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遍路㉚瀬戸内の風景 松山~菊間20200305

 松山連泊だから、ウエストポーチだけ身につけて出発する。
 朝ごはんはナミちゃん手作りのパウンドケーキ。昼ごはんはみっちゃんがくれた「鶴の子」という和菓子になった。どちらも本当はお茶やコーヒーと食べるべきものだ。
 独身時代に住んでいたマンションや護国神社、種田山頭火の終焉の地である一草庵を流した。2人で住んだ家やロシア人墓地は思い出が強すぎるから避けた。
 7時8分、山越の交差点の手前に「ドジョウ施餓鬼」という碑がある。ドジョウを食べる文化が松山にもあったのか。

 しばらくは国道を歩き、川沿いの道に入ったところに、遍路関係で有名な中務茂兵衛が立てた「逆打遍路道標」があった。逆打ちの案内もする道標は珍しい。
 国道196号を渡り、小川沿いを歩き、田圃を突っ切った海側の山際は、菜の花が満開で、ため池周辺ではウグイスが歌声を競っていた。
 

 参道をのぼると太山寺の仁王門(重文)があらわれる。

 さらに300メートル上の山門をくぐると山に囲まれた境内だ。鎌倉時代の本堂は国宝、木造十面観音立像は一木造りで重文という。

 「力比べの亀の石」は重さ120キロで、だれが遠くまで運べるか競ったらしい。僕には持ち上げることすらできない。熊野古道沿いでも似たような岩があった。
 坂村真民や山頭火の碑が並ぶ。山頭火は亡くなるちょっと前に寺を訪れていた。
 昨夜の店でいただいた鯛飯をほおばる。だしがしっかりしていておいしい。
 9時半発。車道をまっすぐ20分ほど歩くと集落のなかにある円明寺だ。

 門を入って左の隅に「キリシタン灯籠」がある。十字架型で、合掌するマリア観音らしき像が彫ってある。隠れキリシタンの信仰に使われたという説もあるらしい。

 境内のまんなかになぜか山門のような鐘楼がある。納経所のおじいさんによると、海賊の戦が盛んだった頃、山の上の奥の院の建物を移築したそうだ。
 10時発。30分で海沿いに出た。太平洋と異なり瀬戸内海は湖のよう。島影が美しい。

 粟井坂で旧北条市に入り、柳原の集落には「雪雀」の酒蔵を見つけた。
 高浜虚子像と、大師堂の近くに生家跡の碑が立っている。

「花へんろ」のまち、という表示がある。早坂暁の作品だが、どんな内容だったか覚えていない。

 正面にとがった山が3つ。中心の山のふもとにある鎌大師に13時18分に着いた。ここにお遍路の世界で聖女と崇められていた手束妙絹さんがいた。僕らが遍路道を歩いていたころはすでに高齢者施設に入居していた。Rは一度会いに行ったことがある。2019年から、明栄という人が堂守をしているという。

 坂を登り、細い舗装道の峠を越えてまもなく東屋の「休憩所」があり、浅海の集落と海の島々を一望できる。菜の花の甘い香りとウグイスの歌声にしばし包まれる。
 国道に下りまもなく旧菊間町(今治市)に入る。沖を貨物船が行き交っている。
 菊間町は黒瓦だらけ。「体験工房」などがあるけど、地味なかわらに興味を持つ人がどれだけいるのだろう。「かわら館」も閑散としている。

 15時、遍照院。山門の両脇には、仁王像のかわりに鬼瓦が鎮座している。まもなく、黒瓦の菊間駅に着いた。
 ホームの桜は、今は裸だが、十数年前に歩いた時は満開だった。

 満開のプラットホームのおしゃべりの 思い出の駅 揺れる枯れ枝

 電車で松山にもどった。
 Rが「愛媛のVIPたち」と呼んでいた人々と夕食。覚えてくれているだけでもありがたい。
 ごちそうやおいしい酒をひとりで楽しむのは罪悪感を感じるが、みんなで食べると、新鮮な刺身や酒を楽しめた。(つづき

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