MENU

熊野古道・紀伊路2 海南〜紀伊宮原

海南駅前の駐車場(24時間300円)に車を停めて、11時に出発する。

祓戸王子へ往復-2

熊野一の鳥居、という碑があり、「熊野古道」の提灯がある。山のほうへ歩き、祓戸王子に立ち寄るため枝道に入る。

祓戸王子へ往復-7

照葉樹の森に入ると、無数の石仏が小道沿いにならんでいる。八十五、十三とか、数字が刻まれたものも。
四国八十八カ所を意味しているのだろうか。よく見るといろいろな寺の名が刻まれているが、遍路の寺の名は見当たらないようだ。

祓戸王子へ往復-18

もしかしたら九十九王子を意味するのか、と思ったが、番号はバラバラで、番号がついてない石仏もある。百体以上が照葉樹の林と竹林のなかにならんでいる。これだけの石仏を維持してきた集落は「藤代」の名がついている。なにかおもしろいものがありそうな気がする。石仏の森を歩くだけでも寄り道した甲斐があった。
「祓戸王子跡」の碑は高さ2メートルほど。明治42年にたてられている。
もとにもどって、港の埋め立て地の工業地帯が望みながら歩く。赤白の煙突や高圧線があり、工場群からは、ブーンともキーンともつかない音が響いてくる。工業地帯は殺風景なのに、こちらの集落は落ち着きがある。
11時40分、「鈴木姓のルーツ」とされる鈴木屋敷の跡がある。牛若丸もここに滞在したらしい。

藤代神社-1

すぐに藤白神社だ。巨大なクスノキが森のように茂っている。たった5本の大木でこんもりした森に見えているらしい。
昭和の中頃までは、楠神さんにあやかって、子どもの名に「楠」の字を入れることが多かった。熊楠もそうだった。

藤代神社-11

境内には、秋葉神社や祇園さん、巴神社…といくつも小さな社がある。
大雲取と同じ名の「円座石」もある。亀石とも呼ばれ、この石に酒をのませて祈願すれば酒嫌いになるといわれ、今は深酒を心配して健康を祈る家族の姿が見られるという。酒造りの神もいれば、酒断ちの神もいるのか。

藤代神社-14

向かって右奥には有間皇子神社がある。この近くで処刑されたのだ。テロリストの哀しみを感じさせてくれる。神社の壁に「鈴木さんいらっしゃい 藤白鈴木会」と記されていた。よりどりみどりの神社だ。

有間皇子の墓-2

12:00発。すぐに有間皇子の墓があった。すぐ近くに「丁石地蔵」も。17体の地蔵が1丁ごとに峠まで置かれていたが、昭和56年に存在するのは4つだけ。その後に17体に復元したという。いったい誰がなぜ復元したのか。

丁石地蔵五丁まで-4

雑木と竹の山をのぼっていく。背後の工業地帯からは、ゴー、キーンという音が響いているが、森をのぼると、その音が小さくなり、かわりにウグイスの声が聞こえる。

丁石地蔵五丁まで-3

二丁、三丁と丁石地蔵があり、七丁の地蔵には屋根があり、色紙の鞠や鮮やかな花がかざってある。

丁石地蔵七丁まで-4

小さな丁石地蔵にも、後ろに熊手のような道具が置いてある。それで定期的に掃除をしているのだろうか。

丁石地蔵十二丁まで-6

筆捨松と硯石まで-1

12:34、筆捨松と硯石。筆捨松の逸話に因んで、徳川頼宣の命令で硯の形をほらせたと伝えられる。

筆捨松と硯石まで-6

硯石はかつて筆捨松の根元に立っていたが、昭和58年の水害でうつぶせになって埋もれた。それを掘り起こして復元したのが平成15年11月3日。重さ約10トンという(熊野古道藤代坂顕彰会)。
十七丁の地蔵をすぎて舗装道路に出ると地蔵尊がある。これが峠だろう。地蔵峰寺本堂は室町中期に建立され重文に指定されている。きれいなトイレがあるのがありがたい。このコースは要所要所にトイレが整備されている。旧下津町は歴史発掘に力を入れていたのだろうか。

鯉の池-1

ちょっと下ると、池にたくさんの錦鯉が泳いでいる。その上には鳥よけのためか、多くの紐が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。周囲の家8軒が鯉の朝晩のえさを用意しているという。「えさ代の協力を」という募金箱があった。
家から出てきたおばさんに尋ねると、この池の鯉は「お地蔵さんのコイ」で、肺病にかかったときに生き血を飲んだという。「今はフナばかりや。ひもをはっていても、鳥におそわれてきれいなコイは食われてしまう」という。このへんはミカン農家ばかりという。

ミカン山を下る-6

ミカン畑の斜面を下る。ハッサクより少し小さな晩柑類が鈴なりになっている。

橘本神社-所坂王子まで-2

谷間の集落まで標高差200数十メートルを一気に下る。川を渡ると、宿場町風の落ちついたまちだ。

橘本神社-所坂王子まで-4

13時半、所坂王子のある橘本神社に着いた。塔下王子社と橘本王子社を合祀し、橘本神社となった。
田道間守(たじまもり)が主神。この神様は、垂仁天皇の命令で、常世の国から橘の木を持ち帰り、日本で最初に植えた。日本で最初のミカンができて、菓子になったことから、ミカンと菓子の神としてあがめられているという。

橘本神社-所坂王子まで-6

田道間守が持ち帰った非時香菓(ときじくのこのみ)が、境内に植えられている。今のミカンの原種だという。キンカンよりひとまわり大きい程度の実がなっている。
ミカンだらけの谷間の里は落ちついた雰囲気がある。ミカンにまつわる伝承が豊富なのかもしれない。
大正11年に皇太子(昭和天皇)が植えたという楠がある。こんな山奥まで来るには、なにか理由があるはずだけど。

市坪の集落-7

谷川沿いをさかのぼると、「泣き相撲の里 市坪」という看板があった。風力発電の風車がならぶ稜線の方向へのぼる。1号橋、2号橋…と対岸の家などを結ぶ橋がわたしてある。すごい数だ。
14時、「村社 山路王子神社」が一壺王子跡で、泣き相撲の神社でもあった。

山路王子神社-一壺王子-3

4段の石垣の上に社殿がある。両脇に三つずつミニチュア社殿があり、さらに石をまつった「石神」もある。合祀した神社なのだろう。落ちついた雰囲気の神社だ。

山路王子神社-一壺王子-4

ここから峠まで「1時間」と書いてある。川がコンクリートでかためられているのは残念だが、ところどころ石垣が残っている。

沓掛の山の集落へ-2

23号橋まで終わると、ミカン山に入る。
ミカン山を、のぼってものぼっても家が点在している。「沓掛の松」はかなり上なのに児童館もあった。

沓掛の山の集落へ-10

さらにのぼると、谷が狭く浅くなり、ちょっとゆるやかになった斜面に2,30軒の家が密集している。標高240メートルほど。まさに隠れ里だ。

沓掛の山の集落へ-13

こうやって下から登ってくると、ミカンづくりの大変さがわかる。ミカン価格が下落すれば、条件の悪い畑は荒れる。息子は帰ってこられなくなる。ミカンで栄えたころは後継者もいたのだろう。「柑橘自由化は悪影響はほとんどなかったから、米自由化も大丈夫だ」と25年ほど前、職場のおえらいさんが言っていたが、悪影響がないのではなく、我慢していただけなのだ。そうやって、農村は力を失い、自律的なまちづくりの基盤が崩壊してしまった。輸入自由化の影響は、条件の悪いところに来てはじめてわかるものなのだ。

尾根間近の梅林へ-5

のぼりつめて尾根に近づくと梅畑があらわれた。石神梅林も、薪炭林→梅→ミカン→米、の順番でつくられていた。
まもなく峠の車道に出た。

ミカン山間違えて下りる-1

ミカン畑のなかを下って道に迷った。
峠の近くまで登りかえした。

ミカン山間違えて下りる-8

尾根近くの車道をたどると、蕪坂塔下王子址があった。トイレがあるのがありがたい。

太刀の宮へ-3

急坂を下る。ちょっとした森のなかに社があったり、屋敷があったり。こんな山の上に集落ができたのはなぜだろう。ミカンで発展したからだろうか。

爪書地蔵まで-5

爪書地蔵は、祠のなかに、弘法大師が爪で書いたと伝わる地蔵があるそうだ。

山口王子まで-2

ミカン山を下り、15:50(13.56キロ)、児童公園のように整備された山口王子社跡に着いた。

山口王子まで-5

宮原神社に合祀され、一度はなくなったが平成3年に北側の畑のなかに再祀され、平成17年に本来の場所のそばに移されたという。
16時、伏原の墓。参詣の途中でなくなった人たちの墓。集落のなか、民家の目の前の一角にあり、きれいに掃除をしてまつっている。

紀伊宮原駅まで-1

集落の道をくだっていくと、スーパーがあり、大きな旅館もある。昔は役場があったのだろう。

紀伊宮原駅まで-4

いつのまにかまちに入り、鉄道の線路をわたった。

紀伊宮原駅まで-11

大きな川に出る直前を右に折れ、16:20に紀伊宮原駅に到着した。きょうは15.5キロ歩いた。(2016/03/05)(つづく

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次