれた。
 東西450メートル、南北900メートルの範囲に8基の前方後円墳と1基の大型円墳がある。かつては40基以上あったという。5世紀後半から7世紀はじめまでの150年間に集中して築造された。

 最小の前方後円墳である愛宕山古墳から、赤白の曼珠沙華(ヒガンバナ)が咲きみだれる小道をたどり、高さ17㍍、直径105メートルという日本最大の円墳・丸墓山古墳にのぼる。

 頂上からは、北に榛名や赤城がそびえ、埼玉県唯一のタワー「行田タワー」や、復元された「忍城」も見わたせる。
 忍城は「のぼうの城」の舞台だ。
 豊臣秀吉の北条攻めの際、石田三成は丸墓山の上に陣をはり、延長28キロ(14キロ説も)の堤をつくり、忍城を水攻めにした。だが小さな城は、北条氏の拠点・小田原城が落城するまでもちこたえた。

40年前のにぎわいの理由

 古墳群の主役は「稲荷山古墳」だ。
 私の記憶ではだったが、目の前の草の古墳はまぎれもない前方後円墳だ。実は前方部は1937年に土取り工事で失われ、私がのぼった時は円墳になっていた。前方部は2004年に復元された。

前方部から後円部を望む

 後円部の頂上から鉄剣は出土した。471年に制作され、全長73.5センチの剣の表面に「ワカタケル大王(雄略天皇)」の名など115の金文字がきざまれていたことで「100年に1度の発見」と大騒ぎになった。
 鉄剣が発見されたことで、熊本の江田船遺跡の鉄剣にもワカタケルの名があることがわかり、大和王朝の勢力が広範囲にひろがっていたことがわかった。
 鉄剣発見が1978年、まさにその年に小学6年の私はたずねていた。博物館には稲荷山古墳に列をなしてのぼる観光客の写真がある。
 そうそう、こんな風景だった! ようやく40年前のにぎわいの謎がとけた。 

遺跡は進化しなければならない

 初期の古墳は竪穴式の石室だったが、将軍山古墳は朝鮮から伝えられた横穴式を採用し、何人もの遺体をおさめられた。1894年の発掘で多くの遺物が出土した。1997年には全国で唯一古墳内部を見学できる「将軍山古墳展示館」が開館した。古墳内部の展示施設には、遺体や副葬品の配置が復元されている。石室の壁石は120キロはなれた千葉県富津市でとれた房州石だという。
 古墳群は40年余で大きく進化していた。2020年には埼玉県初の特別史跡となった。遺跡は古いものをのこすだけではなく、進化しつづけなければならないのだ。

庚申塔と傘のアート

 3キロ北西の忍城に足をのばすことにする。
 20分ほど歩いた妙音寺に庚申塔があるときいてたちよった。

これは不動像? 庚申塔? 足元は猿に見えなくもないけど

 アゴを突き出したような像は青面金剛か不動明王と思われるが、足元の猿ははっきりわからない。でもその裏側に、3匹の猿を下部にあしらった碑がある。こちらは寛永年間の庚申塔らしい。庚申塔や道祖神にはなぜか心がひかれる。

 さらに20分ほど歩いた「佐間天神社」は菅原道真をまつる。忍城の南出口にあたる地に創建され、豊臣とのたたかいでは、佐間口をまもった正木丹波守利英が奮戦したと伝えられている。
 ケヤキの巨木がさわやかな境内を抜けて裏の小道をたどると水城公園。それを抜けるとSLのC57があり、さらに、ビニール傘をアーケードの天井のようにかざった小道がある。「アンブレラスカイ」というイベントらしい。梅雨時でも歩くのが楽しくなりそうだ。

日本一の足袋の町

 復元された忍城は「郷土博物館」になっている。
 忍城の築城と、石田三成による水攻めの展示は楽しい。
 室町時代を中心にで各地にたてられた「板碑」も興味深い。行田では1236から1571年までたてられた。宮城県の松島で見た板碑を思いだした。【https://note.com/fujiiman/n/nc18b60e9d518】
 江戸時代の忍藩の城下町の様子や近現代史など、地元の人向けの展示も充実している。
 もっとも興味をそそられたのは足袋についての展示だ。
 行田の足袋生産の最初の記録は1684年だから、1700年代には本格的に生産がはじまっている。昔は動物の皮革の足袋だったが布製の足袋が考案された。江戸時代に木綿布が広まり、足袋もまた木綿になった。明暦の大火(1657年)以降、革製足袋の価格が高騰したことも木綿足袋の追い風になったという。
 現在のこばせ形式は明治中頃以降で、それまでは足首を紐をむすぶかたちだった。
 農家の副業だったのが産業化して、明治の中頃にミシンが導入されて飛躍する。ピーク時は行田だけで200軒以上の足袋屋があり、1938(昭和13)年には全国の足袋の80%を産出した。有名力士の足袋は大きくてみごたえがある。
 私の愛用しているジョギング用の足袋MUTEKIをつくる「きねや足袋」も行田の会社だった。

ギャラリーになっている足袋蔵

 「足袋蔵のまち行田」は日本遺産になっている。博物館で案内マップをもらって散策した。

石蔵

 足袋蔵は江戸時代後期からたてられ、壁面に多くの柱をたてて中央の柱を減らし、床を高くして床下の通気性を高めている。明治30年代までは和風の土蔵だが、その後は洋風建築が導入され、石蔵もたてられた。大正時代には鉄骨煉瓦造、昭和にはいると鉄筋コンクリート造、モルタル造、木造も誕生する。昭和30年代前半まで蔵の建設はつづいた。

土蔵

 まちを歩くと、壊れかけた蔵が多く、多くの観光客をよべるほどは整備されていない。
 でも、忍城の歴史と、武将や庶民の履き物の変遷、アウトドアでの活用などを関連づけて紹介したらおもしろそう。ポテンシャルは大きい。機会があれば「きねや」の話も聞いてみたいものだ。

 秩父鉄道の行田市駅へ。駅前に「熟女Club」という巨大な看板があって笑った。秩父鉄道は遅くて高いから、バスで吹上駅にもどった。

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