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穴太寺は里の寺 光秀の城は大本教

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京都駅から山陰本線の普通列車に乗った。嵯峨嵐山駅で大半の乗客がおり、トンネルとトンネルの合間に保津峡の急流を眺めていたら広々とした盆地に出た。サンガスタジアムと隣接する亀岡駅に降りた。

愛敬の馬の木造の走田神社

 21番の穴太寺までは3キロちょっとだ。市役所まではまちなかを歩き、京都縦貫自動車道をくぐると水田が広がった。車が通らない農道は、ウグイスやカエルの声が耳にとびこんでくる。
 走田神社という名前にひかれて立ち寄った。
 昔々、絵馬から夜な夜な馬が草をはみに抜けだし、ひずめの跡が川になり田をうるおしたから「走田」となったと伝わっている。境内が広々としているのは馬を走らせる行事があるからだろうか。

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 愛嬌のある顔の馬の木像がそそりたっている。2018年の台風21号で100本以上の樹木が倒れた。そのうち樹齢280年の巨木を活用してチェーンソーで「馬」を彫りだしたという。制作者は渋谷菜津子さんという南丹市の女性だ。
 りっぱなつくりの本殿のほかいくつもの小社が点在する。熊野に自生するナギも植えられている。
「新三匹が斬る!」「暴れん坊将軍」「竜馬がゆく」などの時代劇のロケに使われてきた。

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 神社から10分ほどで集落に入る。用水路はカポカポ音を立てて水がほとばしり、シロツメクサの白い花がゆれる。穴太(あなお)寺に着いた。

ふとんをかぶり横たわる釈迦

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 西国巡礼の札所にはめずらしく里の寺だ。
 五来重によると、33カ所の霊場は山伏の修行の場だったから、本来は里にあるのはおかしい。平地にあるのは、六角堂と革堂、穴太寺、六波羅蜜寺、葛井寺、興福寺南円堂などに限られる。革堂や六角堂、穴太寺は水の信仰のために霊場化したのであり、泉があるところに出現するマリア信仰と似ていると五来は記す。

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 拝観料500円を払って本堂と庭園を見学した。
 本尊の聖観音は秘仏だが、本堂の端っこにふとんをかぶった釈迦像が横たわっている。生活感あふれるふとんのせいか、昼寝をしているように見える。鎌倉時代の寄木造。体の悪いところと同じ場所をなでると病気が快癒するそうだ。

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 庭園は多宝塔を借景とし、錦鯉が泳ぐ池に蓮の白い花が浮かび、ツツジがピンクの花をつけている。めだった特徴はない。

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 帰途、集落を抜け、高速道路沿いの小道をたどると、ため池のわきに殺風景な「平和台公園」と出雲大社京都分院があった。真新しいコンクリートの本殿にはがっかりした。風景がなぜか殺風景だ。亀岡の町からは山をへだてた裏側斜面だからかもしれない。
 西国巡礼道が通っているのに、亀岡は宗教的な雰囲気が希薄だなぁと思いながら中心街にもどった。

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 旧山陰街道周辺は古い商家風の建物が点在する。本門寺、寿仙院、法華寺と3つの寺がならび、柿渋の布などをあつかう布屋がある。10月には、山鉾が練り歩く祇園祭に似た祭が催されるという。

光秀の城、今は大本教の聖地

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 明智光秀が築城した丹波亀山城跡を訪ねると拝観料300円と書いてある。公共の公園なのになぜ? なかに入るのはやめ、周囲だけ歩いた。
 実はここが大本教の本部だった。
 大本教は1892年、京都・綾部の大工の未亡人、出口なお(教祖)が突然神がかりして開いた。1899年に出口王仁三郎(聖師)を娘婿にむかえ、王仁三郎が全国に教えを広めた。祭祀の中心である綾部の梅松苑と、宣教の中心である亀岡の天恩郷を二大聖地としている。
 王仁三郎は1919年に荒廃していた城跡を購入し、埋まっていた石を掘り起こして石垣を積み直した。
 1923年に国際語エスペラントを導入し、人種・民族・宗教などの壁を越えて人類の大和合をめざす人類愛善会を創立している。
 だが1921年には不敬罪で弾圧され、1935年には治安維持法違反などの容疑で幹部60人が一斉に検挙され、本部は爆破された。出口にかかわる碑は全国で徹底的に破壊された。

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 戦後、信者らが石垣をふたたび積み直した。三代教主の出口直日は1951年、「神苑を天国のひな形としたい」と花明山(かめやま)植物園を開いた。1000種類以上の植物が集められている。
 大本の信仰はエコロジーとも親和性が高いのだ。
 出口王仁三郎の出身地は穴太寺のある集落だという。亀岡には宗教が希薄だとさきほど書いたが、僕が鈍感で感じられないだけだったようだ。

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