MENU

小浜の花街の消滅と八百比丘尼の悲しみ

 福井県小浜市は小京都とよばれ、べんがら格子の家が軒をつらねる「小浜西組」は重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
 2014年に能登から自転車でおとずれてはじめて散策した際、色とりどりの「身代わり申(さる)」に目をひかれた。(飛騨高山の「さるぼぼ」とそっくりだが、起源は異なる)

目次

カラフルな身代わり申

 初代小浜藩主酒井忠勝の重臣の奥方が、子供が申年生まれのため1649年に青面金剛像をまつる庚申堂を建立した。1972年、老朽化した庚申堂は、香取区・飛鳥区の「集会所」という名目で補助金を活用して再建された。

 以来、庚申の日に例祭をもよおすようになり、7月の庚申堂大祭では名物のこんにゃくが売りだされ、「北を向いて無言で食べれば、今夜苦(コンニャク)から解放される」とされている。身代わり申は、青面金剛の使いである猿をかたどった魔除けのお守りだ。2012年の庚申堂再建40周年を記念して、5種類の猿を紐でつらねて各家の軒先に吊るすようになったという。

 あちこちにまつられているカラフルな「化粧地蔵」も小浜独特だ。毎年8月の地蔵盆に子どもが化粧をほどこしている。郊外の西津地区ではさらに多くの化粧地蔵があるという。
 2014年には、かつて花街だった「三丁町」の歴史を大田麗子さん(当時85歳)からうかがった。大田さんは上品な京言葉でかたってくれた。

借りられる額は娘の器量次第

 三丁町のお茶屋にそだった大田さんは子どものころ、学校から帰ると稽古場に行き、芸妓の卵の子とともに三味線や踊りをならった。
 農村から5、6歳であずけられた女の子たちは12、3歳で舞妓に、16、7歳で芸妓になる。芸妓になると、その子の親は茶屋から借金ができた。
「この子は頭もええし芸もできるし、顔もええし姿もええ。なにもかもそろってるさかい、3年の年期で何百円をかしましょう」
「この子やったらこんだけのお金をかしてほしいなら5年は辛抱してもらわんとあかんな」
「この子は頭も顔も悪いし、娼妓さんにまわすよりしゃあないなあ。お金貸してほしければ娼妓さんにしなはれ」
 そんなやりとりがかわされていた。

黒潮の海にしずんだ女スパイ

 三丁町は従来、芸妓のお茶屋と娼妓のお茶屋とがわかれていたが、戦争が終わり、外地から若者が引きあげてくると、娼妓のいる店がはやった。大田さんの店は「一見さんお断り」で芸妓専門だったが、「娼妓さんをおかなこれからはやってかれへん」と母を説得して娼妓の部屋をこしらえた。
 ふつう娼妓は「1時間いくら」という料金だったが、大田さんの店は「お泊まり」もできた。客が「ただいま」と帰ってきて、なじみの娼妓の部屋で食事をする。朝ごはんは「うちとこのお茶漬けを食べておいきやす」。勤め人には大田さんが弁当こしらえて「いっておいでやす」とおくりだした。
 1953年ごろ、「お金がいるんではたらかせてほしい」とやって来た30歳前後の女性は、夏も長袖で、足は絶対にみせなかった。腕と太股にグシャグシャにただれたような跡があった。
「スパイをしていて支那でつかまって、いすに長いことしばられて、蛆虫がわいて、こないなったんです」とうちあけた。
「好きな男さんが船を買ったんだけど難破して借金がのこってしまった。お金は返さんなんし、借金がないようになったら、ふたりでなんとしようと思ってます」
「なんとかしようって、どないすんのや?」
「黒潮の渦で絶対に死体のあがらん海を知っています。そこで死んだらなんもあがらんのです」
「アホなこと言いなはんな」と大田さんはながした。
 女性は聞いたことのない外国語を話し、頭の回転がはやいから、寝るためではなく、話をきくためにかよう社長もいた。
 2年ほどして店への借金を完済すると女性は消えた。部屋にはきれいにたたんだ着物があった。
 しばらくして警察官がやってきた。

「こんな人、あんたんとこにおらなんだか?」

「へぇ、おりました」

「紀伊半島の太平洋で男と2人でボートを借りて遊びにでたまま帰ってこない。ボートだけうかんでたが死体が見つからん」

 死体のあがらない海で沈んだのだ。
「自分はいろいろな男さんに身売りしたし、男さんにとっては愛した人がそないして自分のためにお金を稼いだ。2人で死にたかったけど。人に迷惑をかけたままでは死ねなかったんどす」

罪をかぶった戸籍のない娘

 マタギの両親と山でそだち、戸籍がない20代の女性もいた。
 ある日、近所の金貸しの老婆が殺された。
「私が殺しました」と女性が出頭した。
 大田さんがいぶかしんでいたら、「私は戸籍もなんもない女やさかい、家族ももてへん。私がしたことにしたらええ」と、なじみ客の罪をかぶっていたことがわかった。
「昔気質で情の厚い子たちどした」
 大田さんはふりかえった。

 キャバレーやコンパニオンに押され、小浜料亭事業協同組合の料亭は2002年には3軒になった。組合は2008年に解散し、私が取材した前年の2013年には大田さんも店を閉じた。
 大田さんは三味線や謡曲を芸妓に教えてきた。髪を今も上品にそろえ、部屋に香をたやさない。
「旦那さんが芸妓に店をもたせることでつづいてきた三丁町はないなりました。いろいろさせてもろて、ええ人生どした」

八百比丘尼の悲しみ

 2026年2月、八百比丘尼伝説の舞台を見たくて12年ぶりに小浜の街を歩いた。

 飛鳥時代、若狭の長者が、人魚の肉を家にもちかえり、娘がその肉をたべてしまった。娘はやがて結婚するが、30年たっても50年たっても美しいまま、老いない。夫も子も死に、何度嫁いでも大切な人が先だってしまう。
 出家して旅にでて、道や橋をつくり、病人をたすけ、椿を植えながら諸国をめぐって、室町時代に故郷の若狭にもどり、後瀬山の麓の草庵で暮らした。800歳になった日に洞窟にはいって、その後、彼女の姿を見る者はいなかった。

 八百比丘尼伝説は全国でさまざまなバリエーションがあるが、これは小浜で聞いたストーリーだ。

 海岸道路沿いに八百比丘尼伝説にちなんだ「マーメイドテラス」があり、古い町並みの奥の山のふもとに八幡神社が鎮座している。

 神社から西に3分ほど歩くと曹洞宗の空印寺だ。その境内に「八百比丘尼入定洞」が暗い口をあけていた。

 私は子どものころ死ぬのがこわくて「不老不死」にあこがれた。でも今は、長生きがかならずしも幸せとは思えない。乙女の姿のまま、夫も子も老いて死に、何度嫁いでも大切な人に先だたれる八百比丘尼の悲しみに、いったいなんの意味があるのだろう。

 空印寺から西へちょっと歩くと三丁町にはいる。べんがら格子の家々の軒先の「身代わり申」は、冬だからか12年前ほど多くない。

 まもなく「大田」という表札をかかげたお茶屋形式の家をみつけた。まだお元気だろうか? まよったが、呼び鈴は押さなかった。
 大田さんは三丁町とともに生き、時代の波に翻弄される女たちの悲しみによりそってきた。花街としての三丁町の臨終もみとどけた。
「旦那さんが芸妓に店をもたせることでつづいてきた三丁町はないなりました。いろいろさせてもろて、ええ人生どした」

 大田さんの言葉には、大切な人やまちを看取ってきた透明な悲しみが宿っている。
 それは、八百比丘尼の悲しみなのかもしれない。

【大田さんの詳細なインタビューは別稿】

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次