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草津楽泉園・重監房へ 八ッ場ダム20200929

 さいたま市から前橋で関越道を下りて、しばらく走った道の駅「くらぶち小栗の里」で休憩したら、道祖神がいくつも展示されている。平成の合併前まで独立村だった倉渕村は双体道祖神が多いという。埼玉北部や群馬にこの形の道祖神が多いらしい。たしか山梨では男根型が多かったのではなかろうか。丸石信仰も道祖神の一種だと聞いたことがある。

 谷あいの道を走っていたら「国定忠治処刑場跡」という案内板があった。「赤城の山も…」の国定忠治は、どこかで捕縛され、この場所につれてこられて、関所破りの罪で磔になったという。関所破りは殺人以上に重い罪だったようだ。享年41歳。女優の竹内結子がつい先日自殺して40歳だったことが悲しかったけど、それと変わらなかったのか。場所は大戸宿の入口で、関所のあった場所だ。宿場のはずれはどこか寂しくすさんだ雰囲気が今も残っている。

 しばらく走ると八ッ場ダムのダム湖があらわれた。
 谷底にあった川原湯温泉は、川の流れにつかれて情緒抜群だったが、湖底に没してしまった。谷底から移築された真新しい旅館が国道沿いに点在し、ちょっとした住宅地になっている。鉄道も付け替えられてモダンな駅がつくられた。でも、こんな場所に泊まりたいとは思えない。
 ダム湖の上流の道の駅には旧民主党の前原の発言が皮肉っぽく紹介されている。ダム計画の一時中断がよほど腹に据えかねたのだろう。しかも前原はその後「建設」に舵を切ったからたちが悪い。「前原ダム」として記憶に残る場所になってしまった。

 ダムの完成は今年(令和2年)3月。ダムから下流を眺めると、昔の線路跡が見える。奇岩が林立する渓谷の景勝地だったのだ。

 草津温泉を抜けて、楽泉園へ。
 高原の広々とした林のなかを2キロほど走った場所にある。白い平屋建ての家々がならび、目が見えない人のためのメロディーがそこかしこに流れている。目が不自由でも体が不自由でも暮らしやすいように工夫されている。療養所を福祉のモデル村にできないか、という企画があったと以前に聞いたことがあった。

 きょうの目的地「重監房資料館」は療養所の敷地内にある。無料でさまざまな資料や冊子をくれた。
 まず映像を2つ見せられる。
 1932年に全国2番目の療養所として楽泉園が開設された。かつては1000人住んでいたが、2014年現在103人で平均年齢は84歳になった。
 明治時代、草津の湯之沢に温泉療法をする患者たちが定住し「自由療養村」が形成された。ところが1907年に「癩予防の件」、1931年に癩予防法ができて隔離の対象となり、自由療養村の人々を収容するために楽泉園がつくられた。
 全国の療養所の所長には懲戒検束権が認められ、「監禁室」がつくられた。患者が待遇改善を求める運動を展開し、1936年には長島で、ハンストと作業拒否をして施設幹部辞任と自治を要求する「長島事件」が起きた。それをきっかけに「特別病室」がつくられることになった。それが重監房だった。1939年から47年にかけて全国の療養所の「問題患者」93人が送り込まれ23人が死亡した。
 重監房は高さ4メートル超の壁に囲まれ、門衛のいる扉を含めて四重の扉で外界とへだてられた。南京錠で施錠された四畳半程度の部屋は、縦15センチ、横75センチの小さな明かり取りの窓があるだけで昼でも薄暗い。そこに最大549日、14人が200日超収容された。
 標高千メートルの高原だから冬はマイナス20度になる。布団が凍って床に張りつき、凍死した遺体を収容するのも昼を待たなければならないほどだった。遺体収容などは楽泉園の人たちの仕事だった。「生きているうちに凍っちゃうんだもの、むごい話だよ」という証言が残されている。
 ひとりひとりの「収監理由」を読むと「本妙寺部落員」というのが何人もいる。熊本のムラで強制収容された人々だ。「園内不穏分子」とされた人のなかには「友人に園内改革の必要ありとの手紙が発見された」ことが理由とされた人も。「夫の拘束に抗議したため収監」もあった。盗品の自転車を古物商から知らずに買ったというだけで収監された人もいた。療養所の劣悪な待遇に抗議するため洗濯の作業をさぼった患者が「草津(重監房)送り」になったこともあった。

 重監房を「日本のアウシュビッツ」と書いている資料があった。
 日本軍のアジアでの蛮行は「野蛮」だった。アウシュビッツは最高の知性がきわめて合理的にシステムをつくりあげた。重監房は旧日本軍の蛮行よりもアウシュビッツに近い。
 全国の療養所で「問題患者」に手を焼いた所長たち(医者)が組織的に四重の壁に囲まれた「特別病室」をつくり、超法規的な権力をふるって、反抗的な患者を収監した。収監者の4分の1は殺された。そのシステムをつくったのは当時最高のインテリでもあった医師たちだった。
 最高のインテリたちが合理的につくりあげた重監房はナチス的なおそろしさを感じる。それを主導したなかに神谷美恵子が「慈父のような人」と慕った光田医師がいた。光田医師はジキルとハイドのような二重人格者だったのだろうか。
 でもそんな強圧的なシステムのなかでも、患者たちは環境の改善を求めて抵抗した。そして戦後、日本国憲法のもとでその運動が少しずつ認められていった。
 資料館見学後、森の中にある重監房跡地を訪ねた。楽泉園の住宅のならぶ場所から数百メートル離れた森のくぼ地に隠れるような場所にあった。

草津温泉湯畑
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