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船員と行商のムラ、日本最古の油田……越後の北前船寄港地巡り②

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石油事業も手がけた北前船主

20191113新潟駅〜萬代橋 (6 - 10)を拡大表示

 新潟市内の北前船主の屋敷は2年前に訪ねたことがある。
 新潟駅前から北上して6連アーチの萬代橋(重要文化財)で信濃川を渡り30分ほど歩くと旧小澤家住宅だ。

20191113〜旧小澤家住宅へ (10 - 46)を拡大表示

 江戸時代は米穀商だったが、明治になって回船経営に乗り出し、運送・倉庫・回米問屋・地主経営・石油商などの事業を展開した。現在も「新潟米油販売株式会社」という会社で、新潟空港の給油施設で飛行機の燃料を補充する業務をつづけているという。

20191113〜旧小澤家住宅へ (11 - 46)を拡大表示

 屋敷は1880(明治13)年に焼けて再建された。手作りのガラス窓は光がゆがんで見える。廊下の天井にはガスの配管がある。大正から昭和30年代、新潟市では一般家庭で天然ガスが利用されていた。小澤家は昭和初期、屋敷の裏に天然ガスの井戸を掘って利用していたという。

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 近くの「旧斎藤家別邸」は国の名勝だ。約4500平方メートルの敷地内に、数寄屋造りの建物と、自然の砂丘地形を活かして築山や池を配置した広々とした庭園がつくられている。
 衆議院・貴族院議員をつとめた斎藤喜重郎が別荘として1918(大正7)年に建てた。先祖は越前の三国から来て清酒問屋を営み、明治になって北前船に乗り出し、海運や金融(新潟銀行)、化学肥料などに手を広げた。

船絵馬86枚の荒川神社

20211008胎内桃崎 (3 - 4)を拡大表示

 新潟市から日本海岸を東へしばらく走ると胎内市だ。荒川の河口にある桃崎浜も北前船の湊だった。
 海岸の国道から松林を抜けると碁盤の目の集落に入る。大きな区画の家々がならび、そのまんなかに荒川神社がある。ここには北前船の船絵馬が86枚保管されている。回船問屋の三浦家が江戸時代に奉納した、雨船(1768年)と日和船(1850年)という2隻の和船の模型も、絵馬とともに国の重要文化財に指定されている。

20211008胎内桃崎荒川神社 (2 - 5)を拡大表示

 道端で会った男性に「見学はできませんか?」と尋ねると、市の教育委員会が収蔵庫の鍵をもっており、予約が必要だという。その男性が「今も2軒の回船問屋の船主の館がありますよ」と案内してくれた。

有田焼の便器を備えた船主の屋敷

20211008胎内桃崎三浦家 (23 - 26)を拡大表示

 そのひとつが和船の模型を神社に奉納した三浦家だ。
 三浦昭子(しょうこ)さん(1942年生まれ)によると、三浦家は大阪の堺からやって来て回船業を営んでいた。
 桃崎浜には大小30軒の回船問屋があり、なかでも三浦家と藤木家、本間家、渡辺家の4軒は数隻の北前船を運用していた。三浦家の船は大きいから着岸できず、沖合に停泊し、はしけで荷物を運んだという。

20211008胎内桃崎三浦家 (4 - 26)を拡大表示

 重厚な屋敷は国の重要文化財に指定されている。玄関に敷かれた石は四国の石(おそらく庵治石)で、北前船のバラストとして運ばれてきた。

20211008胎内桃崎三浦家トイレ磁器 (1 - 4)を拡大表示

 便所の便器は白磁に青い彩色をほどこした有田焼らしい。村上藩に資金を融通してきたから、屋敷は武家造りで、通常の部屋より天井の高い七畳半の「切腹の間」も設けられている。介錯をする際に刀をふりかぶる必要があるからだ。庭には藩主から下賜されたという老松がある。

20211008胎内桃崎三浦家船箪笥 (2 - 4)を拡大表示

 部屋には、北前船ゆかりの船箪笥や船絵馬、航海道具などが飾られている。

男は船員、女は魚の行商

20211008胎内桃崎三浦家 (26 - 26)を拡大表示

 三浦家は鉄道の開通にともなって回船業をやめ、農地を開墾して地主経営に転じたが、戦後の農地改革ですべて失った。
 昭子さんの父は、1942年に南方で戦死していたから、母が家を支えた。教師になる道もあったが、教員の給料では家を維持できない。浜に揚がった魚を、米坂線の汽車で30キロ離れた山形県小国町まで担いでいって売り歩いたという。
 桃崎浜では戦後も男性は船乗りをつづけ、80歳代の大半は船会社に勤めていた。留守を守る女性は魚の行商で稼いでいた。
 能登半島の黒島(石川県輪島市門前町)という北前船の船主の集落でも、昭和40年代までは大半の家の世帯主は船員だった。2007年の能登半島地震では、船員としての集団生活の経験を生かして避難所で助け合い活動を展開した。桃崎もそんな船員のムラだったのだ。

出稼ぎの村、人口増の奇跡を起こす

20211008胎内桃崎天然ガス油田 (1 - 1)を拡大表示

 桃崎浜の海辺には広々とした砂浜が広がる。沖合に要塞のような建物が浮かんでいる。
 1990年から操業している「岩船沖油ガス田」だ。4キロ沖の水深36mの海の底から、原油や天然ガスを掘り出している。新潟は日本最大の石油と天然ガスの産地なのだ。
 桃崎のある胎内市は2005年に中条町と黒川村が合併してできた。黒川の名は「黒い原油」に由来するらしい。

 黒川村は吉岡忍が「奇跡を起こした村の話」で取りあげている。
 貧しい出稼ぎの村の31歳の伊藤孝二郎村長が集団農場を組織し、冬場の働き口にするためスキー場やホテルを開く。農家収入を安定させるため畜産団地をつくり、その肉を生かすソーセージやビール工場も展開する。それらの施設はすべて村直営だった。若い役場職員には1年間、ヨーロッパなどの農家に住みこませて人材を育成した。こうした努力の結果、黒川村は人口増に転じ「奇跡の村」と呼ばれた。
 伊藤は12期48年間村長をつとめ2003年6月に辞任。1カ月後にがんで亡くなった。
 当時、観光客が減り、観光も畜産加工も経営不振がつづいていた。伊藤は最後まで合併に反対だったが、彼の死後「厳しい財政」を理由に中条町と合併することになった。

臭い水がわく日本最古の油田

 旧黒川村の山際に「石油公園」がある。「シンクルトン記念館」が予約でしか見学できないのは合併による人減らしの影響だろうか。

20211008胎内臭水油坪跡 (3 - 13)を拡大表示

 記念館の裏手にまわると、谷の窪地に真っ黒なタールのような水がたまっている。

20211008胎内臭水油坪跡 (6 - 13)を拡大表示

「臭水(くそうず)油坪」という国の史跡だ。黒い泥を指でふれてにおいをかぐと石油のにおいがする。まさに「臭い水」だ。

20211008胎内臭水油坪跡 (5 - 13)を拡大表示

 昔はこうしてたまった臭水をカグマ(リョウメンシダ)ですくい取り、灯火にもちいた。
 日本書紀には、「越の国(こしのくに)」から「燃える水」が天智天皇に献上されたと記されている。燃える水は黒川で採取されという説があるため「日本最古の油田」と称している。

20211008胎内臭水油坪跡 (8 - 13)を拡大表示

 油層に沿って井戸が数百本も手掘りされていた。今も森のあちこちに落とし穴のような穴が残っている。1940年に動力式の施設にかわるまで、井戸による石油採掘がつづけられていた。
「臭水」と北前船の関係があってもおかしくないのだが、調べた範囲では出てこなかった。

上杉と直江の出羽国

 黒川から山形県米沢市に向かった。桃崎の女たちが魚を売りに来た小国町は、朝日連峰と飯豊連峰にはさまれた山奥の集落だ。道の駅では熊汁やアケビ、タカキビ、マコモダケなどを売っていた。
 1時間ほどで山を抜け、広々とした盆地に下ると上杉家の城下町の米沢だ。歴史関係の資料館の展示は「上杉」や「直江」「伊達」だらけ。「北前船」の「き」の字もなかった。

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