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遍路㉟91歳の御大師さん 土居から民宿岡田20200310

 6時25分出発。小雨模様だが空気がぬるい。南から北へ、雲の動きが速い。昨晩、役場の放送で「やまじ風が予想されます。ご注意ください」と言っていた。強い南風が法皇山脈から吹き下ろし、フェーン現象が起きたらしい。
 ここにも丸ポストがあり、その近くに「日露戦勝記念」の石碑が立っている。安藤正楽という反戦思想家は土居の出身だった。日露戦争記念碑に「忠君愛国の四字を滅すべし」と刻んだことで知られている。その碑は官憲によって破壊されたらしい。

 村山神社には忠魂碑と戦没者の名を刻んだ碑がある。戦没者の名を刻むのは大切だ。この神社の狛犬は玉の上に足を載せている。隣の駐車場が「長津村役場跡地」。

 伊予三島に入ると、旧道沿いにも小さな製紙会社が増える。大製紙会社は港や電力などが重要だが、中小の製紙会社がなりたつ条件って何なのだろう。
 「森之翠」という銘柄の篠永酒造はもう営業していない。
 国道11号を渡り、三島のまちへ。伊予三島や川之江は製紙工場が多いから独特の臭いがただよっていた。きょうは風向きのせいかあまり臭わない。
 9時10分、市役所は、四国中央市になって巨大な新庁舎ができている。
 南の法皇山脈の南側の山中には、平家の落人伝説があちこちに残っていた。遍路道はそういう「裏」ではなく「表」を貫いている。

 高速道路をくぐる。ため池沿いを歩いていると「ちゃう! みんなよう間違えるんじゃ。池の手前を、太陽の家のほうに行くんや」と教えてくれた。前回この道は通っていない。地図を見返すと「銅山川発電所」方面をまわっていた。
 10時10分、急な小道を10分ほど登って車道に出たが、そこから三角寺の駐車場まで30分もかかった。標高430メートル。

 急な石段を登り切ると、山門兼鐘楼がある。

 鐘をついて、その音でゆがんだ空間をくぐって境内に入る。
 右に納経所があり、左の奥に本堂、手前に大師堂。早咲きの桜がチラホラ咲いている。前回も春で、たくさんのお遍路さんでにぎわっていた。ここの写真は新聞記事にも使った。

 納経所の女性は「民宿岡田に行くなら石段を下りて右よ。ここから4時間だから」。来る途中に「椿堂」という「四国の道」の看板があったからそこまでもどるつもりだった。教えてもらってよかった。
 晴れ間がでてきた。標高400メートルの寺の周辺にも集落がある。なぜか朝日新聞をとっている家が多い。こういう読者を大事にしなければいけないのに、地方の読者を切り捨てようとしている。おろかなことだ。

 11時45分、川之江のまちと瀬戸内海の小島を見渡せた。林道をゆるやかに下り、12時17分に平山という集落に下りた。
 土佐街道と遍路道が合流する場所で、昔は参勤交代の殿様も往来した。「旅籠屋 島屋跡」「お小屋倉跡」などが残っている。
 高速道路をくぐると、秋葉神社があった。秋葉信仰って静岡近辺では多いが四国にもあるのか。

 13時18分、国道のわきの斜面にある椿堂に着いた。こじんまりした寺だ。弘法大師が杖に疫痢を封じ込めて埋め、その杖が椿になった、と伝えられている。88カ所ではないから納経するか迷った。でも案内板に記された短歌に目を奪われた。「災いを三千歳 百々歳永劫(とこしえ)に 我は守らん 火(非)核の国」
 納経所の人によると先代の住職が記したという。「疫痢を封じ込めたお寺だから、コロナも封じ込めるようお祈りしなければいけませんね」「全部歩いてる方には納経はお接待です」と300円返してくれた。煎餅もいただいた。歩いていると、こういうお菓子さえもありがたい。

 13時25分発、国道をひたすらのぼる。1時間後、右の小径に入る。登山道を10分ほど登ると車道に。国道から離れた山上に集落がある。よく考えれば、以前はこの峠道が幹線道だったのだ。
 14時50分、峠を越えたら徳島県だ。文字通り「境目峠」だった。20分ほどで国道に出た。
 15時半、佐野の集落に入る。佐野小学校には二宮金二郎の像がある。まもなく懐かしい民宿岡田に着いた。15年ぶりなのにお父さんはぜんぜん変わってない。91歳という。

 夕食は、歩き遍路4人がおじさんと卓を囲む。話がはずんで楽しい。昔のYHの雰囲気に似ている。

 おじさんはスマホの翻訳アプリを自在に使いこなしている。「子供のころは、将来は世界中が日本語を使うようになるから英語なんて勉強せんでいい、と言われた」と言って笑った。
 15年前に泊まったとき、奥さんを亡くして数年後で、ひとりで民宿を切り盛りしていた。一人になってはじめて料理や掃除をはじめたという。当時のおじさんの戸惑いと喪失感が今はよくわかる。
 国鉄の学校で学んでいた16歳のときに広島で被爆している。爆心から2キロ以内。乳房を子供に含ませたまま死んだ母親や、ふくらんだ遺体が川を流れるのを見た。髪の毛が一度全部抜けたが、まもなくもどった。「放射能なんて知らないから、畑のキュウリやナスを盗んで食べていた。あれはおいしかった」 
 最近、白血病と診断された。「治すことはできないが、進行はきわめて遅い」と言われたという。
 小学生のころ、昭和10年ごろは、おじさんが育った弥谷寺近くの遍路道を、箱車を押したお遍路さんが歩き、縁日になると、顔の形が崩れた人たちが並んで物乞いをしていた。戦後しばらくしてすべて消えてしまった。「昔のお遍路さんは悲惨だったけど、今は歩き遍路さんが一番お金持ちや」
 こういうおじさんに出会えると心が救われる。御大師さんは寺にいるのではなく、歩く道すがらに出会うものなのだろう。(つづく

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