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歩きつづけた近江商人 武器は情報力202109

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ネットと市町村史

 ネット上には情報があふれているが、問題意識をもたずに漂うのは、分厚い市町村史を頭から通読するのに似た徒労感に襲われる。でも具体的な関心や疑問、「調べたいこと」があれば市町村史もインターネットも一転して有益な情報源になる。
 ある土地の「調べたいこと」を得るには歩くのが一番だ。できることなら目的地だけではなく、周囲の3、4キロは散策したい。

寺社と水路が美しい金堂の街並み

20210909田んぼの野神社へ (8 - 9)

 北前船を生みだした近江商人を理解する糸口がほしくて、琵琶湖岸の能登川駅におりた。旧五個荘町(東近江市)の近江商人博物館まで4キロを歩くことにした。
 広々とした水田の用水路沿いにアジサイと桜が植えられている。その先の田んぼのなかにある「野神社」は、稲穂の海に浮かぶ小島のようだ。もとは宮荘川の源泉「河曲池」付近にまつられていて桜の大木がご神体だったという。
 水田を突っ切ってお椀を伏せたようなこんもりした山に近づくと、金堂という集落に入った。近江商人のふるさとで、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

20210909金堂水路 (2 - 4)

 愛知川の伏流水を水源とする水が流れ、錦鯉が泳ぎ、水路に地蔵がまつられ、花も飾られている。水のある集落は独特の落ち着きを感じられる。点在する近江商人の屋敷は庭に水路の水を引き込んでいる。

20210909金堂弘誓寺 (3 - 6)

 真宗大谷派の弘誓寺は城のような白壁に囲まれ、本堂も豪壮だ。ほかにもいくつも寺がある。「大城神社」も大きな鳥居とがっちりした拝殿・本殿を備える。寺社の規模と数の多さが地域の財力を物語っている。

先進的商人が生まれる条件

 北陸や北海道の北前船寄港地では、近江商人の先進性を目の当たりにしてきた。
 北国の鰊粕などを上方に運ぶ際に北陸の船をチャーターしたことで、商売を覚えた船主が独立して北前船が生まれた。上方に紅花を運び、山形に膨大な富をもたらしたのも近江商人だ。
 なぜこんな田んぼのまんなかにそんな商人が生まれたのだろう。近くにある近江商人博物館を訪ねた。
 近江商人は五個荘だけではなく、八幡や日野町からも出ている。琵琶湖西岸の高島は「高島屋」の創業者の出身地だ。
 商いの能力が育まれた理由のひとつは、中山道や御代参街道、八風街道、朝鮮街道といった街道や琵琶湖の水運があるという。各地の情報がいながらにして集まる立地だった。
 戦国時代、交通の要衝だから多くの武将が割拠した。織田信長は安土城を築き、楽市楽座によって商人を集めた。信長が倒れて行き場を失った武士が商人化したという説もあるらしい。

20210909金堂 (7 - 31)

 近江商人は行商からはじまった。麻布や蚊帳、薬品といった商品を天秤棒で諸国にはこび、帰りは諸国の産物をもってかえった。「持下り商い」と呼ばれた。旅を通して各地の需要と供給況や、地域の価格差などの情報を収集した。
 綿や麻の織物を商ったある商人は、1年間で奥羽を2度訪れ、山陰に木綿の仕入れにもでかけ、年間1000里(4000キロ)を歩いたという。
 もしかしたら約25キロ南の里を拠点とする甲賀の忍者とも関係があったのかもしれない。
 旅先になじみができると、そこに馬や船で商品を別送し、その土地の商人に売るようになった。近江商人の行商は、小売行商ではなく大量の商品をあつかう卸行商だった。
 資本をたくわえると、主要な町に出店や枝店(支店)を開いた。出店の情報ネットワークによって価格差の情報を集め、各地の出店のあいだで商品をまわす取引は「諸国産物廻し」と呼ばれた。都市の商品を地方に売ることで文化を伝え、地方商品の仕入れることで産業育成に貢献した。総合商社のさきがけだった。
 異境で行商し出店を構えるには、土地の人から信頼を得る必要があった。それが「買い手よし、売り手よし、世間よし」という「三方よし」の心得を生んだ。背景には浄土真宗などへの篤い信仰があった。
 1860年3月3日朝、井伊直弼が桜田門外で暗殺されたとき、藩主殺害の一報が彦根藩に届いたのは7日夜だったが、近江商人の丁吟にはそれより半日早い7日正午に届いていた。
 当時の近江商人は最先端の通信網を築いていたのだ。

寺子屋で算術と女子教育

 五個荘では、商人を育てるから寺子屋が発達した。五個荘には10カ所あり、算術の授業をほどこす比率は、全国では2割だが五個荘では7割だったという。
 商家の主人は1年の大半を旅して歩き、出店につとめる支配人らは単身赴任で長く故郷を留守にする。その間は、女たちが家を仕切る。教養を求められるから10歳前後から女の子も寺子屋で学んだ。五個荘では寺子に占める女子の比率が高かったという。

歩かなくなり輪島塗は衰退

連休の朝市-16

 近江商人について調べていたら、能登半島の輪島塗の歴史を思いだした。
 輪島には、製品を企画し、職人につくらせ、全国に売り歩く「塗師屋」と呼ばれるプロデューサーがいた。全国の得意先を訪ね歩き、それぞれの土地の文化を持ち帰り、それを漆器づくりに生かした。モダンな文化を身につけた塗師屋は、旅先でも「輪島様」とありがたがられ、テニスやバイオリンを教える塗師屋もいた。
 ところが高度成長期以降、多くの業者が、塗師屋による直接取引から、問屋や百貨店を通した取引に転換した。バブル期までは飛ぶように売れたが、それと引き換えに、全国の文化や情報を輪島にもたらした塗師屋のシステムが失われた。
 バブル崩壊後は価格競争にさらされ、情報収集能力を失った輪島塗は衰退を余儀なくされた。
 一方、今でも元気な輪島塗の業者は、社長やスタッフが足繁く消費地を訪ねている。「歩く」ことが基本なのだ。

歩くだけでは近江商人にはなれない

 帰りは、往路とは異なる道を5キロほど歩いた。
 宮荘町という地区にある五箇神社も立派なつくりだ。1857(安政4)年につくられた日本最大級のみこしがある。高さ3.8メートル、長さ8.45メートル、幅1.8メートル。80人以上の担ぎ手が必要だという。
 往復十数キロ歩いて、汗だくになって能登川駅に着き、新快速に乗った。
 歩く大切さは再認識できたものの、私にできるのは旅行記を書くことぐらい。稼ぎにはならないし、他人に役立つわけでもない。
 歩かないよりはましだけど、富を生みだし、地域社会に貢献した近江商人との才覚の差を実感させられた1日だった。

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