MENU

伊予遍路 小田-岩屋寺

 4人組は5時ごろには起き、6時からの朝食をおえるとすぐに出発した。

09-01odaryokan.jpg
役場前の高橋旅館
09-02mayumimade.jpg
真弓峠へ。石積みが立派
09-03mayumihenromiti.jpg
真弓峠へ遍路道
09-04awaka.jpg
久万側の民家、粟?だろうか
09-06kuri-ba.jpg
栗畑のおばあちゃん
09-07sisiyoke.jpg
農祖峠を越え、猪除けの柵
09-08takigi.jpg
石油高騰でも安心
09-09azuki.jpg
小豆を干している
09-10nakanomura.jpg
軒下にはトウモロコシ
09-11makidanihyosiki.jpg
槇谷、遍路道の案内板
09-12makidani-shokudo.jpg
昔は食堂もあった…
09-13iwayaji-fumoto.jpg
岩屋寺を越えようやく集落

「あなたのほうが速いだろうから、すぐ追いつかれますよ」 というが、
彼らは昨日、「うめたこ」という旅館から出発し、2時すぎには到着していたという。
「うめたこ」(愛媛県大洲市徳森)は大洲から4キロほど の位置だから、オレよりは1時間以上速いペースということになる。
 肉刺の処理をして、水ぶくれの水をぬいたあと食事へ。朝食もおかずがたっぷり。
 6時半に旅館をでたとたんに雨がふりだした。
足がぬれたら肉刺がたいへんなことになるなあ、と思いながら、朝靄にけむる町村の 町並みをぬけ、国道を峠へ。
15分ほどで雨はやむ。内子近辺とは異なり、谷が深いため集落は山の中腹にある。
南予の広い谷 は水田が広がっていたが、これだけけわしくなると、川沿いに猫の額ほどの水田があるだけだ。
段畑の石垣はすごい。
いつ、だれが積んだのだろうか〓。たぶん今では技術も失われているんだろう。
大平の集落をぬけるとまもなく、遍路道は左手の山中にわけいり、蛇行する国道をショートカットす る。
二度目に国道と交差したところが「畑の峠」(はたのとう)への分岐だ。
峠を「とう」というのがいい。
畑の峠の道をたどるのも魅力だが、大宝寺が先に なってしまう。
もう一方の道をたどって「農祖峠(のうそとう)」という名の峠をとおるのも魅力的だと思い、後者をえらぶ。
9時、真弓トンネルをぬけ久万側 にでる。
久万に入ると急に景色が広々としてカラッとして高原という風情になる。
おそらく人の気質もちがうのではないか。
トンネル出口から20分ほどの大久保という集落の高台にあるお堂で休憩する。
ゆっくり座って、靴をぬいで、眼下の景色を眺める。
女性遍路が会釈をして追い越していく。
 二名川の500メートルほど手前を左手に折れて細い道へ。
栗畑の急斜面をころがりおちてくる栗を、おばちゃんが拾っている。
「栗拾いはたいへんよ」道路をみおろす栗林に、おばあさんが1人座っている。
「このおばあさんはえらいんよ。毎日一生懸命働いてねえ」
何百年かわらぬ生活をしている人がい る。
そこで苦労しつつ幸せを感じる人がいる。
「変化」や進歩をもとめるのが当たり前になったのは、ほんの数十年のことなのだろう。
おばあちゃんのなにがど う偉いのか、じっくり聞くべきだったかもしれない。
10時40分、農祖峠への林道にとりつく。
川沿いにのぼり、せせらぎ音が細くなり、消えかかるころに、急な山道になる。
40分ほどで峠にたどりつく。お地蔵さん2体が足下に鎮座している。
下りは、痛む右ひざをかばってへっぴりごしになり、ついでに左足の土踏まずの部分も痛くなってきた。
一昨日は右ひざの痛みさえひどくならなければ、多少足の裏の肉刺が痛くても大丈夫と思った。
右膝の痛みがやわらぎ、右の小指の痛みだすと、これ以上痛く なったらいかんなあと思い、これにくらべたら、ほかの部分はたいしたことないと思う。
今度は土踏まずが痛くなると、これもまたズキンズキンと脳天に突き抜 けるようで我慢しがたい。
けっきょくどこの痛みもつらい。
でもその痛みが消えたらいいかと思うとほかの部分の痛みがクローズアップされる。
痛みから完全に 解放されることはなかなかない。
ごまかしごまかしやるしかない。
あれ、これってだれかの人生訓か?〓
 杖をつかうことにする。ずいぶん楽だ。のぼりや平地では推進力になるからペースもはやまる。
〓杖の機能を調べてみてもおもしろいかも。
 久しぶりにマムシをみた。
銭形の模様と、独特の頭の形だ。
冷や汗がでて、木の枝で追い払い、通過する。ふまないでよかった。
 舗装道路にでる。畑は猪よけの柵で囲まれ(茶畑は囲まれてない)、軒下にはトウモロコシやタマネギがつってある。
浄水場をすぎると、左手に遍路道がわかれている。
土道になると、足裏の疲れがやわらぐ。
杉木立の坂をのぼりきってちょっと歩くと、大宝寺方面と岩屋寺方面の分岐がある。
「岩屋寺9.5キロ」
足は痛むが、これならいけるかな、と思う。
 12時25分、国道33号に到着する。
何度も何度もとおった懐かしい国道だが、徒歩でたどりつくと見えかたがちがう。
国道をわたって東へ。ガードレールには小豆をほしている。
トウモロコシとか小豆とか、このへんは食の風景が豊かだ。
 杉林のなかを右に左にのぼ り、越ノ峠(こしのとう)をへて13時半に中野村の分岐にたどりつく。
地図でみてどんな集落なんだろう、と興味をもっていた。
「岩屋寺 6.5キロ 日の出橋経由・槇谷歩きルート」の看板がある。え? さっきが9.5キロだったのに3キロしか進んでいないのか?
有枝川の谷の中腹に、トタンの覆いがかぶせられているかやぶき屋根が点在している。
山を越えたら急に開けるのどかな里の景色は、昔話の桃源郷を想起させる。
軒下にトウモロコシなどを吊ってある家が何軒もある。
また雨がふりはじめた。
 ゴーゴーと音をたてて流れる川沿いをしばらくなにも考えずに歩く。
14時10分、槇谷の入口。「5.2キロ」とある。
山深い谷沿いの細い道を30分ほど のぼると、え、こんなところに? というような山奥に集落があらわれる。
中腹に2軒3軒、あっちの中腹にも数軒……と、規模はけっこう大きい。
小学校(分 校)は2階建ての木造校舎で、神社や食堂(茶屋)、消防団の小屋もある。
でも廃屋だらけ。
軽トラック以外、人の気配はない。
神社をこえてさらにのぼると、 夫婦が農作業をしている。
「昔は40軒も家があっての。分校の生徒が60人もいたから、戦後、部落の人が総出で山から石をきりだしてトロッコではこんで二階建て校舎をたてたんよ。……今年も2軒おりてしまって、今残っているのは2軒ばかりじゃ。ここから上は全部空き家よ」
部落が共同で小学校の校舎をたててしまうほど、力のあるムラだったのだ。
「峠まで30分、岩屋寺までは1時間ほどじゃ」
 山道に入る。植林されたスギの下には石垣が重なっている。家や段畑があったのだろう。
廃屋のとなりに柿の木があり、蜘蛛の巣におおわれている。
ムラ部分をぬけると急坂になる。
背丈ほどもある雑草が道をかくし、踏み跡をたどるしかない。
ときおり「空海ウォーク」の小旗があるから遍路道であること を確認できるが遍路札もない。
30分ほどで峠にでる。さらに、崩れかけた山道を15分ほど歩いてようやく「四国の道」と合流する。
「八丁坂の茶店跡」。ここにある標識は四国の道・遍路道保存協力会の両方とも槇ノ谷への道は示していない。
荒れているからだろう。
「打ちもどり」なしの槇ノ谷ルートこそが遍路道だと、江戸時代に七鳥村の人たちがPRしたことがあったという。
たしかに、歩く道としてはおもしろい。このまま消えてしまうのは惜しい。でも、過疎の現実の前にはむずかしかろう。
「岩屋寺1.9キロ」とあるが、ここからまた遠かった。
 雨が本降りになり、スギの森の山は暗い。コンパクトデジカメでは暗くて写真はうつせない。
のぼってくだって、またのぼって……とくり返し、ようやく寺の 行場にでたと思ったら、まだまだガレガレの岩場下りがつづく。
山登りとしては入門コースだが、平地を延々歩いて痛めた足にはつらい。
本堂と、岩屋寺独特の 岸壁がみえたときは心底ホッとした。
 寺からの下りもつらい。休みをはさみ17時15分に民宿「門田」に到着した。
 建て替えたばかりのきれいな民宿は2食つき5500円。
食事は田舎の野菜がおいしい。芋やズイキが胃腸にやさしい。
「こういうもん食べてたらでるもんもでるから」とおばちゃん。
旅館は1人で切り盛りしている。
「私らの子供のころは、正月の御馳走いうたら板付きのかまぼこかチクワよ。チクワを丸ごと1本もらうとうれしいてね。今の子はそういう喜びがないからかわいそう」
 ああ、まさにそのとおりだ。足の痛みのことでも、痛みってけっきょく相対的で、痛みがあるからそうじゃない状態がありがたくて……と思える。
喜びや幸福感もかなりの程度で相対的なものなのだ。豊かになったから絶対的に幸せになれるわけではない。(10月9日)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次