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熊野古道・紀伊路⑫津波を防ぐ島は神様(切目~田辺)

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みかんから梅へ

20210606中山王子へ (5 - 11)

 切目神社(印南町)の鎮守の森から下るとすぐ切目の町だ。仕出し屋やたばこ、パチンコ、接骨院……ほとんどシャッターを閉じているが、にぎやかな時代があったのだ。
 切目駅で紀勢線の線路をくぐり、急坂をのぼりつめた海を望む稜線に中山王子神社があった。
 本殿わきの小さなお堂は明治期に合祀された「足の宮」だ。
 足を痛めて死んだ山伏を村人が丁重に葬ったところ、墓標が山吹色に輝いた。以来、足の病気を治してくれるようになったという。小さな祠にはミニ草鞋やサンダルが奉納され、本殿よりも存在感がある。2本の杖をついてよたよた歩いてきたおばあさんは
「こんな足が悪くなるなんて思わなんだ。御利益を信じて毎月参ってるんです」と語った。

20210606梅の山を下る (3 - 8)

 笹が生い茂る農道を下る。いつのまにか柑橘ではなく、青い実をたわわに実らせた梅の木に囲まれている。地面には果実を集めるためのネットが敷かれている。
 緩やかな坂道を下りきるとビニールハウスの向こうに鹿島があらわれ、「南高梅」のみなべ町に入った。
 高田貞楠氏が1902年に優良種を発見。戦後、地域に適した優良品種を統一するため、梅優良母樹選定委員会が設置され、委員長だった南部高校の竹中勝太郎氏が生徒と協力して選抜した品種だ。南高梅の名は「南部高校」に由来する。

ウミガメの味

20210606岩代王子 (5 - 6)

 有間皇子が松の枝を結び、自分の命の無事を祈って歌を詠んだという結び松の碑を経て紀勢線の踏切を渡ると木立の向こうに太平洋と砂浜が広がった。ドドド、ザザァ……という潮騒に包まれる。砂浜のわきに岩代王子があり、海側に鳥居が立っている。
 峠を越えてふたたび線路をくぐると全長1.3キロの千里の浜だ。
 弧を描く砂浜は毎年5月から8月にウミガメが産卵に上陸する。
 約30年前、中米ニカラグアのカリブ海側を旅していたとき、ウミガメの肉のステーキや肉団子を食べた。きめ細かいたんぱくな肉だった。だが5年前に千里の浜で古老に尋ねると「脂っこくて食べられたものではない」と言っていた。ウミガメの種類によって味がちがうのだろうか?
 小笠原諸島では今も年間135頭のアオウミガメの捕獲が許され、亀肉をふつうに食べている。本州にあらわれるのはそれとは異なるアカウミガメだった。
 砂浜の片隅の石垣の上に千里王子神社がまつられている。「貝の王子」と呼ばれ、足利義満の側室、北野殿は浜で拾った貝を奉納した。手を合わせていた若い女性2人が、
「貝殻をとってこなきゃ!」と叫んで浜に駆けだした。
 広い浜に打ち寄せる波は、太平洋の反対側のエルサルバドルの砂浜で30年前に聴いた波音や、ハワイの黒い砂浜のパラソルの下で聴いた音と変わらない。どの国でもどの時代でも、波のリズムは心をしずめ、透明なさびしさで全身を包んでくれる。時空を超えるリズムと効果はお経に似ている。

20210606千里観音 (2 - 6)

 王子跡から石段をのぼった千里観音境内にはウミガメの展示施設が2018年に新設されていた。

町を守った鹿島

20210606三鍋王子へ (2 - 8)

 梅畑が点在する尾根を歩き、「南部峠の石造地蔵」から一気に下るとみなべの町に入る。しっくいや土蔵造りの旧家が点在する。かつての繁華街「みなべ中央通り商店街」を歩くと、「なんば焼き」という店が目についた。かまぼこのことらしい。
 町の端っこの三鍋王子神社はクスノキの巨樹に覆われている。境内の巨石のほとんどは、安養寺という寺の板状卒塔婆(板碑)という。

20210606鹿島神社へ (5 - 6)

 海沿いの鹿島神社は、明治のはじめまでは沖に浮かぶ鹿島にあり、現在の境内は遙拝所だった。周囲1.5キロの鹿島は3つの岩山で構成され、まんなかの平らな砂浜はカヌーで上陸できる。東側の小山に旧鹿島神社の社殿があった。
 鹿島があったから、大津波での南部の町の被害は軽かった。南部町史は次にように記している。
 宝永4(1707)年は大津波が3回襲い、印南地方、名屋浦(御坊市)の民家がほとんど流出。広村(広川町)で85%の家屋が流失した。南部町では、鹿島の山を5つ6つ重ねたほどの津波が押し寄せ、山内村の家のほとんどが流失したが、南部の中心は、鹿島のおかげで被害が少なかった。
 嘉永7(1854)年の津波では、紀州の被害は「流死699人、流失焼失家屋8522軒、寺社流失8軒」だが、南部町内の状況は「壊れた家5軒、流失した家8軒……」。この地震でも、鹿島のおかげで被害は他村に比べて非常に少なかった。
 昭和21(1946)年の大地震と津波は、和歌山県内で死者・行方不明269、家屋全壊2439、流失316,全焼2399、浸水1万6818だった。南部町では、死者1人、家屋全壊4戸、半壊3戸、浸水18戸。印南や由良、田辺市に比べて被害は軽微だった。
 この津波については町史に手記が掲載されている。
「コハ安政の大津浪に見ると同じ鹿島の御山に当たり二ツにわれて一ツは目津崎方面に一ツは田辺沖とに行き為めに高浜を越えて南部川に山内に押し込み芳養田辺、新庄になだれ込み大被害を与えたり……古よりの津浪の記又この度の津浪を見て南部の町は鹿島の御神徳により津浪は絶対に安全にして……」
 一方、鹿島にあたって左右に割れた津波が襲った地区の被害は甚大だった。だから今もそれらの地域には鹿島神社の氏子がいないらしい。

モチガツオで紀伊路完結

20210606潮垢離浜跡へ (6 - 7)

 田辺市に入り、芳養王子跡である「村社大神社」や、巨木の下の祠に青面金剛像と地蔵がまつられた「芳養一里塚」、市民が土地を購入するナショナルトラスト運動によって別荘開発計画を止めた天神崎を見学して、児童公園に立つ「潮垢離(しおごり)浜」の碑を見つけた。ここから参詣道は海を離れて中辺路に入る。多くの参詣者が浜で身を清めた。風邪をこじらせていた藤原定家も10月の海に入ったという。
 出立王子跡の近くの浄恩寺には和佐大八郎と備中屋長左衛門の墓がある。
 紀州藩士の和佐は京都・三十三間堂での通し矢で一昼夜で1万3053本を放って8133本を的中させた。だが、弟が大八郎の妻に恋文を届け、大八郎が弟をかばうため家来に罪をかぶせようとしたことがばれて田辺城下に幽閉され51歳で病没した。
 備中屋は炭問屋で、ウバメガシを高温で焼いてつくる火力の強い備長炭を創始したと伝えられている。

20210606北新町の道標へ (5 - 5)

 旧会津橋をわたると田辺のまちに入る。看板屋、紙屋、畳、薬、船具、時計宝石……。シャッターだらけだが、すべての店が開いていた時代のにぎわいは想像できる。そんな繁華街で熊楠は飲み歩き、暴れ、ゲロを吐いていたのだ。
 商店街の一角に「左り くまの道 すくハ 大へち」「右 きみゐ寺」という高さ218センチの四角柱の道標がある。
 ここから先の中辺路は2015年に歩き、「寄り道 熊野古道」という計50回の連載記事を朝日新聞に書いた。今回大阪からの「紀伊路」を完歩することでやっと大阪から熊野三山までつながった。

20210606田辺飲み屋街 (2 - 10)

 夜、200軒以上の飲食店がひしめく「味光路」を歩いた。かつて「親不孝通り」と呼ばれた和歌山県最大の繁華街だ。

20210606田辺きさくモチガツオ (2 - 2)

 行きつけだった居酒屋で紀南名物のモチガツオを頼んだ。餅のように舌にへばりつく新鮮なカツオの刺身だ。毎日のようにモチガツオをむさぼった4年前の春を思い出した。(紀伊路編おわり)

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