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夕陽の沈む二上山は悲劇の皇子の怨念ただよう西方浄土

 大阪と奈良の境にある二上山は、雄岳(517㍍)と雌岳(474㍍)がならぶ双耳峰だ。
 飛鳥時代の藤原京(現在の橿原市)をはさんで真東には、神がやどる山として神聖視されてきた三輪山(標高467㍍)がそびえる。二上山から見ると、秋分と春分のときに三輪山から朝日がのぼり、逆に三輪山から見ると、二上山の雄岳と雌岳のあいだに夕日がしずむ。
 二上山は大和の西の境をなし、都を照らした太陽がその山影に果てるから、 山の彼方に西方浄土という聖地があると信じられていた。
 この山にはどんな「異界」がのこっているのだろう。

目次

山頂にならぶ神社と経塚と古墳

 大阪・阿倍野駅から近鉄電車で30分ほど。大阪側から見ても神奈備型の双耳峰は特徴的だが、奈良側にはいると、その山のふもとにいくつもの神社があり、信仰の山であることがわかる。
 奈良盆地の典型的な田園地帯にある二上山駅から徒歩15分ほどで山道にはいる。

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 急な尾根をほぼ一直線にのぼる。尾根は大雨でもめったに崩壊しないから、クスノキなどの巨樹がそだっている。古代の道は尾根につけられることが多かった。この登山道も昔ながらの信仰の道なのだろう。

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 関空方面を望める休憩所をへて、50分ほどで雄岳の頂上(517メートル)に着いた。木々にかこまれて展望はない。
 低木で生け垣のようにかこまれた「二上白玉稲荷大神」という碑がある。沖縄の御嶽のようだ。

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 隣には葛城坐二上神社があり、小さな榊がご神体としてまつられている。その隣の「第26経塚」は修験者の行場だ。「葛城の峰々」には法華経を埋納した28の経塚があるのだ。

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 経塚のさらに先には「二上山墓」という。宮内庁が管理する古墳がある。天武天皇の息子の大津皇子の墓という。うっそうとしげる木々のせいか、しめった重い空気がただよっている。
 なぜ二上山の山頂に墓があるのだろう。

非業の死をとげた大津皇子をおそれ「移葬」

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 大津皇子は、父が天武天皇、母は、天智天皇の娘・大田皇女(おおたのひめみこ)で、文武にすぐれた皇子だった。だが686年9月9日に天武が亡くなると、異母兄にあたる皇太子・草壁皇子にたいして謀反をくわだてた嫌疑をかけられ、天武の死後1カ月もたたない10月3日に24歳で処刑された。ともに逮捕された人びとはみな許されていることから、草壁皇子の母・鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ=のちの持統天皇)の陰謀ではないかと考えられている。
 罪人として処刑された大津皇子は3年後の689年ごろに二上山に「移葬」された。
 そのころ皇太子の草壁皇子は病に伏せり、その年のうちに亡くなっている。
 草壁皇子の平癒を祈願して、非業の死をとげた大津皇子の霊を手厚くまつろうと、「弥勒の浄土」にみたてられていた二上山に「移葬」した……という説が有力らしい。
 鸕野讚良皇女は亡くなった息子のかわりに孫の軽皇子を天皇にしたかったが、まだ7歳で幼なすぎる。そこでみずからが天皇(持統天皇)になり、軽皇子が成長したら皇位をゆずることにした。もくろみどおり、軽皇子は14歳で文武天皇となり、持統は太上天皇となった。これが院政のはじまりだった。
 西方浄土につながる二上山は、持統天皇という悪魔のような女帝に運命を翻弄された大津皇子らの怨念がたゆたっているのかもしれない。

皇位の父子承継神話は不比等の策

 軽皇子は14歳で文武天皇となり、大化改新の立役者中臣鎌足の息子である藤原不比等の娘を皇后とした。首皇子(おびとのみこ)が生まれたが、皇子が7歳のとき、文武天皇は25歳で夭折してしまう。
 不比等は政権最大の実力者として、律令制度をととのえてきた。首皇子が天皇になれば、天皇の祖父として盤石な権力が完成するが、文武のおじにあたる天武の息子が皇位を継承したら首皇子が天皇になれなくなる。あせった不比等は、文武天皇の母(草壁皇子の妻)を元明天皇として擁立した。皇后が女帝になることはあったが、皇后経験のない女性が天皇になるのは前例がなかった。さらにその次には文武の妻を元正天皇とした。その後にようやく首皇子が聖武天皇となった。この間、「父子承継が原則」というたてまえをかかげた。
 だが、実在したと考えられる15代応仁天皇以降、皇位は兄弟間で継承することが多く、父子の承継は少数派だった。一方、実在がうたがわしい初代・神武から13代成務まではすべて父子で承継している。「父子承継」を「古代からの原則」とするため、不比等は古事記・日本書紀を利用したのではないか……。上山春平は「神々の体系」でそう推測している。
 大津皇子の悲劇は、藤原氏の権力の源泉となった「父子承継」の確立にいたる象徴的なできごとだったのかもしれない。

河内とへだてる山は、宮都の盆地の西の結界

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 雄岳から馬の背という鞍部にくだって、整備された階段をのぼりつめると雌岳だ。
 芝生のような広場に大きな日時計やベンチがある。西は、大阪の高層ビル群や六甲山まで見える。東の奈良側は大峯山系の山々を遠くにのぞみ、大和三山のある奈良盆地を見下ろせる。周囲を山でかこまれた盆地はひとつの小宇宙を形成している。二上山はその西の境=結界だったということがよくわかる。
 二上山の西側の大阪府太子町には、敏達・用明・推古の各天皇や聖徳太子、小野妹子、蘇我馬子……といった、飛鳥時代の6,70年間の天皇・貴族が埋葬されている。
 都の飛鳥との距離は約20キロある。天皇らの遺体は飛鳥の殯宮でしばらくまつられ、遺体が白骨化すると、日本最古の国道(官道)である二上山の南の竹内街道で河内側へはこばれた。二上山の西は「西方浄土」と思われていたのだろう。

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中将姫が蓮の糸で織った曼荼羅が本尊

 雌岳から谷川沿いを一気に30分くだり、祐泉寺(天台宗)とため池の釣り堀をへて鳥谷口古墳に着く。実はここが大津皇子の墓であるという説が最近は有力らしい。山頂に墳墓をつくるのは不自然なのにくわえ、鳥谷口古墳のいかにも急ごしらえの石室が、突然の「移葬」に符号するからだ。

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 真柱一本で瓦葺きの屋根をささえるめずらしい「傘堂」(1674年に郡山藩主を弔うために建立)を見たあと、當麻寺の奥の院(庭園と宝物殿の拝観料500円)を参る。
 當麻寺はもとは三輪宗だったが、弘法大師が参籠して真言宗になり、その後、法然上人とのかかわりで浄土宗もかねることになり、2宗を並立する寺になった。奥の院は、京都の知恩院の奥の院もかねている。
 奥の院の本堂は法然上人をまつり、庭園も浄土宗的な造形だ。飛鳥時代の空気を期待したからちょっと拍子抜け。奈良では鎌倉時代が「新しい」と思えてしまう。

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 奥の院のすぐ下に、本堂と金堂と講堂がならぶ(拝観料500円)。當麻寺には8つの塔頭があるが、4,5カ所の塔頭がそれぞれ拝観料をとる。全部見学する気にはなれないが、とりあえず曼荼羅がご本尊になっている本堂を参拝する。

撮影禁止なので、お寺のHPから

 中心に4メートルほどの曼荼羅がかかげられている。曼荼羅をおさめる厨子は天平時代のものだ。曼荼羅にむかって右には中将姫29歳の像と平安時代の十一面観音がある。中将姫が曼荼羅を織るのをたすけた「織姫観音」だ。左側には弘法大師と、役行者の像がある。鬼をしたがえる役行者の妖怪のような顔を見ると、修験者が常人ではない天狗のように思われていたことがわかる。
 中将姫の伝説は、熊野古道沿いにある雲雀山得生寺(和歌山県有田市糸我町)ではじめて知った。
 中将姫は3歳で母を亡くし、継母によって「ひばり山」という山に捨てられた。そこで武士の夫婦にそだてられ、偶然父と再会し都にもどる。姫は當麻寺で出家し、極楽浄土への思いをつのらせていると仏の化身があらわれ、「蓮の茎で糸をつくりなさい」と言う。蓮をあつめて糸をつむぎおえると、ふたたび阿弥陀如来があらわれ、一夜にして曼荼羅を織りあげ、中将姫に極楽の姿をしめした。そして姫は29歳のとき阿弥陀の来迎をうけ極楽へ往生するーー。
 姫が捨てられた「ひばり山」の場所には2説ある。
 ひとつは、奈良県宇陀市の日張山青蓮寺。津村順天堂(ツムラ)は宇陀市で1893年に中将湯という漢方薬からはじまった。もうひとつが私が訪ねた雲雀山得生寺だ。

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 金堂の本尊は白鳳時代の弥勒仏で、四天王のうち3体も白鳳時代。外には、奈良時代につくられた日本一古いという八角形の石灯籠がある。講堂の本尊は藤原時代だ。京都とくらべても、奈良は歴史の奥行きがはるかに深い。

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相撲の開祖 当麻蹶速の塚

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 帰途、近鉄の駅にむかってくだっていくと「相撲開祖・當麻蹴速の塚」という五輪塔があった。
 當麻村にすむ力自慢の蹴速が「おれより強いやつがいるならでてこい!」と自慢していると、出雲の野見宿禰が名乗りをあげ、垂仁天皇の目の前で対決することになった。その結果、蹶速は腰骨をけり折られて殺され、野見宿禰は蹶速の土地をあたえられた。五輪塔は当麻蹶速の墓とされている。(建立は鎌倉時代だが)
 隣に「相撲館」という施設がある。当麻蹶速は、大言壮語して敗れた痛いヤツというイメージだが、素朴でいいやつだから貴族たちと反りがあわず、悪印象をあたえられてしまったといった説明書きがあった。

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