MENU

3年ぶりの久高島 秦氏と安徳天皇と鰹節伝説

 2025年7月、ドキュメンタリー映画「久髙オデッセイ」3部作をつくった大重潤一郞監督の没後10年祭に参加するため、久高島を再訪した。【2022年の日記はこちら→http://www.reizaru.sakura.ne.jp/wp1/?p=2316
 早朝、那覇からバスに乗り、斎場御嶽を参ってから安座真(あざま)港でフェリーに乗った。約30分で島の南西端にある徳仁港に着岸する。夏休みのせいか、観光客が多い。電動トゥクトゥクや電動キックボードは3年前にはなかった。

目次

共産主義的土地所有

 琉球王朝時代、沖縄では「地割制度」が採用されていた。共有地を住民に割り当てて使用させ、一定の期間が経過するとふたたび割り当てなおした。1899(明治32)年の「土地整理」で共有地は私有地化したが、久高島だけは耕地の94%が今も共有地だ。
 戦前は、男子が16歳になると「一地」を与えられ60歳になったら返却していた。「一地」あたりの面積は2反(20㌃)弱だった。戦後、家単位に配分する制度に改められ、家族の人数が多ければ「一地半」「二地」を割り当てた。女しかおらず農業外収入がない家には多めに割り当てられた。 1968(昭和43)年には、共有の土地はすべて字(あざ)名義での所有権保存登記がなされた。
(浮田典良「久高島の土地制度」=1962、伊藤栄寿「『神の島』沖縄・久高島における土地総有の意義」=2010)

貿易で稼ぎ1億円屋敷

大里家

 この日は、「大重祭り」参加者とともに「久髙オデッセイ」の登場人物である内間豊さんに案内してもらった。
「貴重な畑だけど、畑ではカネは稼げない。男が畑で耕していたら、あいつは甲斐性がねーって陰口をたたかれたもんだ」
 男の甲斐性は家を建てることだった。伝統的な家の石垣はぴっちりと積みあげられ「紙きれもはいらないほど」すき間がない。本土で切りだした石を小舟ではこび、手作業で加工して積みあげた。家1軒建てるのに今のカネに換算したら1億2000万円かかったという。
 では男たちはどうやってそのカネを稼いだのか。
 前回のガイドさんはこんな説明をしてくれた。
「男はウミンチュ(海人)として漁労をなりわいとし、静岡のカツオ船などに乗る人が多かった。女はカミンチュ(神人、神女)として農業に従事しながら祭祀を担ったんです」
 だが内間さんは「久髙の男は貿易で稼いだ」と断言した。
 内間さんの祖父は、沖縄から漆器などを薩摩に輸出し、帰りは屋久島で木材を積んで帰ってきた。屋久島に山を所有していた。そうして稼いだ現在のカネで1億円以上を投じて海岸の斜面を掘って立派な墓をつくった。

女性器をかたどった拝所

 大君口・君泊(うぷちんぐち・ちみんとぅまい)は、現在の漁港のあたりにある。公式の説明では、琉球国王や聞得大君(きこえのおおきみ)が上陸した場所となっているが、内間さんは「実は白馬に乗った安徳天皇がここに上陸したんです」と言う。そんな伝説があるのかどうか、あとで図書館で調べてみたが見つからなかった。

 外間殿の目の前には、四角く刈り込んだガジュマルの木がそびえる拝所「イビ」(または「ピ」)がある。内間さんによると、イビは女性器を意味し、この拝所じたい、女性器をかたどっているという。そう言われればそう見える。

五穀をもたらした壺は渡来人?

 イシキ浜にむかう。ヤシやアダンの森をくぐると白砂の浜がひろがる。この浜に五穀が入った白い壷が流れつき、西海岸の「ハタス」という畑に、麦を最初に植えたとされている。久高島に流れついた五穀が後に沖縄に全体に広まったという。

 だが内間さんは異論を唱える。

 壺が流れてもすぐに割れてしまう。遠くから漂着するわけがない。そうではなく、畑作技術をもつ中国の人たちが漂着したんです。浜の入口の小さな拝所は海ではなく陸にむけて祈る形になっています。それは、命を助けてくれた島への感謝を捧げたからです。ハタスの名は大陸からの渡来人の「秦氏」ではないかと思っています。秦始皇帝の命令で不老不死の薬を探しにきた徐福の船団の一部がここに漂着したとも考えられます

陸側を向いたイシキ浜の拝所

 「畑」という漢字は渡来人の秦氏から生じているという説はきいたことがある。
 内間さんの説に説得力を感じた。

鰹節発祥の地

 島の北端のハビャーン(カベール岬)は琉球を創造したアマミキヨが最初に上陸した地とされている。花びらが下半分にしかない不思議な花がある。クサトベラだろうか。ハワイにも似たような花があった記憶ががある。

画像

 モンパノキは水中眼鏡に使われた。ウィキペディアによると「1884年、沖縄の糸満において、海人(うみんちゅ)の玉城保太郎氏の考案で、本種の材が柔らかく加工しやすい上、乾燥しても変形しにくい特性を利用して、丸く削った内部をくりぬいてガラスを接着し、アダンの葉で作った紐をつけて水中眼鏡の材料とした」。
 久高島は「鰹節発祥の地」と内間さんは言う。インド洋のモルディブ・フィッシュは、生のカツオ(マグロ)を塩水で煮て日本の生利節のようなものにして、燻煙してから天日乾燥した。日本の荒節とおなじだ。日本では江戸時代に荒節にカビ付けをする技術が導入された。
 鰹節はモルディブからマラッカを経て久高島に伝わった。その技術がイラブーを加工する技術につながった……。大重監督はそう主張していた。
 モルディブから伝わったのか、モルディブと日本で同時発生したのかはわからないが、モルディブ伝来説をとるとしたら、久高島のイラブー加工技術が日本の鰹節につながった可能性は高そうだ。

イラブーづくり復活

イラブーを加工する小屋

 最後に、12年に1度、午年の年にイザイホーがもよおされていた久高御殿庭(くだかうどぅんみゃー)へ。ここにはイラブーを加工する小屋がある。まもなく今年のイラブーづくりがはじまるそうだ。
 イラブーづくりの技術は門外不出だ。撮影する際も映像をチェックして肝心の部分は外にださせない。
 かつては、久髙ノロと、外間ノロ、1人の根人(ニーチュ=男性神職)、祭祀の世話役である村頭2人だけがイラブをとる権利があった。ノロも根人も村頭もいなくなり、十数年間はイラブー漁ができなかった。2005年から字久高(あざ・くだか)が管理して再開し、漁をする人を住民から公募している。
 10余年中断したイラブーづくりを復活させたのは、内間さんだったという。

生きる力を与える女の島

久高島のコンビニ内間商店
商店のレジで内間豊さん

 夜、関東や関西から移住してきたお母さんたちと交流した。
 都会で元気がなかった小学生の息子が島の学校に「留学」し、イノーでの追い込み漁や祭りを体験して元気になって都会にもどった。今度は小学生の妹が不登校になり拒食症になってしまった。島の学校に転校すると、ごはんをおかわりするようになった……。
 海や風や神々とともにある久高島には独特のオーラのようなものがあり、そこにいるだけで元気になれるような気がしてくる。
 島の信仰の中心にあった外間ノロも久髙ノロもとだえてしまった。カミンチュとしての女の存在感がうすれることで、世俗的な男の権威が相対的に高まる傾向もあるらしい。でも数年前、大きなできごとがあった。
 内間豊さんの妻で、東京からのIターン者である内間映子さんが久髙区長に就任した。女性が区長になるのははじめてという。
 大重監督は「久髙オデッセイ」の撮影をはじめたばかりの2003年に「12年後には新たな祭りが再生する」と予言した。
 女性区長の誕生は、カミンチュの島の再生のはじまりのように思えてならない。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次