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大井川2025㊤「越すに越されぬ」架橋・渡船の禁止は軍事目的?

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
 橋もなく渡し船もない大井川は旧東海道の最大の難所とされていた。大井川のなにがどう難所だったのか、そもそもなぜ「徒渉し(かちわたし)」が明治になるまでつづいたのか。たしかめたくて「大井川川越遺跡」(島田市)を訪ねた。
(歴史や制度についての記述は島田市博物館の展示や「大井川に橋がなかった理由」(松村博)を参照した)

目次

川越しの料金は新幹線なみ

 「大井川川越遺跡」の東海道沿いには、旅人が川をわたるための「川札」を買った川会所や、川越し人足が待機していた番宿、川札を換金した札場などが復元されている。

 外国人がえがいた絵に登場する川越し人足は、全身に入れ墨を彫っている。江戸時代は海民をはじめ入れ墨はめずらしくなかった。川越し人足は海民の系統なのかヤクザの系統なのか……。
 初期の川越しは、近隣の人たちが旅人に相対で料金をふっかけていた。だが1680年に就任した5代将軍綱吉が中央集権化をすすめるなか、1682年に道中奉行が安倍川と大井川にたいして「川越し人足が相対で渡賃を決めないように」などとする高札を下付した。これによって、川札という切符を売る制度ができ、川役人を常駐させて監視させるようになった。
 川越しの料金は、水嵩によってきめられた。事故の際に救助に駆けつける人員が下流側に配置された。
 貧しい旅人には無賃の「棒渡し」もあった。4、5人を長い杉丸太にすがりつかせて、両側を2人の侍川越がささえてわたした。
 水深が4尺5寸(1.36メートル)になると「川留め」となった。長い川留めのあと、とくに参勤交代の大名が複数到着すると大混雑になった。
 渡し賃は、遺跡のわきの島田市博物館の展示がわかりやすい。
 肩車だと1440円(48文)から3000円(100文)(1文30円で計算)だからタクシーなみだ。連台だと9630(321文)〜16920円(564文)。たった1キロなのに新幹線なみの値段だ。
「東海道中膝栗毛」の弥次喜多は公定価格の480文で2人乗りの連台に乗った。1人240文という額は、中級の旅籠に2食付きで1泊できる値段だった。大井川の川越し料金は、東海道筋のほかの川の船渡しの10倍以上だった。

 左岸の島田宿と右岸の金谷宿にいた川越し人足は江戸後期になると700人、幕末には1300人を超える。家族をふくめると3000〜4000人が川越しによって生計をたてていた。当時としては最大規模の企業体だったのだ。

架橋禁止は防衛のため?

 大井川に架橋や渡船をみとめなかったのは江戸防衛のため……とは教科書にものっている。その証拠として1626年の「事件」があげられている。

 新旧将軍の家光と秀忠が上洛した際、家光の弟の駿河大納言・忠長が大井川に浮橋を架けた。「大井川は街道の難所であり、関所と同様である。東照宮も言ったとおり、ここに橋を架けることは、世間の人に簡単に渡れることを知らしめることになる」と秀忠はただちに浮橋を破却させた。この事件は、のちに忠長が改易になる一因になった。

 でも270年間も「防衛」を理由に、生活や行政システムに不便を強いるものだろうか? そんな疑問に「大井川に橋がなかった理由」がこたえてくれた。
 大井川は流量変動が激しく、晴天がつづくと1000メートルを越える川幅に幾筋かの細い流れしかなるから、船渡しより徒渉し(かちわたし)が合理的だった。

 架橋は技術的・経済的な壁があった。
 豊川の吉田橋の上部を1681年に大規模補修した際3000両かかった。下部のほうが高額だから、全架けかえ費用は少なくとも1万両になる。大井川に同程度の橋を架けたとすると6~7万両だ。1883(明治16)年に完成した大井川の木橋は長さ1255メートル総工費3万5000円。江戸中期の価格に換算すると4000~5000両で簡易な橋だった。だが1896(明治29)年の洪水でこわれると再建は断念された。再架橋は1928(昭和5)年をまたなければならなかった。
 江戸の東西を結ぶ隅田川の橋の利用者は、1橋あたり1日数万人。それに比べて東海道の渡河点の利用者は、六郷渡しの1日2000~3000人が最大で、大井川では数百人だった。費用対効果を考えても橋を架ける意味は低かった。

幕府とともに崩壊する大産業

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渡しがあった大井川河川敷=2025年

 大井川は渡船だけでなく上下流をむすぶ通船も禁じられていた。
 上流の農民は牛馬より効率的な水運をもとめたが、そのたびに島田宿と金谷宿が反対した。
 幕府御用の人や荷物を円滑にとおすため、川越し組織にお墨付きをあたえ、割高な料金を設定した。そのため組織は巨大化し、3000〜4000人が川越しの利益で生活するようになった。合理的な渡河手段の提案があっても、巨大化した組織の権益保護が優先された。
 だが「徒渉し」は明治維新とともに崩壊する。
 江戸にむかう新政府の東征軍は大井川への架橋を命じた。川役人らは反対したが一蹴され、仮橋を架けた。その後も天皇が通行するたびに架けられた。
 1870(明治3)年、大井川上流の村々から「大井川通船に関する願書」が提出された。島田・金谷の両宿は反対したが大井川を上下する舟運が実現する。同時に渡船ももうけられる。
 大井川などの徒渉し(かちわたし)は渡船の開業によって崩壊した。大量リストラされた川越し人足たちは農業に転じる。牧ノ原台地に入植した旧幕臣らとともに、彼らが「茶どころ静岡」の基礎をきずくことになった。

上流は「桶渡し」

このあたりに水井の渡しがあった

 大井川は渡船が禁じられていたが、上流部の身成村(島田市川根町)〜家山村(同)や地名(じな)(川根本町)、久野脇(同)、水川(同)には「盥(たらい)越し」があった。
 この近辺は戦国時代、武田と徳川の勢力が拮抗しており、水川の渡しでは一方から馬が、他方から鉄砲がはこばれた。戦略上も、駿府と浜松の裏街道としても重要な渡しだった。甲斐武田の穴山信君(梅雪)は「水川の渡しはもうかる」としるしたという。

「フォーレなかかわね茶茗舘」の郷土資料館の模型

 桶は、大きなもので直径8尺(2.4メートル)、小さなもので5尺(1.5メートル)、深さ3尺(1メートル)で、上下に2本ずつの横棒が藤蔓で縛りつけられていた。下の横棒は桶が回転するのをふせぎ、上の棒は乗客がにぎった。大きな桶には10人、小さい桶には5人ほどが乗れ、1人の船頭があやつった。
「大井川には原則として渡船も通船も許可されていなかったから、沿岸の農民が日用品のたらいで自ら渡るのなら問題ないとの判断で使われるようになったのであろう」と「大井川に橋がなかった理由」はしるしている。
 道の駅「フォーレなかかわね茶茗舘」の郷土資料館には桶舟の模型が展示されている。(つづく)

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