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中山道歩き① はじめてウヨクを知った銀座 サヨクを知った浦和 

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ニカラグアとホンジュラスの国境の川リオココを下ってゲリラに会いに行く
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1939年の銀座。左は画家だった祖父

 ふと思い立って中山道を歩くことにした。起点は日本橋だが、かつてアジア一の繁華街だった銀座を出発点に定めた。
 銀座の最初の記憶はなんだろう? 思い返すと、数寄屋橋での大日本愛国党の赤尾敏の辻説法だ。

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ウヨクとのつながりを知らず「同期の桜」を歌った高校生

「憲法改正」「自衛軍」といったのぼりがはためく街宣車に立ち、巨大な音声でなにかをがなっていた。不思議な大人だなあ、と4歳ぐらいのときに思った記憶がある。
「あれはウヨクだよ。話しかけちゃだめよ」
 たぶん母に教えられたのだろう。
 ウヨクって、ヤクザ映画に出てくる悪者ヤクザのような人だと頭にインプットされた。最近になって当時の写真を見ると「日米同盟強化」というのぼりも立っている。赤尾は右翼だけど親米だったのか。

 埼玉県の浦和高校2年のとき、文化祭が終わると今はなき「仙龍」(2020年3月16日の火事で全焼)という中華料理店の2階で酒盛りをして町に繰り出し、公園の噴水に飛びこんで大声でうたった。その歌が「同期の桜」だった。

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ありし日の仙龍
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浦高生御用達。浦高ラーメンという格安メニューも
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名物スタミナラーメン。
ご飯にのせるとスタミナカレー(スタカレー)

 軍歌調のリズム感がかっこいいと思ったのだろう。あの歌とウヨクとはまだむすびついていなかった。
「おまえは右翼だ」と批判する奴はいたけど、「歌ぐらいいいじゃん。めんどくせーなぁ」としか思わなかった。

週刊誌に載りたい! と核問題を勉強したらサヨクに誘われた

 高校3年の文化祭前、友人たちと「何か週刊誌に載るような問題をおこせないかな」と話しあった。
「青酸カリをつくったらおもしろいのでは」
「六価クロムはもっと簡単につくれるらしいぞ」
「綿に硝酸かなにかをかけると火薬ができるってサスケ(漫画)に載ってたよ」……
 そんな議論の末にだれかが言った。
「核問題をやろう、なんか問題になりそうだし」
「その方向でも週刊誌に載るかも」
 ……ってことで、一転してくそまじめな研究をすることになった。当時の僕は、米ソの核開発競争はおそろしい、とは思っていたけど、それよりも高校生がそういう問題をとりあげれば注目されるかも、という程度の認識だった。
 文化人類学者の川喜田二郎が考案したKJ法の本をまず読んだ。データをカードに記し、カードをグループごとにまとめて、それぞれのグループ同士のつながりをああでもないこうでもないと考えてひとつの文章にまとめていく手法だ。
 核にかかわる本をかたっぱしからみんなで読んで、大宮(さいたま市)の陸上自衛隊化学学校や米軍の横田基地などを外から見学して撮影し、KJ法でまとめていった。
「核抑止力」は恐怖の均衡だから、「相手より少しでも優位に」と焦ることで、際限なく核軍拡がすすむ。戦争が起きれば、在日米軍基地はソ連の核ミサイルの標的になる。核抑止力にたよるのは日本には危険すぎる……という、あたりまえの内容の発表だったが、まったく無知だった僕には、新しい世界観が開けたようでわくわくした。

僕らがそんな企画を進めていることを、どこから聞きつけてきたのか、政治組織に所属しているというOBがやって来て、「やれることがあったら手伝うよ」と申し出てくれた。
 たいしてうまくないB-52爆撃機のイラストを描いてくれた。そして僕らを「集会」に誘った。
「臨教審反対の集まりがあるから参加しないか? 高校生に直接かかわる問題だから、ぜひきてほしい」
「集会」のつもりで参加したら、僕ら4、5人と、政治組織のお兄さん3人だけだ。
「右翼的中曽根政権は……政官財の結託によって人民を戦争に駆りたて……」
「機動隊に蹂躙される成田の農民とともにたたかうことこそが、日帝の野望を砕くことに……」
 たぶんその時だろう。「右翼」と「戦争」が結びついたのは。
 右翼の印象は「こわい」から「こわくて悪い」に変わった。
 その後、お兄さんたちの政治組織が「中核派」で、ヘルメットとマスクとゲバ棒で武装する人たちだとわかり、左翼にもまた「こわい」人たちがいると知るのだけど、それは後の話。

はじめてのデモ 「ザイキ! 粉砕!」 サヨクはかっこいい

 大学に入って、わずかな期間だけど、大正時代に建てられた木造建築の吉田寮に入った。
 そこではじめてデモに参加した。大学当局が「在寮期限」を一方的に設け、寮の一部を廃止しようとしていた。それへの抗議だ。
 出発する前にひとつの電話番号を教えられた。
「警察にぱくられたときは黙秘して、この番号に電話をかけること。覚え方は『逃げろ逃げろオー』だ」
 法律事務所の電話番号らしい。
「パクられる」という響きがかっこよかった。
 ヘルメットをかぶり手ぬぐいでマスクをした人をふくめ40人ほどで隊列を組んで、鴨川沿いを練り歩いた。なんだか強そうだ。
「ザイキ粉砕!」「闘争勝利!」
「安保粉砕」「闘争勝利」という安保闘争のスローガンをもじったものとはその時は知らなかった。ザイキとは在寮期限のことだ。
 今から思うと「ザイキ」はあまりにテーマが矮小で、ある種のパロディーなのだけど、当時の僕は大まじめに「かっこいいなあ」と思っていた。そこで覚えた構図は「警察は右翼の味方」「左翼はかっこいい」だった。

内戦のニカラグアを経てウヨクのみなさんとギャルトーク

さらに3年後、なにをとち狂ったのか「戦争を見たい」と内戦中のニカラグアやエルサルバドルを旅した。そこで、その後に軍事ジャーナリストになる加藤健二郎さんや黒井文太郎さんらに出会った。

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内戦中のエルサルバドルの国立大生。左端の子は当時から左翼ゲリラに参加していた

 カラシニコフやM16といった自動小銃の特徴や、大隊・中隊・小隊といった軍隊の組織のありかた……といった基礎知識にはじまり、「市街戦に巻き込まれたときは道路の端っこの壁沿いは跳弾で危険だから道路のまんなかで伏せろ」といった実践的な知識も教えられた。
 ついでに大学の女子寮につれていかれた。
「ラテンの国で女の子の友だちもできないようじゃ、ニカラグアの現実なんかわからないよ」
 そう言って僕の背中を押し、女子大生に無理矢理声をかけさせた。
 軍事もナンパもまったく経験がないから目を白黒させるしかなかった。加藤さんは、右往左往する僕の姿を見てせせら笑っていた。

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エルサルバドルのスラムは、左翼ゲリラの活動拠点だった

 加藤さんは、暴走族のリーダーをやって、大卒後は建設会社勤務を経てフランス傭兵部隊に入るために渡欧したというから、たぶん「右翼」なのだろう。ウヨクのほうが生真面目なサヨクよりおもろい人がいるのかも、と彼らに会ってはじめて思った。
 帰国の1年後、朝日新聞に就職した僕は加藤さん宅の飲み会に招かれた。
 家におじゃますると、いかつい男たちが6、7人、テーブルを囲んでいる。
「彼がサヨクで朝日新聞のミツルくん」
「こっちは愛国党のみなさん」
 そう言って加藤さんはニヤニヤしている。
 あのおっかない愛国党! たまげて緊張したけど、話はやけにおもしろい。「好みの女の子」「ナンパのやりかた」といった話がほとんどだったと思うけど。

ヒッチハイクで入社試験 インターナショナル歌った新人記者

 赤尾敏が演説していた数寄屋橋から徒歩15分の築地市場の近くに朝日新聞の東京本社がある。
 1989年に入社試験の面接を受けるため、京都からヒッチハイクで訪れた。
 リクルートスーツを買うカネがないから、父が20年前に着ていた焦げ茶色の背広と、釜ヶ崎で100円で買った革靴をリュックに入れて持ってきた。
 ところが靴下が片方しかない。しかたがないからはだしで革靴をはき、ズボンを下にずらして足もとを隠した。
 バブル経済のまっさかり。面接に行くと往復の新幹線代をもらえた。これをヒッチハイクで浮かせて、合コンの飲み代にした。

 面接を通過して晴れて入社すると、1カ月間ほどの研修がある。ほとんど居眠りしていて内容は覚えていないが、毎晩新橋や有楽町で飲み歩いて、ベロベロになっては同期の新人記者数人と歌をうたって歩いた。
 どんな歌をうたったっけ? 「同期の桜」ではないのはたしかだ。
 当時の日記を見ると、アメリカ公民権運動でうたわれた「We shall overcome」や「インターナショナル」をがなっていたらしい。さすが朝日新聞の新人記者、サヨク色が強かった。
「現場にこだわって、デスクや部長に出世するのは拒もう」
「労働者の権利なんだから連帯して有給休暇をとろう」
「ヨコのつながりをもちつづけよう」
 正義漢あふれる新人記者たち。自分たちの力で保守化したメディアを改革できるとなかば信じていた。

地方支局の奴隷労働 青くさい理想は消し飛んだ

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先輩記者に原稿を見てもらう。なにを指摘されるか、いつも緊張していた

 1カ月後、全国の地方支局に赴任する。泊まり勤務の先輩が起きるより早く午前7時に支局にあがり、午前8時には警察署の宿直の申し送りを見て、警察の食堂で納豆定食を食べ、刑事課、防犯少年課、警備課……と順番に訪ねて、課長の機嫌がよければソファーにすわって雑談する。
 午後は、展覧会とか町だねなどの「ひまだね」を取材して、夕方原稿をデスクに出す。
「おまえ、これで原稿になってると思ってるのか!」
 怒鳴られて原稿用紙をビリリと破って投げつけられる。何度か書き直してやっとデスクが原稿を通してくれると、そそくさと支局から逃げ出し、手みやげのたこ焼きを買って宿直体制の警察を訪ねる。それから課長や署長の家を「夜回り」する。
 毎日へとへとだったが、そのうちさぼりかたを覚え、「夜回りにいきます!」と言って、他社の同期の記者と午前2時3時まで飲み歩いていた。 
 そんな日々をくり返すうちに、青くさい正義感はどこかに消えてしまった。有給休暇なんてはじめの15年間は取った記憶がない。「ヨコの連帯」なんてすぐに忘れた。
「デスクや管理職にはならない」というのは貫徹できたが、これは自分の意志ではなく、その能力がないと判断されたためだ。

 中山道を歩くはずが、まだ一歩も踏み出せていない。少なくとも浦和までは、記憶のレイヤーをベリリ、ベリリとはがす作業になりそうだから、紀行文にはなりそうにありません。(つづく)

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