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中山道歩き② テーマパークだった百貨店 週末の夜の丸の内の静寂

銀座はレトロ文化財だらけ

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 東海道と中山道の起点である今の日本橋は1911年に完成した。長さ49.5メートル、幅27.5メートルのネサンス様式の石造二連アーチだ。
 昭和40年代に親につれられてきたときは高速道路下の薄汚い橋だった。
「日本三大がっかり名所」は札幌市時計台(札幌市)とはりまや橋(高知市)、オランダ坂(長崎市)だが、日本橋の薄汚さはそれらを上まわる「がっかり」度だった。

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 今は案内板やポケットパークが整備され歩きやすくなったせいか、欄干を飾る青銅製の獅子像や麒麟像が美しく見える。

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 日本橋のたもとの「道路元標」は、徳川幕府がさだめた五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点を明治政府が踏襲したものだ。国道1号(旧東海道)と4号(日光街道・奥州街道)、6号(水戸街道)、14号(千葉街道)、15号(〜横浜)、17号(中山道)、20号(甲州街道)の起点になっている。

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 中山道沿いには日本橋をはさんで南に高島屋、北に三越百貨店がある。
 近江商人の流れをくむ高島屋は1933年、日本ではじめて全館冷暖房の日本橋店を開いた。「東京で暑いところ、高島屋を出たところ」という宣伝コピーは大きな話題になった。建物の当初の名称は「日本生命館」で、日本生命が、関東大震災で焼失した東京支店再建と高島屋への賃貸のために建てたものだった。

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 日本橋三越本店は、1914年に三越呉服店として建てられた。1935年に大規模に増築され、当時は「国会議事堂」「丸ビル」に次ぐ全国屈指の大建築だった。
 三越の隣には、ギリシャ建築のような列柱をそなえる三井本館がある。1902年に建てられた旧三井本館は1923年の関東大震災で被害を受け、1929年に建て替えられた。戦前は三井財閥の中枢だった。
 三井本館の西にある日本銀行本店の旧館は、辰野金吾が設計して1896年に竣工した。
 日本橋をはじめこれらの建造物は国の重要文化財に指定されている。東京のどまんなかに、こんなにたくさん重要文化財が密集しているとは思わなかった。

あこがれだった「大食堂」の「お子様ランチ」

 僕の父は東京・大手町の給食会社の社長の運転手だった。
 中元や歳暮の時期には銀座界隈のデパートを家族ではしごしていた。混雑したデパ地下で、中元・歳暮を選んで発送する時間は子どもには退屈だが、デパートの「大食堂」での食事が楽しみだった。
 大食堂の入口には和・洋・中華・デザートの食品サンプルがならび、食券を購入した。その券の半分をウェイトレスが厨房に持っていく。テーブルに残された半券は、食事がはこばれると回収された。
 子どもは当然のように「お子様ランチ」を注文する。ウインナーやハンバーグ、エビフライ……ケチャップライスの上に旗が飾られていた。
「見てくれでごまかして、子どもだましだよね」と5歳の僕が言うと、おやじはたずねた。
「じゃあどんなお子様ランチだったら子どもだましじゃないんだ?」
「プラモデルがついてるやつ!」
 そう答えると、プッと吹きだしていた。
 プラモデルがなきゃ意味ないじゃん。まじめに答えてるのになぜ笑うんだ? 大人ってわかってないなあと、心底あきれたのを今も覚えている。

お子様ランチは、三越日本橋本店の大食堂が1930年で売り出した「御子様洋食」からはじまる。三越の食堂主任だった安藤太郎が、一枚の絵皿にコロッケやハム、果物などを盛りつけ、富士山の形のライスの上に日の丸の旗を立てた。元祖お子様ランチは、今も日本橋三越本店のレストラン「ランドマーク」で食べられる。

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 1960年代から80年代にかけて、デパートは家族で1日楽しめる場だった。子どもたちは大食堂と屋上遊園地にあこがれた。
 しかし現在、1フロアすべてを占める「大食堂」は姿を消し、「レストラン街」になった。屋上遊園地にいたっては、全国で10カ所もないそうだ。関西では松坂屋高槻店「スカイランド」しか残っていない。

週末の夜のオフィス街の地下は時間が停まる

 デパートやイトーヨーカドーの食堂で夕食を食べると、父が勤めていた丸の内のビルの地下の駐車場に向かった。「ぼくんちの車」と思っていた、社有車の日産グロリアという高級車で家に帰るためだ。

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こんな高級車が「ぼくんちの車」だった

 休日の夜の大手町の地下通路はシーンと静まりかえり、靴音がコーンコーンとひびく。
「ワッ」と叫ぶとワ、ワ、ワ、ワ……と自分の声がこだまする。
 時間が止まったような、さびしげな空間が大好きだった。

 それに似ていると思ったのが、連休中の大病院の入院病棟だ。
 平日は医者の回診や採血、血圧測定などで落ち着くひまもないのが、連休中はシーンと静まりかえる。症状が安定している患者にとってはホッと落ち着いて本を読める憩いの時間だった。
 でも、症状の急変に見舞われた患者や家族にとっては地獄だ。
 当直の医者はいるが、ひとりひとりの症状までは把握していない。頭痛を訴えるとロキソニンを処方するだけ。「ロキソニンは効かないんです」と言うと、カロナールをもってくる。素人でもわかる程度の対応しかしてくれない。
 看護師の数が少ないからシャワーの介助もなかなかしてくれない。
 元気な人間が「時間が停まった」感覚を楽しめるのは、自分とは縁遠い、永遠の静けさに満ちた「死」の時空を甘美に思えるからなのかもしれない。一方、「死」の接近を実感している人は、時の停止を楽しむ余裕などないのでは……。
 人っ子一人いないオフィス街の地下通路を思いだしながら考えた。

ビルの谷間の森のお宮を再興

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 三井本館から中山道(国道17号)をわたってビルの谷間をちょっと入ると、「芽吹稲荷」と呼ばれる福徳神社がまつられている。おしゃれなタイルで舗装されたポケットパークに隣接して木々が茂り、通りがかったサラリーマンが手を合わせている。
 平安時代の貞観年間(859~876年)にはすでに鎮座していたと伝えられている。
 貞観といえば、869年の巨大津波で知られている。この津波の痕跡を示す堆積物が内陸奥深くまで分布することが研究で判明し、東北電力が女川原発で対策を講じたにもかかわらず、東京電力はこの研究結果を無視した。それが福島第一原発事故につながった。
 福徳神社は、江戸城をつくった太田道灌の祖霊を合祀し、二代将軍秀忠から「芽吹稲荷」の名をあたえられた。
 関東大震災以後、長らく荒廃し、一時はビルの屋上にまつられていたが、日本橋室町の再開発にともなって2014年に現在の場所に新社殿が完成した。
 再開発でおしゃれな町を整えるときにお宮も復興するというのは粋なはからいだ。
 神仏が町の中心にあると独特の落ち着きが生まれる。さらに、住職がいない寺は荒れるが、お宮は神職がいなくても荒れない、と生態学者の宮脇昭は指摘していた。命を育む鎮守の森じたいが「社」として機能するからだという。逆に森がすたれれば日本人の宗教心もすたれることになる。
 復興された福徳神社も社殿を囲む木々がさわやか空気をかもしだしている。ビルの谷間に森が育てば、100年後も信仰の拠点として残るのかもしれない。

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 神社から10分歩いて山手線の神田駅の高架をくぐり、まもなく昌平橋をわたる。神田川と平行する中央線の高架は赤煉瓦でつくられている。明治時代につくられた赤煉瓦のアーチが今も現役であることに驚かされた。(つづく)

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