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熊野古道・紀伊路⑧峠道から醬油の町へ(拝ノ峠~湯浅)

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巡礼の墓

20210508太刀の宮 (2 - 2)
20210508爪かき地蔵 (5 - 6)

 拝ノ峠から少し歩くと有田市に入る。尾根から下ると、蕪坂塔下王子跡、太刀の宮(かつての道祖神)、「爪かき地蔵」とつづく。「爪かき地蔵」は自然石に阿弥陀仏と地蔵を線刻している。室町時代の作だが、弘法大師が爪で描いたと伝えられている。現地では暗くて見えなかったが後から写真を見ると、たしかに地蔵が描かれていた。

20210508伏原の墓 (2 - 2)

 ふもとの集落の「山口王子跡」の先に、亡くなった巡礼者の墓石や板碑を集めた「伏原の墓」がある。遠州榛原(静岡)や丹州福知山という文字も刻まれている。四国の遍路道でも行き倒れた人の墓をあちこちで見かけた。野垂れ死にも幸せな死に方かもしれないと、ぼくは思った。

峠の茶屋の真夏のみかん

20210508糸我稲荷神社 (2 - 3)

 JR紀勢線を横切り有田川に出ると、渡し場の跡がある。県道の橋で対岸に渡り、金色の菩薩(ぼさつ)姿の子どもが練り歩く「中将姫会式(ちゅうじょうひめえしき)」で知られる得生寺を経て、伏見稲荷(京都)より古い日本最古の稲荷神社、糸我稲荷神社に立ち寄った。樹齢500年以上という大楠3本が境内を覆っている。隣には無料の「くまの古道歴史資料館」がある。
 農村集落の糸我王子跡からふたたびみかん山の急坂を登る。30分で標高167メートルの糸我峠だ。峠は2015年、国史跡「熊野参詣(さんけい)道」に追加指定された。かつては茶屋があり、冬に収穫して貯蔵しておいたみかんを真夏に売り、そのみずみずしい甘さが旅人を驚かせたという。冷蔵庫もない時代、どうやって何カ月も保存したのだろう。
 反対側に下った集落の逆川神社が逆川王子跡。逆川の名は、ふつうは海のある西に向けて流れるのに、東向きに流れているためだ。
 県道を下って湯浅の町に入った。

旧街道は昭和のにおい

20210508湯浅の街並み (19 - 19)

 魚屋や洋品店、宝石店、薬局……昭和の雰囲気を残した通りはシャッターがめだつ。高さ235センチの「立石道標」には、「北 すぐ熊野道」「東 きみゐてら(紀三井寺)」「右 いせかうや(伊勢高野)」と彫られている。1838(天保9)年に立てられた。ここが湯浅の中心だった。郊外の国道が整備されるまでは主要道で繁華街だったのだ。昭和の雰囲気は懐かしいけれど、昭和は「熊野古道」という名にはそぐわない。
 街道の西に広がる江戸時代のたたずまいを残した一角は「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれている。
 鎌倉時代の僧、覚心が、夏野菜を漬ける径山寺(金山寺)味噌の製法を中国から伝えた。この味噌をつくる際ににじみ出た液体が醬油のはじまりと伝えられている。
 江戸時代の湯浅は最大92軒の醬油業者でにぎわい、独特の町並みが形成された。湯浅から千葉県銚子市に渡った人がヤマサ醬油を創業した。
 だが醬油業界は大手5社が圧倒的な力をもち、地方の小規模業者の大半は廃業した。湯浅の醬油業者も3社に減った。

20210508湯浅の街並み (9 - 19)

 深専寺(じんせんじ)という屋根が立派な寺の山門脇に「大地震津波心得の記」がある。1854年の安政南海地震の体験をもとに住民らが建てたという。
 JR湯浅駅には土蔵をかたどった3階建て駅舎ができている。「湯浅えき蔵」と名づけられ、図書館やカフェを併設している。隣に平屋建ての旧駅舎が残っていた。古びた昭和の駅舎の方が心が落ち着く。
 無数のツバメがブーメランのように夕空を切り裂いている。国道42号わきの、看板だけの久米崎王子跡を見学してこの日の行程を終えた。(つづく)

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