三丁町のいわれ

なんで三丁町かというと。ここがタカツグさん(初代小浜藩主・京極高次)になってまちをくぎりはったとき、勢の坂をおりてくる鉄橋のあたりに番所があったんですわ。丹後街道で旅人が往来しまっしゃろ。いろんなお店がならんでるもんで、ちょっと一服しにくいもんで、そのひとつ裏のこの通りでお茶のんだりしてはった。
そのあたりの猟師町、柳町、寺町の3町を遊郭にしようということで三丁町になった。お客さんが「いい子おるかな」とこっちの格子のぞいたり、玄関のぞいたりしてぶらぶら歩くと三丁歩く。それで三丁町になった、とも親から聞いてますけど。
私が生まれる前は48軒ならんどったんどす。遊郭とか置屋とかアゲヤとか言うてました。私が物心のついてからは36軒あって、芸妓が50人ちかくおりました。娼妓さんも40人ほどいはった。「仕込み」いうて、小学校すんで芸妓の修業してる子も20人ぐらいおりました。
娼妓さんしかおかんお茶屋と、芸妓さんしかおかんお茶屋とわかれてたんですわ。娼妓さんが旦那さんに家をもたしてもらって、遊郭組合にはいって商売しはじめた人は、娼妓さんしかおかへん。自分が三味線や踊りができしまへんやろ。芸妓しとった人のお茶屋は芸妓だけをおく。自分が教えられますやろ。そうやってだいたい別れてましたんどす。
小学4年終わると「仕込み」
小学校にあがる前、5つ6つではいってきたら、おかみさんを「お母さん」とよびました。着るものも食べるものも小学校にあげるのも、なにもかもおかみさんがだしました。
私の母のときは4年生まで学校にいかせました。「この子は勉強できるさかい6年までやらしてあげてんか」と先生が言いにきはったら、「うちは仕込んで芸妓にだそうと思ってるんで、4年生でやめさせてもらいます」と言うてました。
小さいころから見たり聞いたりしてまっさかい、体にしみこんでる。小学校すんでお師匠さんところに習いにいったら、あの曲やな、この歌のときは手踊りはこうやなって、すぐにおぼえていました。
12、3になったら舞妓になって、16、7で芸妓になります。
芸妓にでるときは、役員さんがみなならんで、三味線をポンとおいて「これでなになにをおひきやす」と言わはる。調子から合わせて弾いてうたう。
「はいよろし。今度はこの踊りを踊っておくれやす」
「へい。おどらしていただきます」
こんだけできたらよろしい、となってはじめて芸妓にでられました。芸妓になるのはむずかしおした。
借りられる額は娘の器量次第

うちらの組合は36軒ありました。この通りのお寺から4軒目の「若廣」(鯖ずしの店)のところが事務所になってて、書記さん2人とハッピを着た男衆(おとこし)さん3、4人が常駐してはる。
その裏のほうには、組合の香取病院があったんです。看護婦さんが毎日、娼妓さんを診療してました。お医者はんは週に1度きはって、あかんと(病気だと)入院させられるんですわ。入院すると、置屋がごはんはこんだり世話せんならん。
組合の2階は芸妓の稽古場どす。三味線、踊り、太鼓、小鼓、オオカワ(大鼓)、笛などの鳴り物。鳴り物はどれか好きなのをしたらよろしい。それに、お茶、お花、お裁縫を好きな人はお習いしなさい、と、組合がお金をだしてならわせてた。女ひととおりのことを身につけるようにさしてたんどす。
お座敷で、都々逸なりサノサ(さのさ節)なり歌わはりまっしゃろ。その返歌、お返しできるぐらいの頭がないと「あの子あかんなあ」と言われるんです。
家のために口減らしでくる子が多かったどすな。芸妓になれると親はお金を貸してもらえるんどす。
「この子は頭もええし、芸もできるし、顔もええし、姿もええし、なにもかもそろってるさかい、3年の年期で何百円をかしましょう」
「この子やったらこんだけのお金をかしてほしいなら5年は辛抱してもらわんとあかんな」
「この子は頭も悪いし、顔も悪いし、娼妓さんにまわすよりしゃあないなあ。お金貸してほしければ娼妓さんにしなはれ」
そうやってお金を貸す。その間、親方は、髪結い賃から着物代からみんなもちます。そのかわり、花代は親方の懐にはいる。芸妓や娼妓さんが自分の自由にできるお金はお客さんからもらうチップどす。お客さんも心得てはって「こんだけとっとけよ」とチップをシュッとだしたもんどす。
有名な旦那の後妻に
芸妓は教養あるさかい、ここらの有名な旦那さんが奥さん亡くすと芸妓さんやった子を後妻さんにもらうことが多した。商売人さんならお客さんと接するのが上手どっしゃろ。
年期明けになって、旦那さんに家をもたせてもらって、商売さしてもらう人もあれば、年期は明けてへんけど「この子を自分のものにしたいさかい」言うて「ひかす」ことで、自分1人のものにすることもありました。
「だんさん、今日いやすの?」とか言うんどすわな。旦那さんが来てはるときは、「お父さん来てはりますか」「だんさんおいでやす」とか言う。そうして旦那さんが芸妓を自分のものにしたいというときは、
「自分の座敷にかならずくす(こさせる)ようにしたい。なんぼだしたらいい?」と親方にきくんどす。ひかす(芸妓をやめさせてひきとる)んじゃなくて、お金を少しつんで、6カ月間はどこにいっとってもかならず、そのお客さんの座敷へあがらしてもらうんどす。
おもしろい話があってね、お茶屋さんに素人さんの娘さんがお嫁にきはったんどすわ。
「ちょっとあんた、どこそこ行って、あの子をよんできてんか。来てもらえるか返事もろてきて」とおかみさんに言われて、「へぇ」いうて走って行って「だれそれさん来てもらえますかぁ」て言うと、
「へぇ、お返事さしてもらいます」
返事をもらうため待っててもいっこうに何も言うてくれはらへんもんで、「あのぉ。どうどすのやろ」
「へぇ、お返事さしてもらいます」
じーっと待ってても返事がないから家に帰って、「おかあさん、あそこのオカミさん、お返事しますいうのに、ちっともお返事あらしまへん」
「あんたな、お返事しますいうことは、あきまへんということや。お断りの言葉なんやで」
来てもらえるときは「へぇおおきに、あげさせてもらいます」と言うんどす。
芸妓は若い子は高島田、年いってくると、低くなって、年季明けになって19,20歳になると、島田を少し下げた島田になります。髪で年齢がわかるんどす。

芸をきわめる
私は謡曲も詩吟も。京都の観世会館にも何度もでましたし、踊りやら三味線やらもおかげさまで、東京の国立の大劇場や大阪の文楽劇場の舞台も踏ませてもらいました。大阪はあっちやらこっちやら行きました。満71歳のとき先生に言われて大阪の松竹座で最後の舞台をふみました。
主人が入退院をくりかえしていたもんで。それ以後は稽古もいけしまへんやろ。「これでかんにんしておくれやす」って。それから大きな舞台はいかんようにしたんですけど、芸妓に検番(けんば)で三味線や踊りを手ほどきしたりしてました。
小浜の歌で「(梅田)雲浜先生の歌」いうのがあって、小浜公園の上に雲浜先生の碑と銅像がありました。戦争中の供出でとられてしまったんどすけど。それが建ったとき「梅の香り」という歌ができたんどす。踊りの前に「妻は病床に伏し~」という詩吟をうとうたとき、お客さんから「この詩吟は何流ですか」と言われたんどす。そやけど、代々受け継いできただけで、何流かわからしまへん。こらしっかりしたものにせんと、と思って、前の村上(利夫)市長さんが穂水流の師範どしたから、「芸妓に教えてください」言うて、検番にきてもろうて、芸妓やお茶屋のおかみさんに詩吟を教えてもらいました。おかみさんはだんだんやめて最後のこったんは5、6人。一番最後に私が残って、試験をうけて、大師範になったんどすけど。
踊りやら三味線は小さいころから知ってまっしゃろ。でも京都まで行って家元さんにならって師範にさせてもったんどす。
裁縫学校、結婚、お茶屋をつぐ
小学校のとき、芸妓が稽古してまっしゃろ。小さいころから見たり聞いたりしてるから、「あんたそこちがうで」と言うんです。
「ちがわへんやろ。ちがうなら弾いてみい」
「私はなろうてへんさかい、どう弾いたらよいかわからんけど、まちごうてることはわかる」って。
学校すむと、ランドセルそこらにほって着物に着替えてね、稽古場に走っていった。ここらの置屋の、仕込みの子やらが、芸妓さんの稽古が終わってから稽古しはりまっしゃろ。稽古見たり、自分でもなろうたりして、遊び場みたいどした。
私はお裁縫なろうとったんどすけど、洋服の社会になるさかい、洋裁ならいたいって、女学校すんでから西舞鶴の洋裁学校にかよっていたんどす。先生のいう型紙をこしらえて縫うだけで、自分で好きな服の型紙をしたいけど、教えてくれはらへん。調べたら京都に藤川洋裁学院いうのがありましてね。そこへやらしてくれとたのんで、京都に下宿して洋裁ならったんどす。
夏休みに小浜に帰ってきたら、なんや知らん男さんがうちとこの離れにちょんといはるんどす。なんやと思ったら、「おまえの旦那や。洋裁学校もええかげんにやめぇ」って言われた。「もうちょっとやらして」言うて、1年たつかたたんうちに帰ってきて結婚したんどす。昭和23年、20歳の時どした。
主人は農協の小浜支所につとめてましたんで、私も会社員の奥さんになるんや思うてね。2人だけでおりましたんや。
でも月給は上がらしまへんけど、物価はだんだん上がってきますやろ。それで、ここらの水商売の人がキレをもってきて、私がデザインして服を縫うてあげると喜んで。なんぼでも仕事がありました。
縫い子さんを2人雇って縫うてたんですけど、だんだん世の中がかわって、自分でキレを買わんなんようになりました。キレ買うには資本がいりまっしゃろ。主人の月給では、子どもも生まれてお金の余裕もない。よお考えたら、主人の月給1カ月分がうちとこの(お茶屋の)1日の売り上げやった。目の前にもうけの道があるのに、この商売を継がんとあかんと思いました。3人目の子を26歳で産んだもんで、その時に、私が継ぐ!って決心しました。それからずっとやってきたんどす。

組合をたてなおし
30歳のとき、組合の役員になってくれと言われてなったんどす。組合長さんが死なはって、副組合長さんが女の人どした。前の組合長さんが、書記さんと一緒にお金をごじゃごじゃにしていた。副が組合長になったけどわけがわからなくて、病院の診断書を私に突きつけて、あんたなら計算ぐらいできるやろ、と、押しつけられました。それで組合をたてなおしたんどす。それから何十年、組合解散する80歳まで組合長をつづけました。
復員兵向けに娼妓もはじめる
戦争中、出征するときは、これが最後って、舞鶴の士官さんが遊びにきはりました。水兵さんが遊ぶのは舞鶴どした。士官さんにはかならず下士官がついてきはる。士官の人が遊ばはるあいだ、手のあいてる芸妓や仲居さんらと下で花合わせしたり遊びごとをして時間をついやしてました。
私が商売しはじめたときは戦争に負けて、外地から男さんが帰ってきはりましたやろ。その時分は男さんの遊ぶところは遊郭しかなかったんどす。ちっとでも安上がりで、女の人といっしょになれるほうがよろしまっしゃろ。娼妓さんがいるようなところに行きました。
うちは芸妓しかおいてなかったけど、娼妓さんのほうが現金はいりまっしゃろ。「娼妓さんおかなこれからやってかれへん」と母を説得して、娼妓さんを寝さす部屋をこしらえたんどす。
芸妓さん遊びいうと、年に2回、12月とお盆しか払わんでもよかったんです。おもしろい話でね。ごひいきのお客さんが2人で競争しよういうて。巻紙に筆で何月何日、お酒がなんぼ、芸妓の花代なんぼって書きまっしゃろ。巻紙にずーっと書いたんどす。一番上の階段のところから下へおろして、どっちのほうが長いって、そんな遊びをして喜んではった。「よぉ遊んだやろ」って。
娼妓さんは、その場でお金を払わんならんほうが多した。ふつう娼妓さんは「1時間なんぼ」どしたけど、うちとこはお泊まりというのがあって、12時からと2時から泊まれたんです。「この子を12時にあけといて」と言われて、12時から朝7時まで泊まれました。
お泊まりやと思うと、「ただいま」言うて帰ってきはりますわな。「へぇおかえり」言うて。「どっかから晩ご飯とってや」と、なじみの娼妓さんの部屋で食事して、朝ごはんは、「うちとこのお茶漬けを食べておいきやす」。私がお弁当こしらえてあげて「いっておいでやす」とおつとめの人にもたせてあげてね。おなじみさんが来てくれて、娼妓さんの借金がないようになったらお嫁さんにしはるというのもありました。
芸妓は一見さんお断りで、わかった人しかお座敷にあがってもらわしまへん。娼妓さんやったら「お金はありますか」と確認して、「これやったら1時間遊んでもらえますな」となる。
1時間たつと「お迎えどっせ」。もうちょっと長いことおりたいときは、また1時間たつと「お迎えどっせ」と言うんです。
私とこにいた芸妓や娼妓さんでも、まだ生きてる人がありましてな。お嫁さんになって、よそにいかはった人もね。言わしまへんけど。芸妓やった人はええとこにちゃんといってますな。
地区外にでられぬ娼妓
終戦後、昭和33年までは、芸妓や娼妓さんがたんとおりました。
ここの突き当たりから、大原区には生活用品、お茶、米、魚屋、八百屋、大工、指物屋、髪結いさんがみなあった。娼妓さんはそこまではでられた。こっち側は、今は海辺の道になってたけど、この道もはいれしまへんでした。細い道をはいるようになっていた。娼妓さんはでられん。そこを出てしばらく行ったところに小さな川に橋がかかっていて、そこまででられた。娼妓さんも芸妓も送りだすときはそこまで行って「おおきに、さよなら、また来ておくれやっしゃい」って言いました。だからその橋を「さいなら橋」というんどす。娼妓さんはそこまでしかでられませんでした。
番所には、番してはる人がおって、逃げだす人を見張っていたんです。そこから娼妓さんがでたらあかんのです。

黒潮の海に消えた元女スパイ
スパイみたいな、陸軍中野学校にはいっていた女の人がおりましてね。「お金がいるんで、働かしてほしい」って昭和28年ごろに来ました。わけのわからん外国語をよお知ってました。
夏も長袖で、足は絶対にみせしまへん。ただふっと見たら、腕と太股にただれたようなものがある。グシャグシャになったような跡があるんです。
どうしたんや? って聞いたら、
「スパイをしていて支那でつかまえられて、いすに長いことしばられておったんや。蛆虫がわいて、こないなったんや」と言うてね。「好きな男さんができて、その男さんが船を買ったんだけど難破して借金だけがのこってしまった。お金は返さんなんし、借金がないようになったら、ふたりでなんとしようと思ってます」って言いよりました。
「なんとかしようってどないすんのや」って聞いたら、
「私は絶対に死体のあがらん海を知っている。そこで死んだらなんもあがらんし」と言うから、「アホなこと言いなはんな」と言いました。
2年ほどして、うちとこの借金もきれいにすんで、ちょっと余裕ができたとき、朝起きて部屋を見たらおらしまへんやんか。きれいに片づけて、貸してた着物もきれいにたたんではる。あれ、どこ行ったんやろ。おらへんな。男さんのとこでも行ったんかなあと思った。
そしたらあるとき警察から「こんな人、あんたんとこにおらなんだか?」って。
「へぇおりました」
「死体はあがらんのやけど、紀伊半島の太平洋のほうで男と2人でボートを借りて遊びにでたまま帰ってこない。ボートだけ浮かんでたが、海にはまったはずだけど死体が見つからん」
やっぱり、死体のあがらんところに沈んだんや。黒潮の渦のなんやで、そこは絶対死体があがらんとこやって言うてました。自分はいろいろな男さんに身売りしたし、男さんも愛した人がそないして自分のためにお金を稼いでくれた。それで2人で死なはってんな。私ぐらいの年やったから30歳そこそこどした。
頭のいい子やから、小浜の社長さんなんかは、寝るんやのおて、その子を座敷に呼んでいろいろ話を聞いてはりましたで。
戸籍がないマタギの娘
終戦後に来て、「芸なにできる?」ときいたら「ダンスだったらできる。大連におった」という子もおりました。座敷で歌にあわせて社交ダンスして「あの子に社交ダンス教えてもらお」ってレコードならしてね。
戸籍のないミサオという子もおりました。マタギの夫婦の子どした。山をわたり歩いていて母親が死んで父親だけになって、子づれであちこちいかれんもんで、売りにだされたんです。流れ流れてうちとこに来ました。
公園のいま喫茶店ができたあたりに、おばあさんがお菓子やらを売りながら、お金を貸したりもしてはった。そのおばあさんが殺されたんどす。そしたらうちとこのミサオが「私が殺しました」って自首したんどす。
ミサちゃんがお金を借りることもないのに、おかしいなと思っていた。じつはミサオをひいきにしてはった男さんが、ミサオに花代をだすためにお金を借りに行って口論になっておばあさんを殺していたんです。「あんたはこれからやし、私は戸籍もなんもない女やさかい、私がしたことにしたらええ」ってミサオが自首しはった。
福井の刑務所に面会に行って「和歌山の女ばかりの刑務所にうつされる」と言うてました。それからどうなったか知りません。昭和30年ごろだったかなぁ。戸籍がないもんで、嫁さんにする人もいまへんやろ。20代でかわいらしい子どしたけどな。
昭和34年からあとに自分とこで働いた子の本籍とかを私が書いたものがあるんどすけど、それ見たら100人以上もおりました。
いろいろな人がありました。一人ひとりの話をしたら何日かかるかわかりません。女の、いろいろを見さしてもらいました。
売春防止法、芸をならう元娼妓
昭和33年に売春禁止法案がで、34年3月31日にはなんぼ借金がある子でもやめんなりまへん。借金のこってるもんは「お母はん、すんまへんけど、踊りやら三味線やらならうから芸妓にださしてくださいませんか」と言う人もいました。
「芸妓になりたい人はなりなさい。そのかわりきちっと習わなあかんよ」って言うてね。踊りと三味線のお師匠さんに京都から来てもらって、検番で組合がならわして、もっと勉強したい子は、みんなの稽古がすんだあとで、自分で月謝をだしてならってました。
娼妓さんだった子は、みんな一生懸命に芸をならいましたな。
「芸妓のアシスタント」で人集め
だんだん、バーやキャバレーができて、高い花代ださんでも女の人が横にすわってくれるところがたんとできましたわな。芸妓はお客さんあつかいがうまいどすやろ。みなひきぬかれて、お店の主任みたいになっていました。
コンパニオンができて、芸ができんでも、着物きとらんでも、作法もわからんでも、若けりゃいいんやって時代になってきました。
芸妓になろという子もおらなくなるなあと思って、「芸妓のアシスタント」いうて募集しました。「芸妓見習い」いうてもだれもきいしまへん。「アシスタント」と横文字で募集したら若い子があつまってきたんどす。
その時分には、花代は親方にとられるのでなく自分とこにはいるかわりに、着物などは自分で買わんなんようになっていました。アシスタントより芸妓のほうが実入りがよろしいから、芸妓になろうとするもんが増えました。それが昭和の終わりごろどすなあ。
お客の名前はよばない
お客さんがお帰りになるとき、お客さん同士が絶対に玄関で顔を合わされないようにお見送りせんとあきまへん。新しいお客さんが来たら、帰ろうとするお客さんに「ちょっとお待ちやしておくれやす」「裏口からおもどりやしておくれやす」とご案内することもありました。
国会議員さんに大離れを貸してほしいと言われて、陳情に町村長さんたちが来るんです。町長さんがひとり帰りはったら、次の町長さんをちがう座敷からご案内してました。
いろいろなしきたりがありましたけど、いまは時代が時代どすさかいな。座敷のことなんかわからしまへんしな。一の膳、二の膳、三の膳いうても知ってはる人はあらしまへん。
社長さんや議員さんのことまで今は「ナニナニちゃん」とよんでへっちゃらどす。うちらは昔から、名前は人の前では言わしまへん。なんぼ(個人的に)知ってても「市長さん」。議員さんだったら「先生」。親しい人でも絶対に名前は言わしまへん。沢田さんなら「さーさん」、橋本さんなら「はーさん」どす。
事務所をお茶どころに
昔は芸妓や娼妓さんしとったもんでも、旦那さんが家をもたせて商売さす。組合員が増えるようになっていたんどす。でも商売さそうか、という旦那さんはないようになってきましたやろ。商売しはった人が年いって死んで、跡継ぎがおへん。だんだん組合員が減ってきたんどす。
昔は36軒あったのが、昭和33年の時に娼妓さんしか置いてないところはやめて25軒になった。それからだんだん年いって、新規にする人がいなくて昭和の終わりには8軒になったんどす。
なんとか三丁町をのこしたいと思って、事務所だったところを「おいでやす」というところにして、芸妓にお茶をならわして、私が自前でお茶道具をこしらえて、検番を改装して、お茶とお菓子を出すような場をこしらえたんどす。
「三丁町に古い建物がのこっているあいだに、なんとかしてもらわんと、滅びてしまうんやおへんか」と辻市長さん(辻與太夫1988~2000)に言うたんです。
芸妓に踊りをならわしたりするには組合としてもお金がたんといる。京都のように補助金だせませんかと言いました。お師匠さんに組合として払う1カ月分の月謝だけだしてくれました。市長さんは「直接組合にわたせんから、観光協会にだして、そこからだしてもらうことにした」と言いました。ところが市長さんが死なはってしばらくして、観光協会は事情を知らないから予算を削ってしまった。世間ってそんなもんどっせ。
今のうちに私がなにかやって、それをきっかけにお店屋さんとかお土産物屋さんとかでにぎやかになったらよろしいと思って、「私は石をひとつ池に投げますよ」言うて(おいでやすを)したんどすねん。10年間してました。
でも組合事務所を貸すことにして「おいでやす」をやめました。
6年前、数えの80歳になったとき、(小浜料亭事業協同)組合は3軒になったし、事務所があると事務員をおいとかんなん。それで解散したんです。
私も85歳になりましたし、去年のきょう(2013年10月30日)「芸妓を教育するようなこともできんし、足も悪うなったし、みっともないし、やめますわ」とお店をやめにしました。

今は1軒だけ料亭やいうてやってますけど、検番の稽古のときも習いにもこんようなもんが、女将さんか芸妓かわからんようなことをして、でもどりで帰ってきた娘が、なにも知らんのに芸妓やいうて、新聞や雑誌にでて。昔のこと知ってるもんは、あれが芸妓か、と言うてます。
大田麗子さん · 97歳 ·2026年2月18日死去

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