2年前におとずれた飛騨高山には、秋葉神をまつる祠があちこちにあった。高山は江戸時代、何度も大火にみまわれたたため、「火伏せの神」である秋葉信仰がひろがった。東京の秋葉原は、火災多発をうけて明治期に秋葉大権現をまつる「秋葉神社」がつくられたことに由来する。
日本列島を縦断する中央構造線に沿って、諏訪から太平洋につながる国道152号は「秋葉街道」とよばれる。秋葉信仰以前の縄文時代から海の塩を信州にはこぶ「塩の道」であり、秋葉寺の火祭りの湯立て神楽の湯には1942年まで塩水がつかわれていたという。
独特の存在感の秋葉信仰の本山である秋葉山(浜松市天竜区春野町)を2025年11月末にたずねることにした。
山上の寺の巨大火打ち石


浜松市街から山間の茶畑をながめながら天竜川沿いを車で40分ほどのぼり、東側の林道にはいった。さらに30分で標高800メートルの秋葉神社上社のふもとに到着した。下界は摂氏15度だったが、ここは8度。指先が冷たくなる。

杉木立と常夜灯がならぶ石段を10分ほどのぼった山門には、虎と龍の彫刻があしらわれている。裏には御幣がかざられた立砂(たてずな)がある。
食堂を兼ねる社務所の上の頂上に本殿がある。その前に注連縄がまかれた「神恵岩」が鎮座している。そなえつけの火打ち金で岩をたたくと線香花火のような火花が散った。

本殿の軒下には干支の彫刻がきざまれている。毎年、干支にあわせて彫刻の位置をかえるらしい。

昭和の火事で全焼

秋葉山は、遠州平野に岬のように突出しているから、浜名湖や太平洋、遠州平野が一望できる。おそらく縄文時代からなんらかの聖地だったのだろう。
わきの小さなお堂の案内板に歴史がしるされている。昭和18(1943)年3月13日、ふもとの鉱山からおきた山火事で神社の建物はことごとく焼けた。上社本殿が1986年に再建されるまでは、すべての神事は下社本殿でおこなわれていた。上社から少し下った表参道の神門だけが唯一の江戸時代の建造物という。
火防の神社が焼けたというのは、身代わりとなって多くの人をすくったととらえるべきなのだろうか……。
秋葉神社と秋葉寺の対立

神社の公式の主祭神は、イザナギとイザナミの最後の子で、火の力でイザナミを死にいたらしめた火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)だが、これは明治以降のことだろう。本来の祭神はは秋葉三尺坊大権現だ。山をかけまわる修験者=天狗のような存在らしい。
秋葉山は本来神仏習合で、秋葉寺は秋葉神社の別当寺だったが、明治の神仏分離によって秋葉寺は廃された。その後、秋葉神社は火火具土尊(ほのかぐつちのみこと)を神体としてまつる神社となり、秋葉寺もその後再興して、両者が並立するかたちになったようだ。
秋葉寺のホームページはこうしるしている。
現在秋葉山の頂上付近にある秋葉神社は、明治6年の神仏分離令の混乱期に乗じてつくられたもので、当山の火防の霊験とは無関係の宗教施設であることは明らかである。
その祭神はその時京都愛宕山より勧請した迦具土神であり、千有余年来つづいて来た当寺の秋葉三尺坊大権現ではない。この厳然たる歴史的事実や様々な物的証拠からして、当寺が明治6年まで秋葉山全体を支配していたことは明らかで、識者の認めるところである。
日本イチの十能
いったん天竜川までくだり、45分ほどかけて秋葉神社の下社(春野町)にむかった。

気田川沿いの山際の集落に、下社は鎮座している。杉の木立の石段をのぼると、広々とした境内に本殿がたち、日本最大という十能と火箸がかざられている。火の神である秋葉山に技術向上を祈願して奉納されたという。火はたたら製鉄にもつながるから「技術」の神でもあったのだろう。

下社から上社まで表参道があり1時間ちょっとで歩けるらしい。本来は歩いて参拝するべきだった。残念。
井戸など「水神」の信仰はほぼ消えているのに、東北の古峯神社、関東・中部の秋葉神社、関西の愛宕神社……という火の神の御札をかざる家は今も多い。水道整備によって「水」のありがたみはうすれたが、火事は今でもこわいからなのだろう。

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