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沖縄に広まる熊野信仰 ニライカナイと補陀落が共鳴

2022年5月1日

熊野は「死の国」、水葬の名残は今も

 2015年から2年間、熊野の山と海を取材してまわった。熊野は出雲とならぶ「死の国」であり、明るく清浄だけど薄っぺらい伊勢とは正反対の存在感を感じた。

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花の窟

 イザナミの墓は、古事記では出雲と伯耆国の境の比婆山とされているが、日本書紀では熊野の有馬村の花の窟(三重県熊野市)と記されている。

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那智・阿弥陀寺の火生三昧跡

 平安時代には阿弥陀の縁日である15日に多くの僧が、自らの体を焼く「焼身行」を決行した。
「補陀落渡海」は、小舟に乗せられて補陀落という観音浄土へ向かった。那智勝浦周辺がその最大の拠点で、補陀落山寺の住職が60歳になると「渡海」していた。

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浜ノ宮王子

 那智では、死者の棺を海岸に運ぶ際、浜の宮王子の大鳥居までは生きている人の相手をするように話しかけ、鳥居を出ると念仏を唱えて葬式になったという。この習慣も補陀落渡海も「水葬」とかかわりが深いと考えられている。

 紀伊半島の熊野地方、とりわけ日置川以南では、すさみ町の上ミ山古墳と那智勝浦町の下里古墳の2つしか古墳がない。水葬が主流だったからだ。

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本宮大社旧社地「大斎原」。台風で増水すると中洲だとわかる

 熊野本宮大社(田辺市本宮町)の旧社地は熊野川と音無川、岩田川の合流する中洲にある。熊野川上流の十津川(奈良県)では水葬がおこなわれ、旧社地は遺骨が流れ着く場所だった可能性が高いという。
 新宮市の郷土史家からはこんな話を聞いた。
 葬儀の夜、親類10人ほどが無言で浜に出て、故人の着物を洗う。海から陸に一列にならび、陸側の人から髪をといて櫛を順々に手渡す。最後の人がその櫛を海に放つ――。
 古事記では、イザナギが妻イザナミの醜い姿を見て黄泉の国から逃げる際、追いすがる魔物に櫛を投げて時間を稼いだ。その話に似ている。
 この習慣も水葬の名残なのだろう。
 死者は、海のかなたへ帰っていくのだ。

洞窟が豊富な琉球を補陀落と信じた

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紀の松島。補陀落渡海の僧はこのへんから船出した

生きたまま小舟で船出する補陀落渡海は平安時代から江戸時代にかけて約50例が確認されている。大部分は海上で消息を絶つが、まれに陸地に漂着する人がいた。
 上野国に生まれた日秀上人は19歳のとき人を殺めて出奔し、高野山で修行を積んだ。
 補陀落渡海をこころざし、熊野の浜から小舟でこぎだして洋上を漂い、琉球国金武郡の富花津(現在の福花)に漂着した。1520〜30年ごろのことだ。

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金武観音寺

 日秀はこの地を「補陀落山」と信じ、洞窟を見つけ、そのわきにお宮を建てた。それが現在の金武観音寺と伝えられている。

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観音寺の洞窟

「日秀洞」という奥行き170メートルの巨大鍾乳洞が今も残っている。洞内には鍾乳石や石柱が垂れ下がり、金武権現(熊野三社権現)と大蛇伝説の水天がまつられている。
 日秀は村人に助けられたお礼に稲作などを指導したと伝えられている。

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波上宮

 日秀は琉球国王に招かれて首里に出て、那覇の海岸の崖の上に波上山三所権現(波上山護国寺と一体)を再興した。現在の波上宮で、「琉球八社」の首座を占める。戦争で失われたがハワイに住む日系移民の援助で1953年に本殿が再建された。
 日秀が琉球国王の目にとまって活躍できたのは、少なくとも15世紀には補陀落渡海僧が漂着し、熊野権現信仰が流入していたためだ。
 琉球には、はるか東の沖にニライカナイと呼ばれる他界があるという信仰があった。熊野の人も、海のかなたに補陀落という他界があると信じた。ニライカナイと補陀落の信仰とが共鳴したから熊野信仰は沖縄に広まったという。
 沖縄の代表的な神社「琉球八社」のうち安里八幡をのぞく7社は熊野の神をまつっている。これらの神社には熊野から送られたナギの木が植えられている。葉脈が平行で、熊野では神木とされている。

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識名宮

 首里郊外の識名宮は亜熱帯の木々に囲まれている。

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天久宮

泊港に近い天久(あまく)宮は学校のわきの斜面にあり、ちょっと上の丘には亀甲墓がならんでいる。

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左の丘の上に沖宮がある

 沖宮(おきのぐう)は、奥武山公園という運動公園の丘の上にある。かつては海沿いにあったが、明治41(1908)年に那覇港を築くため、8社のうち唯一熊野系ではない安里八幡宮に遷座され、1975年に現在の場所に遷座した。

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普天満宮

「普天満宮」は、琉球の王が毎年参拝していた。今も参拝客が多い。米軍・普天間基地のわきの国道沿いだが全長280メートルの洞窟がある。
 石灰岩だから沖縄は洞窟や鍾乳洞が多い。洞窟は他界への入口と信じられており、そこに本土からの信仰が習合したと考えられるらしい。

日秀は二度死んだ

 日秀は琉球で活躍したあと薩摩におもむき、島津氏の庇護を受けて勧進聖として活躍した。
 鹿児島県霧島市の日秀神社のある場所で晩年をすごし、裏手の岩場にある石室で3年間瞑想をつづけて入滅した。補陀落渡海と薩摩での入定と、日秀は2度死んだ。
 戦国時代の1577年のことだった。

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